第27話
六月二十一日、金曜日。
午前八時半になり、工場に始業のチャイムが鳴り響く。
開発一課のオフィスでは、課長である三上凉の主導で朝礼が行われた。その様子を部長席からぼんやりと眺めていた京香だが、終わろうとするタイミングで口を挟んだ。
「小柴さん――大事な話があるから、午後三時の休憩明けに、第三会議室まで来てくれる?」
オフィスの空気が淀んだのを、京香は感じた。
課員達はそれぞれ顔を合わせると、首を傾げた。皆、誰のことを指しているのかわかっていない様子だった。
小柴瑠璃のことを皆『派遣』と呼んでいるのだから当然だと、京香は思う。そして、この空気を作り出したのは狙い通りであった。
ざわつく中――オフィスの隅で立っていた瑠璃は、オドオドしていた。返事をする、つまり名乗り出られない雰囲気だった。突然の名指しも、全く想定していなかったはずだ。
だが、京香はそんな瑠璃に視線を送った。早く返事をしなさいと、命令を下した。
「は、はい……」
しばらくして、瑠璃が観念した様子で――恥ずかしそうに返事をした。
とても小さい声に、オフィス内が一瞬静まり返る。『彼女』のことなのだと、皆理解したようだ。
だが、誰もそれについて触れることなく、自然と解散した。
瑠璃も、逃げるかのようにオフィスを去っていった。その背中を眺めながら、京香は小さく笑った。
結果として、皆の前で辱められたことになる。いくら瑠璃に自己肯定感もプライドも無くとも、このような扱いが平気な人間は居ないだろう。この件に関して、後で小言を言われると、京香は思った。
しかし、京香に辱める意図は無かった。
瑠璃に用件があるとはいえ、個別にこっそり伝えることは可能だった。それでも、敢えてこのような手段に出たのであった。
朝礼が終わり、京香もまた自分の席で仕事を始めた。
解散となったオフィスで――ある人物から強い眼差しを向けられるも、気付かない振りをしていた。
やがて午後三時になり、チャイムが鳴った。
部長という立場から、次にチャイムが鳴る十分後――休憩時間が明けてからオフィスを出ても構わない。だが京香はなんだか落ち着かないため、一足早く会議室へと向かった。
工場三階の廊下は、人気が無かった。週末のこの時間から会議室を使用するのは、京香以外に居なかった。
第三会議室の前に、ひとつの人影が立っていた。帽子、マスク、作業着――全身白色の姿だが、一目見て瑠璃ではないと京香はわかった。
小柄な瑠璃に対し、身長が高いだけでない。帽子とマスクの隙間から覗く瞳が、とても力強かったのだ。
「こんな所で、何してるの? 貴方は呼んでないわよ――両川さん」
そう。京香を待ち構えていたのは、両川昭子だった。入社して三ヶ月、まだ現場実習のため作業着姿だ。
休憩時間に抜け出してきたのだろうと、京香は察した。朝礼後もオフィスで、睨まれるような視線を送られていた。瑠璃を呼び出したことに、どうしてか外野の昭子から突っかかられている。
京香としては、実にくだらなかった。
「あの派遣と、何の話をするんですか?」
「貴方には関係の無いことよ」
「どうして――あんな、わざとらしい真似をしたんですか!?」
静かな廊下に、昭子の大声がこだまする。
今朝の『パフォーマンス』に気づいた、おそらく唯一の人間だろう。その点では、京香は少し驚いた。
そう。小柴という苗字を知って貰いたいがために、皆の前で呼び出したのであった。
以前から昭子が瑠璃をあまり快く思っていないことを、京香は知っている。むしろ目の敵にしているからこそ、扱いが良いことに気づいたのだと思う。
「さあ……何のことかしら」
とはいえ、京香は理由を答える気になれず、適当に受け流した。
感情的になっている昭子を余所に、会議室へ入ろうとする。扉を開けようとしたその時、階段から足音が聞こえた。
振り返ると、作業着姿の小柄な人物――小柴瑠璃が、姿を現した。
昭子は行き場の無い苛立ちを抱えている様子だった。恐る恐る近づいてきた瑠璃を、睨みつけた。
畏縮する瑠璃を京香は庇おうとするものの、昭子がそのまま立ち去った。
「お疲れさま」
まるで何事も無かったかのように、京香は瑠璃に微笑みかける。
「お、お疲れさまです……」
昭子の件だけではなく、わざわざ呼び出されたからであろう。京香の目から、瑠璃は緊張した様子だった。
ふたりで会議室に入る。この時間帯だからか、灯りを点けなくとも明るかった。
狭い部屋で、ふたりきりになった。
まるで、あの時のようだと京香は思う。『ぁぉU』の正体を特定し、この部屋に瑠璃を呼び出して脅迫した日から――もう三ヶ月近く経とうとしていた。懐かしさを覚える反面、まさか再度ここに呼び出すことになるなど、あの時は考えもしなかった。
瑠璃も、あの時のことを思い出しているのだろう。緊張というより、居心地が悪そうだった。
「そっちに座りなさい」
あの時は、立ったまま迫った。しかし今日は、京香はテーブルに瑠璃と向かい合って着席した。
「大事な話って、何ですか?」
すぐに、落ち着かない様子の瑠璃が訊ねる。京香としては、少しの世間話を交えてから本題に移るつもりだった。
いや、少し以前までなら、瑠璃から口を開くことはなかったと思う。それだけ信用されているとも、改まった雰囲気に居ても立ってもいられないとも、京香は感じた。
「もうすぐ、七月じゃない? 派遣の、契約更新の時期よね」
どちらにしても、瑠璃の様子が面白かった。テーブルに両肘をつき、重ねた手に顎を載せて微笑んだ。
この用件に、瑠璃の表情が強張る。
「そ、そうですね……」
頷くも、明らかに動揺しているのが京香にはわかった。
意外な反応だった。いつもの気だるい様子で、さらりと受け流すと思っていた。そして、動揺する理由を察した。
「あんたとしては、こんな
だから、京香は意地悪く訊ねた。
帽子とマスクの間から覗く瑠璃の瞳は、怯えていた。
契約更新の話を持ちかけようにも、瑠璃がどう答えるのかわからず、京香はずっと不安だった。このような反応を見せられるなら、もっと早く、もっと気軽に訊ねておけばよかったと今は思う。これまでの悩みが、実にくだらなかった。
「……どういうことですか?」
瑠璃は質問に答えず、言葉の意図を確かめようとする。とはいえ察しているのか、失望した声だった。
「ナシよ。契約は更新しないわ」
京香は単刀直入に告げた。
マスクで隠れているが、瑠璃がピアスを付けているであろう唇を噛み締めたのが、わかった。
「わかりました……。短い間ですが、お世話になりました」
瑠璃は俯いた後、席を立った。
「待ちなさい。どこへ行こうっていうのよ」
京香が引き止めると、瑠璃は振り返った。今にも泣き出しそうな目をしていた。
「私の
瑠璃は悲しみに暮れながらも、困惑した様子だった。
確かに、言葉に一貫性が無く理解できないと、京香も思う。
「派遣の契約は終了よ。せっかくチャンスあげるんだから……これからは、本気で生きてみなさい。あんたは無能でも底辺でもないって、私は信じてる」
スティックケーキを無事に完成させることが出来たのは、瑠璃の御蔭だった。ハチミツりんごのケーキを作ったのは偶然だったとはいえ、立派な功績だ。
事由としては充分だった。
いや、きっかけが偶然であり、結果としては必然だったと京香は確信していた。栄養管理士としても商品開発業務としても、きっと優れた能力を有しているはずだ。
京香は今週、そのように人事部と経営陣を説得したのであった。
元々は、円香からの提案だった。それに賛同した。自分と同じく怠惰に生き、そして卑屈になっている人間が――まっとうな道を歩ける可能性に、賭けた。
「それって……」
ようやく意図を察したのか、瑠璃が静かに驚く。
契約終了の旨を告げるだけではない。京香は、用意していた提案を口にする。
断るはずがないと、思っていた。
「小柴瑠璃さん、貴方を
(第09章『契約終了』 完)
(第1部 完)
次回 【幕間】第10章『敗北者』
一年前。両川昭子は入社面接で妙泉京香と出会った。
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