第2部

第11章『企業秩序違反行為』

第31話

「皆、おはよう。今日付けで派遣から正社員になった、栄養管理士の小柴さん。まあ、これまで通り試作がメインの業務になるけど……試作の意見も聞いていくから、よろしくね」


 七月一日、月曜日。

 週始めと月始めが偶然にも重なった今日、京香はオフィスの朝礼で開発一課の『新人』を紹介した。


「こ、小柴です。よろしくお願いします……」


 京香の隣に立つ小柴瑠璃は、私服姿だがマスクを着けていない。素顔を晒し、緊張していた。小さい声で挨拶した後、頭を下げた。

 派遣社員だった栄養管理士を、京香は正社員に拾い上げた。この件を事前に伝えたのは、開発一課内では三上凉ただひとりだけだった。

 課員達は少なからず、戸惑う様子を見せていた。

 しかし、オフィスはまばらながらも拍手に包まれ、京香はひとまず歓迎されたのだと察した。


 ただひとり――両川昭子は拍手をしていなかった。それどころか瑠璃を睨みつけていたのを、京香は見逃さなかったが。

 その後、凉から試用期間を終えた昭子が正社員になった旨が伝えられ、朝礼は終了した。

 不機嫌な昭子がオフィスを去っていく。試用期間を終えたとはいえ、現場実習はまだ続く。


「小柴さん、そんな顔してたんだ。初めて見たけど、かわいいね」

「唇のそれ、ピアスの? すごいね」

「歳いくつ? どこから来てるの?」


 瑠璃は課員達に囲まれて、たじたじしていた。

 少なくとも、皆に悪意は無い。興味本位で接しているまでだ。

 出だしは悪くないと、京香は感じた。他人のことを言える立場ではないが、なるべく溶け込んで欲しいと願う。


「はいはい、質問は後。とりあえず、机用意してあげて」


 京香はそのように仕切った。

 オフィスには、机が丁度ひとつ空いていた。隅に位置するそれは、現在は物置と化している。

 皆で引き出しの中まで片付け、使用可能な状態にした。


「あ、ありがとうございます!」


 瑠璃が周りに深々と頭を下げた。

 礼儀正しいというより、京香には仰々しく見えた。だが、最初はこのぐらいの態度を振る舞うに越したことがないと思った。


「ちょうどよかったじゃん。両川さんと離れてる」


 京香は凉から小声で言われ、確かに席の位置はそうだと気づいた。偶然だが、これで昭子が少し大人しくなると思った。

 何にせよ、瑠璃の主な業務はあくまで試作室での試作だ。これまで試作室で行っていた成分計算にこの席を使う程度で、頻度はそれほど多くないだろう。


「それじゃあ、いろいろ手続きあるから総務に行くわよ」


 もしかすれば、瑠璃は総務部の位置を既に知っているのかもしれない。しかし、京香は案内するつもりで声をかけた。

 ふたりでオフィスを出て、歩き出す。


「本当によかったんですか? わたしなんかが……」


 人気の無い廊下で、瑠璃がぽつりと漏らした。

 京香は瑠璃に振り向くことなく、前を向いて歩き続けた。


「いいに決まってるじゃない。私の判断で、私が推薦したけど――それが間違いだって、言いたいわけ?」

「そういうわけじゃないですけど……」

「なら、堂々としてなさい」


 あの日、会議室で正社員雇用の申し出を行った時、瑠璃はとても喜んだ。二つ返事で承諾した。

 だが、いざ立場が変わると不安もあるのだろうと、瑠璃の人間性から京香は察した。頑張って欲しいと思う。


 瑠璃を正社員にしよう。円香の提案から京香は思い立ってすぐ動くも、話を通すことに苦労した。

 社内の稟議はすぐに通った。問題は、派遣会社に対してだった。

 契約終了のタイミングで、派遣会社を通さず『引き抜く』ことは、違法ではない。だが、間違いなく今後の取引に支障が出る。妙泉製菓では他にも派遣社員を雇用しているため、筋を通さねばならなかった。

 京香は派遣会社に事情を話し、承諾を一応貰っている。しかし、あまり良い感触ではなかった。昨今はどこも人材が不足しているため、申し訳ないことをしたと思った。

 そのような経緯は、瑠璃に余計な圧をかけてしまうため、京香は黙っていた。代わりに、気取って見せた。


「あの……ありがとうございます。せっかく貰ったチャンス、頑張ります」

「もう何回目よ、それ。わかったから……困ったことあったら、いつでも私に言いなさい」


 京香は苦笑するが、不安が無いわけではなかった。瑠璃が正社員相応の働きを見せなければ、推薦した京香が責められる。ただでさえ社内の立場が良くないため、なお悪化するだろう。

 この判断が本当に正しかったのかと、京香は思う。円香の提案に乗るかたちになったが、早まった可能性がある。あの時、派遣社員としての契約更新を持ち掛けたとしても、きっと瑠璃は頷いただろう。

 とはいえ、京香は瑠璃の喜ぶ姿を見ることも、瑠璃をより近くに置けることも、嬉しかった。私利私欲や職権乱用になろうと、構わない。

 それに、瑠璃を有能だと信じる身として、相応に評価されるべきだと思った――無能なのに持て囃されている自分と違って。

 だから、正社員として雇ったからには、信じるしかない。


 京香はふと、隣を歩く瑠璃のサイドヘアーに触れた。かき上げ、耳にピアスが付いていないことを確かめる。ピアスホールだらけの耳は、なんだかグロテスクに見えた。

 だが、唇といいピアスを外した顔は、京香にとってなんだか新鮮だった。


「言いつけは守ってるみたいね」


 正社員雇用の話を持ちかけた際、ピアスを外す条件を課し、瑠璃は飲んだ。

 試作が瑠璃の主な仕事だが、正社員では一日中ずっと作業着姿ではなく、脱ぐこともある。ピアスの着用が万が一発覚した場合、派遣社員と正社員では処罰の重みが違う。京香でも庇いきれなくなる。


「休日だけ付けなさい。よく知らないけど、それなら穴塞がらないんでしょ?」

「そんなの、体質によりますよ。一日付けなかっただけで塞がる人もいます。わたしはたぶん……一週間ぐらい大丈夫だと思いますけど」

「へぇ」


 ピアスホールを開けたことのない京香にとっては、意外だった。もっとも、瑠璃が早く塞がる体質だったとしても、許可できないが。


「ていうか、マスクしてもいいですか?」


 瑠璃が落ち着かない様子で訊ねる。

 正社員として初日の今朝、京香はマスクを外すよう指示した。マスクを着用しての挨拶と自己紹介は、失礼だと思ったまでだ。唇のピアスホールを皆に見せたいわけではない。


「マスクしてないと、そんなに不安なの?」


 今に限ったことではない。ふたりきりの時以外、瑠璃はなるべくマスクを着用していることを、京香は知っている。まるで、依存しているかのようだった。


「はい。なんていうか……わたしにとっては下着みたいなものです。下着脱いで、人前に立てませんよね?」

「何言ってるのか全然わからないけど……死活問題なら、もう着けていいわよ」


 京香が呆れて許すと、瑠璃はすぐに黒いマスクを取り出して着けた。

 ここが食品工場である以上、マスクの着用は珍しくない。とはいえ、作業着としてだ。仕事外で着けている者を、京香は滅多に見ない。これから夏本番を迎えるが、瑠璃が暑いという理由で外すことを、とても想像できなかった。

 それよりも――下着という言葉を耳にしたからだろう。ちょうど給湯室を通りかかり、京香にある考えが浮かんだ。


「ここ、好きに使って構わないわよ」


 派遣社員に給湯室の使用は禁じられていたが、瑠璃にも解禁された。実に些細だが、福利厚生のひとつになる。


「わぁ。有り難いです」

「ここね……時間帯によっては混む時もあるし、誰も使ってない時もあるのよ」


 もっとも、休憩時間外の使用は、役職以上でないと難しいが。


「あんたは私の所有物モノなの。私が脱げと言ったら――どこだろうと、脱ぎなさい」


 京香は立ち止まると、瑠璃の耳元でそっと囁いた。

 派遣社員から正社員へと立場が変われど、脅迫の関係たちばは変わらない。

 浮かれている瑠璃が気に食わないわけではない。京香はただ、今一度知らしめておきたかった。


「……」


 瑠璃は黙って京香を見上げる。正社員にあるまじき気だるい瞳を、京香に向けた。

 小さく笑うと、京香は瑠璃の頭を撫でた。そして、手を滑らせ頭から――唇のピアスホールを、そっと撫でる。


「私の言うこと聞いて、いい子にしてたら……その分、ちゃーんと可愛がってあげるから」


 脅迫で強引に従わせるのは、京香にとって最終手段だった。それは現在でも変わらない。

 あくまでも、金銭が絡む『ママ活』の、合意のうえでの関係だった。


「わかりました。これからも、よろしくお願いします」


 呆れた表情を見せた後、瑠璃は観念して頭を下げた。

 実際に『可愛がられて』正社員になったのだから、何も言い返せないのだろうと京香は思った。


「ええ。私こそ、よろしくね」


 にこやかな表情を瑠璃に向けると、再び歩き出した。

 確かに、不安はある。しかし、最早どうでもよかった。ただ――これから楽しくなりそうだと、京香は口元を歪めた。

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