第15話 キスしたことある?

 翌日の朝。一日ぶりに学校に登校した。

 

 昨日サボったこともあって、教室に入る時には少し後ろめたかった。入り口の扉と廊下の境目に分厚い膜があるように見えた。

 けれど、気にしているのは俺だけで、教室は何ら変わりなく回っていた。サボったからと咎められることもなければ、心配されることもなかった。授業を受けていない分のツケもすぐに返すことができた。一回サボったくらいでは、大して進まない。

 

 昼休み。購買でカツサンドを買ってから、特別棟の裏手に向かう。細くて狭い、周囲に雑草の繁茂した人気のない場所。

 果たしてそこには先客がいた。小春先生だった。


「はあ~~っ……」


 校舎の壁に背をつけ、尻を浮かせて座りながら、ため息をついている。


「あ、榎木くん。来たんだ」

「他に行くところもないですから」

と俺は小春先生から少し距離を取って座る。

「随分と大きなため息をついてましたけど」

「うん、まあね。社会人だからね。ため息の一つや二つも出るよね」


 社会に出るのが嫌になるな、と思った。

 俺はそれ以上の深入りはしないつもりだった。

 けれど、小春先生はちらちらとこちらを物欲しそうに窺い見てきた。

 その目が訴えかけていた。話を聞いて欲しいと。心を読める能力者じゃなくても、十人いれば十人が察知できるほど分かりやすかった。

 仕方がないので、訊くことにした。 


「……また他の先生に面倒なことでも押しつけられたんですか」

「あ、聞いてくれる?」

「まあ、聞くだけなら」

「実は今、クラスの子から相談を受けてるんだけどね」

「はい」

「それでちょっと困ってるというか、要するに恋愛相談なんだよね」

「恋愛相談ですか」

「そう。好きになった男子がいるんだけど、どうすれば仲良くなれるか、私のアドバイスが欲しいって言われて。

 せっかく頼ってくれたことだし、ぜひ力になってあげたいからね。あれこれアドバイスをしてあげたんだけど」

「いいじゃないですか」

「問題は、私に恋愛経験がないことなんだよね」

「はあ」と俺は曖昧な相槌を打った。どう反応していいか分からず、何も言っていないのと同じ言葉を口にする。「そうなんですか」

「ないよ。全くもってない。皆無。絶無」

「別にいいんじゃないですか」

「榎木くんがよくても、相談者からするとよくないでしょ。恋愛経験ない人間からのアドバイスなんて机上の空論でしかないし」

「相談者の生徒は知ってるんですか」

「何を?」

「小春先生が恋愛経験ないってこと」

「知らない」と小春先生は言った。「むしろ、経験豊富だと思われてる」


 小春先生は、教室にいる時は明るくて生徒からも人気の先生だ。きっと学生時代も充実していたと思われている。当然人並み、あるいはそれ以上に恋愛経験もあると認識されるのは自然なことだろう。


「じゃあ、正直に言えばいいんじゃないですか」

「いやいや。二十四歳にもなって恋愛経験がないなんてことがバレたら、クラスの陽キャの子たちに下に見られちゃうじゃん」

「見られますかね」

「見られるよ。きっと」

「案外、うぶで可愛いって好評かもしれませんよ」

「女子が女子に言う可愛いの言葉は、自分より格下認定した相手にしか言わないから」と偏見強めな持論を展開してくる。


「先生ってのはね、生徒に舐められたらおしまいなんだよ。円滑にクラスを運営するためには経験豊富の陽キャと思われてた方がいいの」


 それは以前にも口にしていた。

 小春先生の中では確信があることなのだろう。


「でも、恋愛経験がないくせに経験豊富みたいなフリしてアドバイスするのは、その子を騙してるみたいで罪悪感があるというか」

「その心労でため息をついてたわけですか」と俺は言った。「というか、みたいじゃなくて騙してますよね。実際」

「う……。言っとくけど、罪悪感があるだけで、アドバイスは有用だから。前に相談してくれた子は、意中の相手とちゃんと付き合えたし」

「だったらいいじゃないですか」

「でも報告受けた時、ちょっともやっとしちゃったんだよね。あ、この子、もう私よりも先に進んじゃってるじゃんって。

 で、今度はキスってどのタイミングですればいいんですかとか聞かれて。いや、一回もしたことないっての。こっちはそれ以前の段階だっつーの」


 やさぐれる小春先生。生徒たちがこの光景を見たらどう思うのだろう。ふとそんなことを考えていると不意に矛先が向いた。


「榎木くんはある? 誰かとキスしたこと」

「……それ答える必要あります?」

「いいじゃん。私は赤裸々に晒したんだし。教えてよ」

「自分から勝手に脱ぎ出しただけのような」

「あ、言っとくけど、幼少期に両親からはカウントしないからね。物心ついてから中学に入学して以降で」

「……はあ」

「で、どうなの? あるの? ないよね? 榎木くんはないって答えて、私のことを安心させてくれるよね?」


 ないの言葉をカツアゲしようとしてくる。

 記憶の泉に石が投げ込まれる。脳裏に浮かび上がる。あの日の夜、酔った瑠衣さんが俺の口の中に舌を入れてきた時のこと。


「いや、まあ、そうですね」

「え、何その反応。ウソ。もしかしてあるの?」


 小春先生は俺の微妙な反応を捉えた。


「うわあ。あるんだ。ていうか、いつ? 誰と? どこで? バイト先とか?」と矢継ぎ早に質問をぶつけてくる。

「話しませんよ、そんなこと。そもそもあるって言ってませんし」


 俺がそう逃れようとすると、


「ふっざけんなよぉ~。今時の高校生進みすぎだろぉ。少子化になっても、やることは皆きっちりやってますってかぁ~?」


 やけっぱちになったようにそう吐き捨てた。全然聞いてない。


「小春先生、お酒飲んでます?」

「飲んでない。素面。休みの日も十五時になるまでは飲まないって決めてる」

「結構早めから飲み始めるんですね」


 夕方までは待った方がいいと思った。

 教師の仕事のストレスの大きさを感じずにはいられない。


「そういえば、榎木くん、なんで昨日休んでたの?」

「……急ですね」

「最初に訊かれるの、嫌かなと思ったから」

「ちょっと体調が優れなくて」

「そうなんだ。だとしても、欠席の連絡くらいは入れてよ」

「すみません」

「一人暮らしなんだっけ?」

「はい」

「だったら、余計にだよ。無断欠席だと、色々と心配するから。もしかして倒れてるんじゃないかとか」

「次からは気をつけます」

「ん。分かればよし」と小春先生は矛先を収めてくれる。「授業は? 休んだ分、置いていかれたりしてない?」

「大丈夫です。今のところは」

「ま、榎木くん、成績は良い方だもんね」


 小春先生はそう言うと、俺のズボンのポケットから覗いていた文庫本に目を留めた。


「ところでその本は?」

「小春先生がいなかったら、ここで読もうと思って」

「休み時間もずっと読んでたよね」

「まあ、はい。でもよく見てますね」

「担任だからね」とおどけたように小春先生が言う。「結構年季が入ってるというか、読み込んだ形跡があるけど。何回も読み返してるの?」

「人に貰ったものなんです」

「ふうん。面白い?」

「面白い、んですかね」

「何その曖昧な反応。つまんないの?」

「そういうわけでもないですけど」と俺は言う。「面白いとかつまらないとか、あんまり考えて読んでなかったというか」

「でも、大切ではあるわけだ」

「え?」

「その本を読んでる時の君の顔を見て、何となくそう思った」


 虚を突かれて、思わず小春先生の方を見やる。

 虚空を見ていたはずの小春先生はこちらに視線を向けると、「違った?」と膝の上に頬杖をつきながら俺からの答え合わせを待っていた。


 本当によく見ている。嫌になるくらいに。


「……まあ、そうですね」


 自分でも言語化できてなかったものを、言語化された気分だった。

 俺にとってこの本は面白いとかつまらないとか、そういう尺度のものじゃない。たとえつまらないものだろうと、その価値は揺らがない。


 この本は小春先生の言うように、大切なものだから。

 瑠衣さんが一番好きで、何度も読み返したものだから。


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