第32話
七月三日、水曜日。
午前十時半になり、京香は席を立って給湯室に向かった。
コーヒーを淹れる準備をしながら、ふと携帯電話を取り出す。SNSのアプリを立ち上げ、使用するアカウントを切り替えた。
『今日の谷間』
タイムラインにはその一文と共に、ブラジャーに包まれた豊かな乳房のアップ写真が流れた。肩にかかる長い黒髪には、紫のインナーカラーが見える。
そう。『ぁぉU』だ。これを投稿した本人は、妙泉製菓の正社員として、今は試作業務に取り組んでいる。
京香は性的興奮を覚えるも――複雑な気持ちが全く無いわけではなかった。
ピアスを外すよう指示し、瑠璃はそれに従った。だが『裏垢』に関しては、何も言っていない。
発覚した場合は、折角手に入れた正社員の立場を失う。その意味では、ふたつのリスクは全く同じだった。発覚する可能性は大きく違うだろうが。
しかし、京香は口を挟む気になれなかった。瑠璃が、主に金儲けの目的でこのような投稿をしていると知ってるからだ。正社員になって給料が増えたとはいえ、まだ充分とは言えないだろう。
それに、些細だが瑠璃に人並の承認欲求があることも、知っている。正社員になったところで、まだ満たされないのかもしれない。
京香はただ、バカだと思った。瑠璃本人だけでなく『消費者』かつ『支援者』である自分自身も、きっと間違っていると自覚していた。だが、退屈な毎日で『刺激』を得られるなら――それでも構わないのだ。
ひとりきりの狭い空間で、京香は小さな自嘲の後、携帯電話を仕舞う。
その時、ひとつの人影が給湯室の前を通りがかった。
「おっ、京香も今から?」
アッシュグレージュの前髪無しショートの女性は、開発一課の課長である三上凉だった。
偶然にも休憩時間が重なったのだと、京香は察した。
「すぐ行きます」
凉を先に喫煙室に向かわせ、アイスコーヒーのグラスを片手に京香も続いた。
この時間の喫煙室は、凉の他に誰も居ない。ふたりきりだった。
「あの子、どう?」
電子煙草を吸っている凉から、ふと訊ねられる。誰のことを指しているのか、京香にはわかった。
「まだ三日目ぐらいですけど……まあ、頑張ってるんじゃないですかね」
これでも言葉を選んだつもりだった。京香の目から瑠璃は、派遣社員だった頃と変わらないように映っていた。課した業務内容として、当然だ。だが、その通りに話すと印象が悪くなると思ったのだ。
「次の会議に、呼ぼうか?」
「そうですね……。プロジェクトそのものは任せられませんけど、意見は聞きたいです」
スティックケーキのプロジェクトが片付き、新しいプロジェクトが動き出した。
京香としては、出だしはいつも憂鬱な気分だった。今回も途方に暮れるのではないかと、不安が押し寄せるが――少しだけ、瑠璃に期待していた。
「任せてもいいんじゃない? 新規じゃなくても、スティックケーキのパッケージとかさ……あの子、MVPみたいなもんだし」
何気ない提案だが、京香にはなんだか皮肉のように聞こえた。居心地の悪さを誤魔化すように、苦いアイスコーヒーを飲む。
「まあ、そういうのはいずれ……。両川さんのこともあるんで……」
京香の本心としては、瑠璃に試作以外にも仕事を任せたい。しかし、部署内のバランスがとても面倒だった。
派遣社員上がりの瑠璃と、新卒の新入社員である両川昭子。ふたりは年齢も入社時期も立場も近い。京香は瑠璃を贔屓したくとも、一般的に――会社としては、新卒を大切に扱わなければいけなかった。
京香は昭子が邪魔な存在だが、凉の手前、気遣っているように振る舞った。
「ふたり、良いライバルとして切磋琢磨してくれたらいいんだけどなぁ。あの子は両川さんをどう見てるのか、知らないけど……」
「どうなんでしょうねぇ」
京香は苦笑しながら、適当に相槌を打った。
瑠璃に訊ねたわけではない。しかし、昭子のことをヒステリックだと恐れている、或いはなるべく関わりたくないと避けている。おそらく、そのどちらかだと思った。
何にせよ、凉に対しては――瑠璃を推薦したと知られていても、露骨な擁護を見せられなかった。
「両川さんの方は、ライバル視してそうだけどね」
凉は京香と真逆、つまり瑠璃よりも昭子を買っていた。一般的な価値観や管理職の立場として、当然だと京香は思う。
凉は瑠璃の能力を認めているようだった。しかし、京香が正社員の提案を持ちかけた際、昭子を棚に上げ、快く頷かなかった。
頷く条件として――昭子と瑠璃が揉めないよう注意することを、京香に求めた。
京香は、つまり昭子の機嫌を取るために瑠璃を目立たせてはいけないと、捉えた。だから、そもそもライバル関係になること自体、あってはならないと思う。
今のやり取りは、確認や牽制だと感じていた。
「京香はさ……もうちょっと、両川さんのこと見てあげたら?」
凉の何気ない言葉が、京香に重く圧し掛かる。
昭子を露骨に避けていることは、以前から凉に知られている。いつも適当に流していたが、この会話では触れざるを得なかった。
「そうですね。試用期間も終わりましたし……ぼちぼち見ますよ」
「うん、ありがとう。そうだ――ふたり加わったことだし、歓迎会の準備しておくね。絶対に来なよ?」
「は、はい……。よろしくお願いします」
凉が煙草を仕舞った。京香も空になったグラスを片手に、喫煙室を出た。
憂鬱な気分で、給湯室へと向かう。
瑠璃と昭子、ふたりの歓迎会が近い内に開かれようとしている。凉から釘を刺された通り、部長として必ず出席しなければならない。仕事の新しいプロジェクトよりも、面倒に感じた。
京香はグラスを片付けると、オフィスに戻ろうとした。しかし――凉からあのように言われた手前、昭子の様子を確かめなければいけないと思った。考えてみれば、現場実習中の昭子をこれまで一度も見たことがない。
マスクと帽子を着用し、仕方なく工場の製造現場へと向かった。
現場は全身白い作業着姿の従業員だらけだが、長年勤めているせいか、京香は個人の区別がおよそついた。だから、消去法で――見慣れない姿が昭子だと考えた。そもそも、昭子が現場のどこで実習を受けているのかすら、知らなかった。
従業員達と挨拶を交わしながら、適当に歩いていく。
そして、ようやく――クッキー生地の撹拌で、温度を計測している昭子を発見した。
とても集中して、真剣に取り組んでいた。そのような姿を、初めて見るからだろう。京香としては、なんだか意外だった。
京香がそっと近づくと、人影に気づいたのか昭子は振り返る。そして、帽子とマスクの隙間から覗く瞳が、大きく見開いた。
「よ、妙泉部長!?」
先ほどまでと打って変わり、大げさに驚く。これこそが、京香の知る昭子だった。
「用事があって、ちょっと通りかかったから……」
京香は本来の目的を伏せ、適当に誤魔化した。
だが、あくまで『ついで』であっても、昭子は大喜びしていた。
「温度管理は大切だから、しっかりね」
「はい! とっても奥深いです!」
生地そのものだけでなく、室温や湿度で仕上がりの味が変わってくる。重要な作業を実習生に任せていいのかと京香は思ったが、それだけ期待されているのだと理解した。周りから『苦情』が上がらないことからも、実際に問題無くやれているのだろう。
ふと、昭子が京香に抱きついた。
突然の行動に、衝動的だと京香は感じた。それよりも――首から下がブラウスであることを心配したが、どうやら昭子の作業着が汚れているわけではないようだ。
「妙泉部長が見に来てくれて、あたし超嬉しいです! すっごいモチベになります!」
マスク越しでも、無邪気な笑みで見上げていることが、京香にはわかった。
「頑張りますから、期待していてください!」
いつもであれば『ゴマすり』に聞こえただろう。しかし、京香はようやく、言葉に説得力があるように感じた。
つい昭子の頭を撫でそうになるが――手の動きを抑えた。
「ええ。勉強できるうちは、頑張りなさい」
「はい!」
京香はそっと昭子を腕から離し、現場を立ち去った。
暑苦しさや鬱陶しさが、無いわけではない。だが、顔を見せるという些細なことで、あそこまで喜ぶ姿が――自分の存在がモチベーションになることが、少し嬉しかった。昭子に抱く、初めての感情だった。
そして、彼女の気持ちに応えられないのが、申し訳なくもあった。やはり個人的には苦手であり、瑠璃を贔屓することには変わらない。
京香は複雑な心持ちで、オフィスへと戻った。
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