第33話
七月五日、金曜日。
終業時間である午後五時半を迎えようとしていた。開発一課のオフィスはすっかり週末の雰囲気だと、京香は部長席から感じていた。課員達は皆もう、きりの良いところで業務を終えている様子だった――ひとりを除いて。
隅の席では小柴瑠璃が、隣の課員から指導を受けながら、ノートパソコンで何やら作業を行っていた。
瑠璃が正社員になっての初週を終えようとしている。試作という主な業務自体は、派遣社員だった頃から特に変化が無い。だが、それまで紙で行っていた成分計算や、それまで不要だった報告書の作成など――パソコンを使用しての事務作業に苦戦しているようだった。
京香としては『意外な落とし穴』だった。だが確かに、これまでずっと派遣社員の栄養管理士として働いてきたのだから、不慣れなのは仕方ないと納得した。
とはいえ、二十二歳という若さならじきに慣れるだろうと思った。特に、普段から携帯電話を触っていることから、パソコンにはまだ親しみやすいはずだ。
ふと瑠璃が席を立ち、課長である三上凉の元に近づいた。
「すいません。残業してもいいでしょうか? 一時間あれば、週報が片付くと思います」
いつもの気だるそうな瞳でもなければ、焦っている様子も無い。黒いマスクを着用していても、瑠璃がやる気に満ち溢れていると、京香は感じた。週報は今日中に提出しなくても構わないが、きりよく終わらせたいのだろう。
京香の知る限り、瑠璃にとって初めての残業だ。普段から、他の課員がどのように残業を申請しているのか、眺めていたのだろう。時間と内容までを伝えているため、問題無かった。
「一時間ね? オッケー、いいよ。頑張りな」
凉は快く頷くも、京香へ振り返る。
「私用事あって、今日は定時で置きたいんで……お願いしてもいいですか?」
これまでも、凉が週末は早く上がることがあった。それに、困った様子であることからも、嘘ではないと京香は感じた。少なくとも、個人的に瑠璃が嫌いだから押し付けるという意図は無い。
まだ正社員になって五日目の『新入社員』を、ひとりで残業させるわけにはいかない。監督役の上長が必要だ。
「ええ、構いませんよ。私なら、全然大丈夫です」
「任せてしまって、すいません。ありがとうございます」
瑠璃がどうであれ、何にしても京香は残るつもりだった。たとえ仕事に余裕があろうとも――部長という体裁から、よほどの用事が無い限り、定時で上がることはない。
週末だからか、今日の残業は瑠璃ひとりだけのようだ。
ちょうどいいと京香は思っていると、オフィスの扉が開き、作業着姿の両川昭子が現れた。
「も、戻りました……」
随分と疲れた様子だと、京香は思った。今日だけでなく、一週間乗り切った達成感もあるのだろう。
「両川さん、お疲れさま。日誌の方は来週でいいから、今日は早く帰ってゆっくり休みなさい」
京香は先手を打ったつもりだった。昭子も残業することは、阻止したい。
労いの言葉と共に、優しく微笑む。帰宅へ促すだけでなく、上司としての『良い外面』も見せておきたい。
「妙泉部長、ありがとうございます! お言葉に甘えて……来週も頑張れるよう、しっかり休みます!」
泣くジェスチャーまで見せる昭子に、京香は苦笑した。このまま帰ってくれるようで、内心では安心していた。
昭子が自分の席に戻る際、まだ仕事をしている瑠璃に視線を向けたのが、頭の向きからわかった。京香には背中しか見えないため、どのような表情なのかわからない。何にせよ、瑠璃に絡むことなく自分の席に座り、退社準備に取り掛かった。
やがて午後五時半になり、就業のチャイムが鳴った。皆が一斉にオフィスを出ていき、京香と瑠璃だけになった。
ガランとなったオフィスに、瑠璃がパソコンのキーボードを覚束なく叩く音が響く。
「ねぇ、大丈夫? わからないことあったら、すぐに言いなさいよ?」
自席から、京香は声をかけた。
「ありがとうございます。大丈夫です」
瑠璃が素っ気なく答える。視線はずっとノートパソコンのモニターに向いていた。
集中しているから話しかけるなと言われているように、京香は感じた。その様子が、上司として嬉しくあり――『所有者』としては、つまらなくもあった。
週末だが、今日の予定は瑠璃に伝えていない。いつものように自宅に招き、宅配で何か適当に取り寄せ、瑠璃を労うつもりだ。
その旨をまだ黙っておきながら、京香はふと席を立つ。瑠璃の隣に位置する机に腰掛け、黙々と仕事をしている瑠璃を見下ろした。
「正社員になって、どう? 何か変わった?」
「……それ、今答えないといけませんか?」
「ええ。あんたが正社員になれたの、私のお陰でしょ?」
京香はそのようなことを一切思っていなかった。瑠璃の可能性を信じて、腕を引いたまでだ。信じられるだけのものを見せた、瑠璃の実力だ。
だが『所有者』として、そのような体裁にしておいた。
「大変ですけど……その分、充実感があるというか……」
瑠璃はキーボードを打つ手を一度止め、京香を見上げた。そして、小さく笑った。
京香にとってこの会社も今の立場も、全て与えられたものだ。いや、望んだわけも、拒んだわけでもない。過去より一度たりとも、仕事のやりがいなど感じたことが無かった。
だから、瑠璃のことが――少し羨ましかった。
「よかったじゃない」
京香は手を伸ばし、瑠璃のサイドヘアーをかき上げた。ピアスがひとつも付いていない耳は、まだ見慣れない。だが、正社員になったのだという実感を与えられた。
この光景は、きっと瑠璃にとって喜ばしいことなのだろう。京香としても、応援したい気持ちはある。しかし――
「それじゃあ、脱ぎなさい」
「え?」
瑠璃が眉をひそめるも、京香はにこやかな表情を向けた。
机に座ったまま足を組み、瑠璃の耳にそっと触れる。いくつものピアスホールには、確かな引っ掛かりがあった。
瑠璃の身体が、ぴくりと震える。
「今ここで、今すぐ脱ぐのよ」
今の京香に性欲は無かった。ただ、瑠璃を辱めたいだけだ。
瑠璃が正社員になってから、このような『プレイ』に興じたいと以前から思っていた。だが今、仕事にやりがいを感じている瑠璃が、羨ましいというより――無意識下で、嫉妬していたのであった。
「あんたは私の
瑠璃が怯える瞳で見上げるが、京香は冗談ではないと、強い言葉を重ねた。
「誰か来ますよ……」
「来ないわよ。週末だもん――もう皆、帰っちゃった」
ふたりきりのオフィスに、廊下の足音すら聞こえない。ここは幸い、監視カメラの設置も無かった。
とはいえ、可能性が限りなく低いだけであり、今から絶対に誰も訪れないという保証は無い。もしも他者に見つかった際は、瑠璃だけでなく、それを楽しんでいる自分も一発で
京香は、そのようなスリルに心躍った。
だが、瑠璃はやはり困った様子だった。
「いいから、いつもみたいに脱ぎなさいよ」
京香は机から下り、瑠璃のスウェットパンツに手をかけた。赤紫の、レースのショーツが少し見えた。
この空間で皆が仕事をしている光景を、何年も見てきた。ここは言わば『聖域』だ。
しかし、あってはならない行為に興じ、不可侵を犯している。社内の風紀を著しく乱すそれは、企業秩序違反行為とでも言うのだろうと、京香は思った。
ただ、背徳的だった。
胸の鼓動が高まるのを、京香は感じる。何物にも代えられない快感を得ていた。
「だ、ダメです」
瑠璃が抵抗していると――ふと、オフィスの扉が開いた。
京香は反射的に瑠璃から離れた。
「……何してるんですか?」
扉から現れたのは、私服姿の昭子だった。やや白けた目を向けられる。
「小柴さんがまだパソコンのこと、よくわかってなくてね……。教えてるのよ」
――見られたか?
京香はその疑問が浮かぶより早く、ノートパソコンの画面を覗き込みながら、そのように誤魔化した。結果的に、間髪無かった言動は限りなく最適だったと言える。
心臓が、今にも破裂しそうな勢いで動いている。この音が昭子に聞こえないかと不安だったが、京香は可能な限り笑顔を作った。
視界の隅では瑠璃が、縮こまった様子でノートパソコンに向かっていた。
「両川さんは、どうしたの? しっかり休むんじゃなかった?」
怪しむ様子で扉で佇む昭子に、京香は訊ねた。
パソコン画面の右下から、今は午後五時五十分だと知る。瑠璃と互いに、足音に気づかなかった。それほどまでに、脱がせること、抵抗することに徹していたのだと思う。
ここで昭子が現れたのは全くの想定外だった。京香にとって、最も現れて欲しくない人物だった。
「折り畳み傘、取りに来ただけですよ。外……小雨ですけど、降ってきたんで」
昭子がオフィスに入り、自分の席へと向かう。
雨音は聞こえないが、京香は昭子が嘘をついているように思えなかった。やはり疲れている様子のため、一刻も早く帰宅したいはずだ。
ふと、瑠璃のスウェットパンツが脱ぎかけであることに気づいた。
些細でも履くという動作を見せていれば、昭子になお怪しまれていただろう。踏み留まった瑠璃は間違っていないと、京香は思う。
それに――昭子が自分の席を行き来するだけならば、座った瑠璃の下半身を視認できないはずだ。
「あっ、やっぱりあった」
昭子は机の引き出しから、折り畳み傘を取り出した。
そのまま帰れ。こっちに来るな。京香は強く、そう祈った。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「ええ。お疲れさま」
「お、お疲れさまです……」
祈りが通じたのか、昭子は真っ直ぐ扉へと引き返した。京香には心なしか、足取りがふらついているように見えた。
京香は瑠璃と息を飲み――やがて、廊下の足音が消えた。
肩の力を抜くと同時、瑠璃から腰を軽く叩かれた。
「なーにが、来ないわよ、ですか!? 余裕で来てるじゃないですか!」
涙を浮かべた瑠璃から何度も叩かれ、京香は苦笑しながら宥めた。
「まあ、こういうこともあるわよ……あんただって正社員だし」
「ワケわかりません!」
京香は冷や汗をかき、瑠璃に対し申し訳なく思った。
だが、反省は一瞬だった。内心ではこの出来事をスリルと捉え、とても恍惚していた。
そう、これだ。これがずっと欲しかったのだ。
「ほら、早く終わらせなさい。今夜は正社員のお祝いに、なんでもウーバーで頼んでいいから」
「ほんとですか? それじゃあ――」
瑠璃が目を輝かせる。これしきで許すのだと、京香は少し呆れた。
さらに、瑠璃の口から出たのは、世界的に有名なハンバーガーチェーンだった。食べたいものを次々と挙げていくも、所詮ジャンクフードのため、総額としては大したことがない。
「え? そんなのでいいの? 本当に?」
「はい。わたし一回、ドカ食い気絶ていうトリップやってみたくて……」
京香は言葉の意味がよくわからないが、気絶するほど大量に食べるという意味合いで受け取った。要するに『寝落ち』だろう。
「いやいや、寝てどうすんのよ。私の相手しなさいよ」
「そう言うなら、アナタが食べればいいじゃないですか」
「カロリーの塊なのに、食べれるわけないでしょ!」
ふたりきりのオフィスで、からかう瑠璃といつもの調子で絡む。
京香の中で、一度味わったスリルの快感が消えることはなかった。
(第11章『企業秩序違反行為』 完)
次回 第12章『自分磨き』
京香は瑠璃の買い物に付き合う。
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