第16話 アイコン

 空いてる時間を見つけて、瑠衣さんに貰った文庫本を読んだ。


 学校の休み時間。バイトの休憩時間。寝る前の時間。

 退屈でつまらない時間を、物語は紛らわせてくれた。

 

 文庫本のページからは微かにタバコの匂いがした。

 瑠衣さんがこの本を読みながら、吸っていたのだろう。

 燻製にされたページを捲りながら、その姿を想像する。

 隠れ家のような喫茶店。テーブルの上には灰皿にタバコの箱。それに珈琲。瑠衣さんの白くて細い指が静かにページをめくる。その音が、店内に響き渡る。

 

 瑠衣さんから文庫本を贈って貰った五日後。

 バイト終わりの夜のベランダ。俺はいつもの雑談の間を縫って読了したことを彼女に伝えた。


「随分と早いですね」

「暇だけは売るほどありますから」


 実際のところは、もっと早く読み終わっていた。

 瑠衣さんから本を貰った、その翌日にはすでに読了していた。

 でも昨日の今日で読んだと伝えるのは抵抗があった。何というか、あまりにもがっつき過ぎだと思われそうで。もう少し日を置いた方がいいと思った。

 過剰な自意識だった。


「うれしいです。感想を聞いてもいいですか?」


 けれど瑠衣さんはそんな俺の過剰な自意識のことなど露知らず、無邪気な面持ちと透明な声色で本の感想を尋ねてきた。

 俺は感想を伝えた。読んで思ったこと、感じたことを口にする。自分の感性の網はこの物語をどういうふうに捉えたということを。

 熱に浮かされたように語り終えた後、ふと気づいた。

 俺は感想を通して、自分の感性を誇示しようとしていたことを。彼女によく思われたいという想いが漏れ出してしまっていた。

 そのことに気づいた瞬間、吐き気を催すほどの自己嫌悪を覚えた。

 俺は自分のために作品を利用しようとしていた。

 それはもっとも唾棄すべき行為のはずだった。


「なるほど。結斗くんはそう思ったんですね」


 瑠衣さんはそんな俺の卑小さを見抜いていただろうか。

 見抜いた上で、見て見ぬフリをしているのだろうか。

 見抜かないで欲しいという気持ちの反面、見抜いて欲しいという気持ちもあった。


「ふふ。感想を聞けてよかったです」

「楽しそうですね」

「好きな本を人に読ませて感想を聞くのは、セックスより気持ちいいそうですから」と瑠衣さんは歌うように言った。

 

 セックス、という言葉がいきなり出てきてどきりとした。

 普段の会話ではあまり口にする機会のない言葉。でも、背伸びした感じはない。発したその言葉は彼女に馴染んでいた。

 俺が同じ言葉を口にしても、こうも自然にはならないだろう。


「比較しようがないから、俺にはよく分からないですけど」

「試してみますか?」


 え、と言葉が漏れそうになった。実際、漏れていたかもしれない。


「結斗くんの好きな本を私に読ませてください。そしたら読んで感想を言います。私だけが良い思いをするのは不公平ですから」

「ああ」と俺は今度ははっきりと声に出していた。たぶん、安堵していた。その反応とか表情がそれまでの流れにそぐわなかったからだろう。

「私、何か変なことを言いましたか?」

「いや」

「もしかして、もう一つの方だと思ったとか?」


 ふと思い至ったように瑠衣さんがそう言ってきたから、俺は別にとか違いますとか、何か誤魔化すようなことを口にした。


「でも、瑠衣さんが読んでない本なんてありますかね」

「世の中にどれだけの本があると思ってるんですか?」


 それもそうだ。


「じゃあまた次の機会にでも、渡します」

「楽しみにしてます」


 どれを渡すのか、考える時間が欲しかった。

 会話の継ぎ目で、瑠衣さんはスマホを取り出した。画面を確認する。何か連絡でも来ていたのかもしれない。一分もしないうちに、閉じた。


「スマホ、買い換えたんですか」 


 以前、彼女が使っていたものとは変わっていた。


「そうなんです。落として、使い物にならなくなってしまって。ただ単に罅が入っただけならそのまま使い続けたんですけど」

「買う時に修理保証のサービスとか入ってなかったんですか」

「入らなかったです。色々と説明されたんですけど、面倒臭くて。それに」

「それに?」

「店員さんが勧めてくるものって、大抵不要じゃないですか」

「確かに」


 思わず笑ってしまう。

 その点については同感だった。


「でもスマホを買い換えたら、引き継ぎとか大変ですよね」と俺が言う。

「そうなんです。面倒だから放置してたら、お友達に叱られちゃいました。ルインの連絡がつかないって」

「友達っていうと、前にアパートに来てた人ですか」

「その子です」


 金色の髪の、端正な顔立ちの人だった。俺が彼氏だと勘違いしていた。実際のところはどうだか分からない。シュレディンガーの猫状態だ。


「その子は私の家を知ってますけど、そうじゃなかったら、ルインの引き継ぎに失敗したら関係が消滅する人って結構いるんですよね」

「そういうものなんですか」

「お友達であっても、住所や電話番号までは知りませんから。学校を卒業したりバイトを辞めた後だと連絡を取る手段がありません」


 私はSNSもやっていませんし、と瑠衣さんが言う。


「そういえば、今思ったんですけど。私たちはお互いの連絡先を知りませんよね」

「確かに。住所は知ってますけど」

「こんなに話して、遊びにも行くような間柄なのに、不思議ですね」


 どちらからも今まで言い出さなかった。

 話したいことがあれば、夜のベランダで話せばいい。会えない時もあるだろうが、それはそれで構わない。いつも繋がっている必要はない。

 気の向いた時にだけ繋がれば良い。きっとお互いにそう思っていたから。少なくとも俺は瑠衣さんがそう考えていると思っていたから。


「せっかくですし、この機会に交換しておきましょうか」

「いいんですか?」

「その方が遊びに誘う時も便利ですから」


 瑠衣さんはそう言うと、


「それに、この先アパートが倒壊したり、突然どちらかが引っ越すことになったら、連絡が取れなくなってしまいますし」


 冗談めかしていたが、あながち冗談とも言い切れない。何が起こるか分からない。俺が今こうして瑠衣さんと話す関係になっているように。


「そうですね。読んだ本の感想も送れますし」


 俺は照れ臭さを隠すようにそう付け加える。少なくとも繋がりを保ちたいと瑠衣さんの方も思ってくれている。そのことに喜びを感じる。


 それに言葉自体もウソじゃない。

 面と向かって感想を伝えようとすると、上手く伝えきれない。口下手だし、本当に伝えたい想いを伝えきる前に、込み上げてきた他の感情が邪魔をしてしまうから。

 でも、文字ならきっと、上手く伝えることができる。


 俺は部屋に戻ると、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取る。ルインのアプリを開くと友達登録をしようとする。が、その手が止まる。


「どうしたんですか?」

「いや、登録の仕方が分からなくて」

「ふふ。ここを押せば良いんですよ」


 操作の仕方を教えて貰う。友達が少ないことの証明を身を以て体現してしまった。顔が熱くなるのを感じながら教えに従う。

 果たして無事に登録は完了した。

 俺の一桁台の友達リストに瑠衣さんの名前も追加される。友達リストと言っても、登録されているのは両親とバイト先の面々だけだ。


 瑠衣さんのアイコンは初期のアイコンだった。

 灰色の人影。その下に葉月瑠衣と表示されている。

 背景も初期のもので、自画像やペットの画像、風景が設定された他のアイコンが並ぶ中でひときわ不気味な存在感を放っていた。


 けれど、人のことは言えない。なぜなら――。

 瑠衣さんは俺のアイコンを見るなり、噴き出した。


「私たち、お揃いのアイコンだったんですね」


 俺のアイコンもまた、初期のものだったからだ。

 灰色の人影。その下には榎木結斗と表示されていた。

 当然のように背景も初期のままだった。


「結斗くんならそうなんじゃないかって、何となく思ってました」 


 瑠衣さんは嬉しそうに言う。自分の予想が的中したから。想像していた俺の像と実際の俺の象が一致したから。

 お揃いのアイコン。けれど、そこに至るまでの経緯はきっと違う。

 瑠衣さんは単に無頓着なだけだろう。アイコンで自分をアピールする必要がない。自己承認欲求に囚われていない。自由だ。

 俺は他人にどう思われるかが気になって、選べなかった。アイコンを通して他人に自分を定義づけられることを厭った。不自由だ。


「でも、これでいつでも連絡が取れますね」


 瑠衣さんはスマホの画面を掲げると、微笑みかけてきた。


「毎日、遊びに誘います。結斗くんが嫌になるまで」

「じゃあ、ブロックの仕方も覚えないと」

「ふふ。つれないですね」


 もちろん、冗談だろう。毎日遊びに誘ってくることなんてない。俺も、そして瑠衣さんも一人の時間を必要とする種類の人間だから。

 ただ、今まではルインの着信があっても、気が重くなるだけだった。両親とバイト先からの連絡なんてろくなものじゃなかったから。


 でも、これからは。

 着信があった時、期待感を胸にスマホを確認できる。そんな気がした。


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