第17話 読んで欲しいもの

 これでいつでも連絡が取れますね、と瑠衣さんは言った。

 その後、毎日遊びに誘いますと冗談めかしたように続けた。

 実際にメッセージが届いたのは、連絡先を交換してから三日が経った頃だった。けれどそれは遊びの誘いではなかった。


『結斗くんに読んで欲しい原稿があるんです』


 読んで欲しい原稿。

 分からないが、瑠衣さんの頼みだ。了承の返事をした。

 その日の夜。ベランダに出た俺に、瑠衣さんが紙の束を渡してきた。それは印刷された五十枚ほどの原稿用紙だった。右上をクリップで留めている。


「これが例の原稿ですか?」

「はい」

「商業の小説じゃないですよね」

「私が書いたものです。ゼミで短編小説を書く課題が出まして。提出する前に、結斗くんの意見を伺いたいなと」

「俺でいいんですか」

「結斗くんの目を、私は信頼してますから。ぜひ忌憚のない意見を聞かせてください。読むのは時間がある時でいいですから」

「分かりました。そういうことなら」


 正式に引き受けることにした。


「ボロクソに扱き下ろしてくれることを期待してます」


 と冗談めかしながら瑠衣さんが微笑む。

 瑠衣さんは提出日の前日までに読んでくれればいいと言ってくれていたが、俺は翌日には早速読むことにした。

 感想を聞いて原稿を直す時間はいるだろうし、何より俺自身、瑠衣さんの書いた小説を早く読んでみたかったから。


 自室。机の前に座り、五十枚ほどの原稿用紙と対峙する。読む前に風呂に入り、万全の態勢を整えていた。

 瑠衣さんが真剣に書いた作品だ。俺も真剣に向き合いたかった。


 息を呑む。

 一行目を読み始める。文章の海に潜る。目の前に、鮮やかな世界が広がる。それは見たこともない煌めきを放っていた。

 息をするのも忘れるほどに、夢中で潜り続けた。

 気づいた時には、結末に辿り着いていた。あっという間だった。

 読み終えた後、俺は放心していた。余韻の棘が刺さって抜けなかった。この物語が終わらないで欲しいと心から思った。遅れて胸の奥に熱いものが去来する。


 気づけば俺はルインのメッセージを打っていた。

 宛先は瑠衣さんだった。読み終えたから今から感想を伝えたいと。文面じゃなく、面と向かって直接伝えたかった。

 すぐに返事は返ってきた。

 ベランダに出ると、すでに瑠衣さんも来ていた。タバコを吸いながら、俺の姿を見るとひらひらと手を振ってくる。


「随分と早かったですね」

「他にすることもありませんから」


 俺がそう言うと、瑠衣さんが笑う。そして尋ねてきた。


「どうでしたか? 感想は」

「面白かったです」と俺は真っ直ぐに告げた。「本当に面白かった。今まで読んだ作品の中でも随一でした」


 原稿を読み始める前、実を言うと少しだけ怖かった。

 もし、瑠衣さんの書いた原稿がつまらなかったら。俺が初めて出会った魅力的な人が実は凡俗だったと知るのが怖かった。

 でもその心配は杞憂だった。


 物語の筋自体はシンプルだった。

 けれど、描写が卓越していた。

 瑞々しくて、手垢がついていなくて、美しかった。

 誰かの言葉を借りるのではなく、自分の言葉で世界を語っていた。こんなふうに世界を見ることができる人がいるのかと感動した。


「面と向かってそう言われると、照れてしまいますね」


 瑠衣さんはタバコの煙を吹かしながら、照れ臭そうに微笑む。そして灰を手元の灰皿に落とした後にぽつりと切り出した。


「実はその短編、もう提出したものなんです」

「え?」

「ゼミ生の人たちには酷評されてしまいました。描写が奇を衒いすぎてるとか。物語の筋を軽視しすぎてるだとか」


 すでに提出したものを、俺に見せてきた。しかも、酷評されたものを。

 その理由を瑠衣さんは教えてくれた。


「自分では結構上手く書けた自信があったんです。だから、結斗くんに読んで貰って正直な意見を聞いてみたかったんです」


 瑠衣さんはそう言うと、


「ゼミの人たちからは酷評された。それを踏まえた上でも、面白いと思いました

か?」

「それは他の人の見る目がないだけです。瑠衣さんの書いたこの作品は面白いです。誰が何と言おうと。絶対に。俺が保証します」


 断言できた。

 瑠衣さんが書いたからじゃない。純粋に一読者として惹きつけられた。今まで読んだ本の中でも一番と言っていいくらいに。

 だから、何の衒いもなく言える。


「俺は、瑠衣さんの書いたこの作品が好きです」

「…………」


 瑠衣さんはぽかんとした表情を浮かべていた。指にタバコを挟みながら、どこか驚いたように目を丸くしている。

 それを見て、はっと我に返る。


「あ、いや、すみません。熱くなってしまって」

「いえ」


 瑠衣さんは首を横に振る。

 そしてタバコを咥えた後、静かに微笑んだ。


「結斗くんにそう言って貰えて、自信になりました。結斗くんが気を遣ってお世辞を口にしないことは分かってますから」


 百パーセントの肯定しかしない相手はつまらない、と以前瑠衣さんは言っていた。

 そして俺がそうではないことを彼女は理解している。


 だから、俺が口にした感想は、瑠衣さんにとっては一定の価値がある。


 もちろん、嘘偽りのない本心を述べただけだ。

 それでも、少しでも彼女の役に立つことができたのならよかったと思った。


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