第30話

 昭子はスティックケーキの案で、己の勝利を確信していた。

 五種類目のフレーバーは、ベリーが採用される――はずだった。


 六月十日、月曜日。

 昭子は先週末に凉からの指導の元、試作の指示書を作成していた。しかし、この日に試作されたのは、ベリーと決定済みの四種類だけではなかった。

 五種類目の枠へ、ベリーに対抗する――京香の指示により、ハチミツりんごも試作された。

 そのような案は、先週時点で姿形すら無かった。土日を挟み、突然降って現れたのだ。

 京香の案らしいが、彼女が思いつくはずがないと、昭子は思った。誰かの入れ知恵に違いない。

 いったい誰が吹き込んだのか、正体はわからない。ただ、昭子に焦燥を駆り立てる。とはいえ、選ばれるのは絶対にベリーだと、己を信じた。

 しかし、会議室で六種類の試作品を、開発一課の皆で囲み――昭子は空気を悟った。いや、ハチミツりんごを口にし、揺らいだ。

 ベリーは柑橘系でないとはいえ、レモンと同様に果物としての酸味が強かった。対して、ハチミツの甘ったるさは他のと被ることなく、そしてりんごの僅かな酸味が引き締めている。

 スティックケーキの五種類目として考えた場合、どちらが相応しいか昭子も瞭然だった。確かにベリーの見た目である赤色は良いアクセントになるが、味に対しては弱い。

 そのように考えた昭子の感性は、決しておかしくない。他の課員達が口にせずとも、皆が『二択』のどちらを選んだのか雰囲気で察した。昭子も含め、満場一致と言える。


「どうしてですか!? あたしは納得できません!」


 だが、昭子は認められなかった。この結果は、あまりに不条理だ。


「貴方が納得できなくても、この五つで決定よ」

「仕方ないよ、両川さん。スティックケーキという商品で考えた場合、五つのバランスはそっちが取れてる」


 京香だけでなく――味方であった三上凉からも諭され、昭子は現実を受け止めざるを得なかった。これ以上ひとりで何を言ったところで、覆らない。


「また次、頑張ろう」


 入社して三ヶ月目の昭子にとって『次』は何度もある。だが、自分が優れていると思っている昭子にとって、敗北は一度たりとも許されなかった。

 事実として、京香の案に敗北したことになる。

 悔しさよりも――昭子はやはり納得できなかった。本当に京香の案であるのか、疑念が強まる。

 いや『正体』に少なからず心当たりはある。昭子は何も言わず、会議室を飛び出した。


 向かった先は、試作室だった。

 京香が、あの派遣社員の肩を持っている――昭子の根拠は、たったそれだけだった。

 ふたりが通じ、派遣社員が京香に入れ知恵したに違いない。昭子はそう決めつけた。

 とはいえ、確証は無い。だたの思い込みに過ぎないと、理解している。

 昭子は勢いよく試作室に入るも、入れ知恵したと責めることを、なんとか踏み留まった。


「あんたね! 指示通りにサンプル作らなかったでしょ!?」


 代わりに、その可能性を責めた。それもまた、充分にあり得ることだ。

 突然の出来事に、栄養管理士の派遣社員はひどく困惑していた。いや、パニック気味に怯えていた。

 実に『底辺の派遣』らしい無様な姿だと、昭子は愉快だった。もっと反応を楽しもうと、詰め寄る。


「そ……そんなこと……ないです……」


 か細い声で生意気にも口答えされ、昭子は苛立った。この場は本来、謝罪されるところだ。

 派遣社員は、今にでも泣き出しそうな表情をしていた。

 昭子はいっそ手を上げてでも泣かせようとした――その時だった。


「やめなさい! 両川さん、貴方何やってるの!?」


 突然現れた京香に、間に入られた。

 どうしてこのタイミングで現れたのか、昭子にはわからない。いや、それよりも――


「妙泉部長、こんな派遣の肩を持つんですか!?」

「当たり前じゃない! 今回の結果は残念だけど、誰かにあたるのは違うわ!」


 憧れである存在が、こちらに背中を向けている。氏名も知らない派遣社員を選んでいる。

 京香の言葉はもっともらしい内容だが、昭子には派遣社員を庇う理由付けに聞こえた。

 だから、裏切られたと感じなかった。ただ、悔しさと失望に包まれた。


「どうして派遣なんかに!」


 昭子はそれだけを言い残し、部屋を立ち去った。

 自分は新卒の新入社員だ。有能な人材だ。大切にされるべき立場だ。

 それなのに――京香は派遣社員なんかを大切にしている。

 自分ではなく、遥かに格下の者が選ばれている。昭子は、自分が惨めに感じるほどの敗北感に苛まれた。


「あいつさえ居なければ……」


 苛立ちから、自然と漏れた。

 その後に思考が働き、派遣社員が三ヶ月毎の契約であることを思い出した。奇しくも、昭子の試用期間が終わるタイミングと同じだった。

 雇用者と被雇用者、どちらかの都合で契約が更新されない可能性が、無いわけではない。昭子はただ、無いことを願った。いっそ、派遣社員が何か大きな問題を起こすことが理想だった。

 しかし、昭子の願いは叶わなかった。それどころか――


 七月一日、月曜日。

 午前八時半、始業のチャイムが開発一課のオフィスにも鳴った。いつもの週始め、いつもの朝――になるはずだった。

 珍しく始業前にオフィスに居なかった京香が現れる。ひとりではなく、小柄な女性を連れていた。

 女性は黒いカットソーというよりTシャツに、グレーのスウェットパンツという、みすぼらしい格好だった。長い黒髪には、紫のインナーカラーが見えた。

 オフィス内が、少しざわつく。自分と同じく、他の課員にとっても見知らぬ人物なのだと、昭子は察した。

 いや――黒いマスクで顔の下半分は隠れているが、気だるい瞳とオドオドした態度には、既視感があった。まさかと、昭子の目が見開く。


「皆、おはよう。今日付けで派遣から正社員になった、栄養管理士の小柴さん。まあ、これまで通り試作がメインの業務になるけど……試作の意見も聞いていくから、よろしくね」


 京香による紹介は、昭子の耳に届かなかった。

 昭子はただ、京香の顔を見ていた。いつもは澄ました様子の彼女だが、いつになく朗らかだった。ここまで明るい表情を、昭子は初めて見たのだ。

 いや、見たくなかった。


「こ、小柴です。よろしくお願いします……」


 小柄な女性はか細い声で挨拶すると、深々と頭を下げた。

 オフィス内は戸惑う空気が流れるが、それも一瞬――昭子以外の拍手に包まれた。

 大きな拍手でないにしろ、強張った様子ではないと昭子にはわかった。部長である京香の手前なのかもしれない。何にせよ、周りは『この派遣』を歓迎している。

 そう。入社してから現場研修に出向いている昭子と違い、試作の絡みで、仕事での接点は割とあった。初対面ではないのだ。

 昭子は唇を軽く噛んだ。


「ウチにもようやく、専属の栄養管理士が入ってきたね。小柴さんの仕事振りは皆知ってると思うから、どんどん無茶振りしてあげて」


 課長である三上凉の冗談に、オフィス内に笑いが起きる。やはり、歓迎ムードだった。

 しかし、昭子はまったく笑えなかった。


「それと、もうひとつ――今日付けで両川さんも正社員になったから、可愛がってあげてね」


 凉の紹介に、昭子は頬がぴくりと動いた。

 試用期間が終わったのだから、内容自体は間違っていない。だが昭子は、まるで自分までも派遣社員だったかのように――さらに紹介順から、この『派遣上がり』の『ついで』として扱われているように感じた。

 ひどい屈辱だった。しかし昭子はぐっと堪え、満面の笑みを浮かべて周りを見回した。


「一課の戦力になるよう、まだ現場で勉強中ですので――期待して待っていてくださいね」


 明るいトーンで喋る。

 拍手は『派遣上がり』より大きく『新入社員』として歓迎されているのだと実感した。少し安心した。

 そう。派遣社員だったような人間に比べ、コミュニケーション能力や立ち振舞など、人間としては遥かに出来ている。スペックはこちらが圧倒的に上なのだ。常識的に考えて、同じラインでは敗北するはずがない。

 昭子は、俯き気味の『派遣上がり』を睨んだ。これを叩きのめして京香を振り向かせると、改めて己に誓った。



   *



 七月五日、金曜日。

 現場研修中の昭子は毎週、クタクタに疲れて一週間を終えていた。その日も例外ではなかった。

 午後五時半の定時を迎え、更衣室兼ロッカールームで作業着から私服に着替えた。疲労感を引きずりながら、工場を出た。

 だが、外は小雨が降っていた。建物内からでは、わからなかったほどだ。

 きっと夕立だろう。昭子は今朝の天気予報で、雨が降ると聞いていなかった。だから、手元に雨具がなかった。

 どうしようかと出入り口で立ち尽くしていたところ――オフィスの机に折り畳み傘を置いていたことを、思い出した。


 昭子は振り返り、オフィスへと向かった。

 オフィスはまだ、灯りが点いていた。週末だというのに、誰かが残業しているのだろうと思った。京香が居るのだろうかと、胸を膨らませる。


「だ、ダメです」


 しかし、扉越しに『派遣上がり』の声、そして何かの物音が聞こえた。

 昭子は一瞬立ち止まるも――なんだか嫌な予感がして、扉を開けた。



(第10章『敗北者』 完)


次回 第11章『企業秩序違反行為』

京香はオフィスに瑠璃の席を用意する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る