第29話
昭子は大学を三月に卒業し、四月に妙泉製菓へ入社した。
あらかじめわかっていたことだが、新卒の新入社員は入社後約一年、現場研修を受けなければならない。せっかく商品開発部に配属となるも、妙泉京香と居られる時間はほとんど無かった。
「妙泉部長、おはようございます!」
毎朝オフィスから製造現場へ向かうまでの間、部長である京香に挨拶を欠かさずにいた。個人的な好意だけでなく、新入社員として当然のことだ。
「おはよう、両川さん。前にも言ったけど、この会社には妙泉が何人か居るから……名前で呼んでくれて構わないから……早いところ、慣れてちょうだい」
皆が『京香部長』と呼んでいることを、昭子は知っている。だが、敢えて『妙泉部長』と呼んでいた。
職場でなんとか気持ちを抑えている中、名前呼びは京香個人をより意識するため、恥ずかしかったのだ。それに、昭子にとって他の『妙泉』は有象無象に過ぎなかった。代表取締役社長である京香の母親ですら、眼中に無い。『妙泉』とは京香ひとりを指すため、何ら問題無かった。
「え、えっと……。そろそろ研修に行ってきます!」
「貴方には期待してるから、頑張ってらっしゃい」
「はい!」
今朝も京香と喋ることが出来て、昭子はとても嬉しかった。
実際のところ、京香からそれほど期待されていないことは察していた。当たり障りの無い言葉を投げられているだけだ。
接する機会がほとんど無くとも、昭子は妙泉京香という人物を少しずつ理解していた。
京香は家業にも同僚にも、何に対しても興味が無い。よく見る澄ました態度は、無関心の表れなのだろう。
結果、仕事では――怠惰とまではいかずとも、やる気が無いのは明白だった。次期社長だが、家族への抵抗として部長の席に居座っているのは、社内で有名な話だった。部長として最低限の職務はこなすものの、部署内で実質のトップは課長である三上凉だった。
それでも、昭子は幻滅しなかった。外観による一目惚れだった以上、中身を知っても下げ幅は少ない。むしろ、京香の澄ました様子に憂いを感じ、より艷やかな印象を受けた。
それに、自分に対し興味を持たれないなら、振り向かせてみたくなる。昭子は京香への気持ちが、一層強くなった。
だが、気になることがひとつだけあった。
京香のことを見ているから――彼女が何を見ているのか、わかった。京香が唯一興味を示していると言ってもいいだろう。
昭子は別の部署に同期入社の社員が居るものの、商品開発部で新卒は昭子ひとりだった。しかし、昭子と同時期、この四月から開発一課へ配属された存在が、もうひとり居た。
オフィスを去る際、先輩社員から仕事の指示を受けている、全身白色作業着の小柄な女性を横目で見た。帽子とマスクの隙間から覗く瞳は、気だるげだった。
昭子は氏名を知らないが、主に試作を担当している、派遣社員の栄養管理士――どうしてか京香は、彼女を目で追っていた。
京香が仕事に無関心である以上、この派遣社員の個人的な部分に興味を示しているとしか、昭子は思えない。だが、彼女の何を見ているのか、わからない。
何にせよ、たかが『派遣』だ。『底辺』だ。自分ではなく圧倒的に格下である彼女に目が向いていることが、昭子は気が食わなかった。
それに、製造現場で研修中である身に対し――彼女は試作室に籠もっているものの、まだ商品開発業務に関わっている。もしかすれば、京香と絡む機会があるのかもしれない。昭子は、まるで自分が『派遣』未満の扱いを受けているように感じ、なお苛立った。
とはいえ、京香が派遣社員に興味を示していることが、自分の勘違いである可能性もあった。
四月二十五日。満額ではないが初任給が支払われるこの日、昭子は社員食堂で昼食を終えると、京香と凉の席に近づいた。
「ちょっとのお給料で、どうやって生きてるんですかねぇ。いっつも暗い感じで……人間、あそこまで落ちぶれたくないです」
そして、わざとらしく貶した。
きっと『普通の人間』ならば、誰もが派遣社員を見下していると、昭子は思う。この発言は、何らおかしいことではない。
とはいえ、誰であれコンプライアンスの観点から『表向き』は肯定できないだろう。役職なら、なおさらだ。だから、やんわりと苦言を呈することを、昭子は期待した。
「きっと、何らかの事情があるのよ。でも、栄養管理士の資格持ってるんだから、賢いわ」
だが、京香は派遣社員を擁護した。派遣社員の肩を持っているのは明白だった。
「まあ、そうかもしれませんね……」
勘違いでなかったと、昭子は確かめる。この結果が残念だった。
苛立ちを抑えながら、トレイを持って立ち去った。
昭子にとっての救いは『疑惑止まり』であったことだ。
京香が派遣社員を眺めているにしても、肩を持つにしても――ふたりが直に接しているところを、自分の目で見ていない。昭子は日中のほとんどを製造現場で過ごしているのだから、確かに見る機会は無い。それでも、ふたりの噂すら耳にしない。部長ともあろう人間が派遣社員とつるんでいるところを誰かが目撃したならば、事実がどうであれ煙は立つだろう。
やはり、ただの勘違いなのかもしれない。昭子は自分にそう言い聞かせていた。
つまらない現場実習の日々を過ごしていたが、三上凉に呼ばれ、デパートまで、売り場の視察へ同行することになった。
課長である凉からは、まだ新卒社員として可愛がられていると感じていた。勉強の名目で、以前も会議に同席した。
この視察へは京香も一緒であり、昭子はとても嬉しかった。仕事ではなく、デートするかのような気分だった。
「データだけじゃ、わからないこともあるのよ。顧客が何かと迷ったとか、店頭で扱い良かったのに売れなかったとか」
「というのを、頭の片隅に入れておいてくれないかな……。私らがこれからするのは、他社の動向というか売れ行きの確認というか……ぶっちゃけ、パクれるネタ探し」
「ちょっと、三上さん!」
デパートへ向かう道中、昭子は車内で視察の意図を知る。
直接関わっていない昭子にとっては、他人事だったが――新商品であるスティックケーキの開発で煮詰まっているのは、知っていた。その打開策としての『視察』らしい。
「はい! 妙泉部長のためにも、頑張ってパクリます!」
何にしても、昭子には勉強ではなく、絶好のチャンスだった。
京香に良いところを見せ、振り返らせてみせる。そう意気込んだ。
三人はとあるデパートの地下で、スティックケーキに『転用』できそうなものを探した。
ふと、昭子はカラフルなマカロンが目についた。
「あれ、凄くないですか? 十種類もありますよ」
五種類のスティックケーキにひとつぐらいは使えそうだと、昭子は思った。
「なんていうか……けっこう強引でしたね」
「そうですね。無理やり十種類集めた感じで……」
しかし、十種類の詳細を確かめるも、凉と京香の反応は今ひとつだった。ふたりはあくまで、スティックケーキ五種類の『味のバランス』に拘っているようだ。
埒が明かないと、昭子は思った。打開するための着眼点は、それではない。
「ていうか、そこまで気にしますかねぇ。カラフルなら、それでよくないですか?」
自分が消費者である場合、贈り物の焼き菓子にそこまでの味を求めない。まだ入社して間もないからこそ、まだ消費者に近い立場だからこそ、そのように否定した。
大事なのは、味よりも見た目――この場合は『色のバランス』だ。
「それじゃあ、両川さん……カラフルで考えるなら、最後のひとつは何になる?」
京香に食いつかれ、昭子は嬉しかった。
ここでただの意見として終われば、残念がられる。きっちり案を出さなければいけないと――既に決定している四つのスティックケーキを思い浮かべた。
「うーん……。ベリーはどうでしょう? あの中に赤系があれば、華やかですよね」
昭子自身が驚くほど、すっと出た。そして、まさに『正解』だと思った。これ以外に考えられない。
「良いじゃん、それ。私はしっくりきたよ」
凉にも賛同され、昭子は確かな手応えを得る。やはり、思った通りだ。
新卒社員としてフレッシュな意見を出し、役目を充分に果たしたつもりだった。連れてきてよかったと、京香から感謝されることだろう。
「とりあえず、試作してみましょう。喜ぶのは、それから」
しかし、京香は慎重になっているようだ。
試作したところで何も変わらないと、昭子は思った。強いて言うならば説得力が増し、より手応えが強くなるに違いない。
京香が実際に喜ぶのは、それからでも構わなかった。昭子に焦りや不安は無く、むしろ余裕が有った。
そう。昭子はこの時、手柄を上げた手応えがあった。自分がプロジェクトの幕を下ろすという『勝利』を確信していたのであった。
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