第10章『敗北者』

第28話

 両川昭子はごく一般的な家庭のひとり娘として、特に不自由なく育った。環境面では、どちらかというと恵まれていた方だった。

 それに因果が有るのかは不明だが、勝ち気な性格だった。

 幼少より、誰よりも敗北を嫌った。否、敗北を受け入れられないだけだ。勝利に向けて特別な努力をするわけではなく、敗北した際は癇癪を起こした。

 昭子本人に、厄介な人間であるとの自覚は無かった。むしろ、優れた人間だと思い、自身を愛した。

 優れているかは、さて起き――事実、勉学に於いては少なくとも無能ではなかった。それなりに名の有る大学の、商学部に進んだ。


 大学入学当時、卒業後のことを特に考えていなかった。

 やがて三年生の後期から就職活動を始め、昭子は大手メーカーの営業職にばかり応募した。何よりも、知名度ブランドを重視したまでだ。

 結果として、その中から内定をいくつか貰うことになる。だが、まだ結果がわからなかった頃――大学の就職課から、昭子は高望みしていると思われていたのだろう。中小企業にも応募した方が言われた。確かに万が一の『滑り止め』を用意しておこうと、素直に従った。


「妙泉製菓、ねぇ……」


 求人情報を眺めていると、ふとその会社が目に留まった。

 四百名の従業員と創業九十年の歴史から、一応は安定していると言える。工場はやや離れているが、営業部のある本社は都心に位置する。同族経営であることが少し気になるも、総合的に見れば悪くないと昭子は思った。

 他にも、製菓会社から『女性らしさ』の印象を受けた。

 昭子としても、甘いものは好きだった。そして――女性のことも好きだったのだ。

 昭子は当時、ひとつ年下の女性と、恋人としての交際をしていた。とはいえ、卒業と就職が間近に控えている以上、どこか本気になれなかった。性欲を満たすことが出来れば、それで充分だった。

 就職活動には『乗り換え先』のことも考えていた。社会人として、キャリアウーマン同士で交際することが理想だった。

 だから、妙泉製菓はその意味でも『滑り止め』であり、期待していなかった。


 四年生になったばかりの四月。昭子は妙泉製菓の選考を、最終面接まで進んだ。

 自身の中での扱いから、緊張は全く無かった。肩の力が抜けるどころか、気だるさを覚えながら、最終面接へと臨んだ。


「失礼します」


 だが、面接会場である本社の小さな会議室に入り――予期せぬ人物が昭子の目に入った。

 何人か居る面接官のひとり、フォギーベージュのミディアムヘアの女性に、衝撃を受けた。

 三十歳ぐらいだろうか。スーツ姿がとても様になっており、落ち着いた雰囲気は貫禄とさえ感じる。まさに、昭子の頭にあったキャリアウーマン像そのものだった。就職活動でこれまで沢山の女性を見てきたが、最もイメージに近い存在だった。

 そして、女性としても、とても美しかった。


「本日はお時間を頂き、ありがとうございます。両川昭子と申します。よろしくお願いいたします」


 気だるさから一変、昭子は緊張して頭を下げた。

 着席を促され、最終面接が始まった。

 どうでもいい会社であったとはいえ、昭子は想定していた質問に対し、用意していた回答をハキハキと述べた。

 女性は終始、澄ました表情で書類に目を落としていた。時折、隣に座るオリーブベージュの耳出しショートヘアの女性から、話しかけられていた。ふたりが小声で何を喋っているのか、昭子にはわからなかった。


「最後になりますが、両川さんから我々に、何かご質問はありますか?」


 結局、その女性からは何も訊かれることなく面接が終わろうとした。

 最後の質問も、余所の会社と変わらず、ありふれた内容だった。昭子は当たり障りの無い回答を用意していた。

 しかし、女性に興味を持たれないことがとても悔しく――面接という場に関わらず、感情が先走った。


「はい。そちらの方のお名前を伺っても、よろしいでしょうか?」


 昭子は書類に目を落としたままの女性に、強い視線を送った。

 視線に気づいた女性が顔を上げるのと、隣のショートヘアの女性が小さく笑って小突いたのは、ほぼ同時だった。


「え……。私は、妙泉京香と言います。商品開発部の部長です」


 女性は少し驚いた後、穏やかな笑みを昭子に向けた。

 ようやく彼女の氏名を知ることができ、昭子は嬉しかった。

 そして、妙泉という姓から――経営陣の身内であることを察した。現在は部長である身だが、いずれ『そちら側』に就くのだろう。

 容姿だけでない。身分からも、昭子はキャリアウーマンの印象を強く受けた。


「あたし――貴方のような女性ひとに憧れます! どうか、貴方の下で働かせてくれませんか!?」


 出会っておよそ二十分ほどであることから、まさに一目惚れと言える。昭子は恋愛感情が働き、妙泉京香に好意を寄せた。

 気持ちを伝えることをなんとか抑え、面接での意思として口にする。ひとまずは、可能な限り近づきたい。

 部屋が少しざわついた。

 昭子は、この発言による自身の不利益など、考える余裕がなかった。紛れもない本心でもあったのだ。


「ちょっと待って。キミは営業志望だよね?」


 ショートヘアの女性が、訊ねる。

 昭子はようやく、志望する部署を変更する発言だったと気づいた。ここまでの選考の、根本を覆すことになる。だが、失言だったと後悔はしなかった。


「はい、そうでした。帰ってすぐ、商品開発の勉強をします」


 この場を収めるための、きっと最善の言葉として、昭子は答えた。

 商品開発業務を行うには、専門的な知識を要する。大学卒業までの時間で習得するには、難しいだろう。

 それでも昭子は、自信があった。筆記試験から面接まで、こちらの基本的なスペックは理解されているはずだ。だから、臆さなかった。


「そうは言いますけど――」

「まあ、いいんじゃない? この熱意は本物だよ」


 京香が困った表情で反対しようとするも、ショートヘアの女性が口を挟んだ。

 こちらの意図を汲んでくれたと、昭子は思った。対面でしか推し量れない熱意こそが、せめてもの根拠となる。説得するには、態度で示すしかなかった。

 もっとも、昭子は意識して演じることなく、自然に振る舞っただけだが。


「わかりました。希望に沿えるかはわかりませんが……その旨で選考いたします。本日は、ありがとうございました。結果は追って連絡します」


 京香は釈然としない様子で、打ち切るように幕を下ろした。

 確かな手応えを得て、昭子は立ち去った。

 もしも京香ひとりでの選考だったなら、落選しているだろう。彼女は合理的な人間だと、昭子は思う。

 しかし、この面接で京香の『外堀』を埋めたつもりだった。周りからの説得で、京香は頷かざるを得なくなる――これが現実的な落とし所になるはずだ。

 それで充分に構わなかった。今のところは、近づきさえすれば良かった。万が一、商品開発部への配属が叶わなかったとしても、同じ会社で働く限りはチャンスが有る。

 株式会社妙泉製菓。昭子にとってはどうでもいい『滑り止め』のはずだった。しかし最終面接を終えた今、絶対にこの会社で働きたいと、強く思っていた。


 昭子は妙泉製菓の本社を出ると、すぐに近くのカフェへ入った。

 携帯電話で、製菓会社の商品開発に必要な知識について調べた。概要を押さえると、書店で参考書を購入して帰宅した。

 選考結果を待つより早く、勉強を始めた。

 結果的には、全く無駄にならなかった。しばらくして、商品開発部での採用通知が届いたのであった。

 昭子は他にも大手企業の内定を貰っていたが、それらを全て蹴り、妙泉製菓を選んだ。

 最終面接でしか会ったことがない。しかし、今もなお妙泉京香の顔をはっきりと覚えていた。名前以外に彼女のことを何も知らずとも、気持ちはさらに大きくなる。難しい勉強も、頑張ることが出来る。

 そう。すべては、たったひとつの願いのために――


「体も心も、あのひとの全てが欲しい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る