第26話

 六月十四日、金曜日。

 午後八時を過ぎてもなお、外では雨が降っていた。梅雨時期であるため、ここ最近は晴れている方が珍しい。そして、蒸し暑い日が続いている。

 季節は夏へ移ろうとしていた。


 冷房の効いた自宅リビングで、京香はハイボールを飲んでいた。リンゴの香りと甘さがあるウイスキーを使用したものだ。

 テーブルには水菜と蒸し鶏のサラダ、そして冷奴が置かれている。京香は暑さで食欲が落ちがちであるため、さっぱりとした料理が有り難かった。

 テレビで海外ドラマを眺めながら、晩酌をしていた。

 ふと、隣に座る瑠璃を改めて見る。


「ねぇ。以前まえから思ってたんだけど……その格好、外で暑くないの?」


 瑠璃の衣服は春からほとんど変わらない。現在もなお、オーバーサイズの黒いフード付きパーカーを着ていた。割と厚手の生地だ。

 さらに、鬱陶しいほどの長い黒髪のうえ――相変わらず普段は黒いマスクを着用しているため、京香は見ているだけで暑苦しく感じた。

 印象にそぐわず、腕に『自傷跡』が無いことを知っている。無理に長袖の衣服を着る必要は無いはずだ。


「はい。まだ大丈夫です」


 瑠璃もまたハイボールを飲みながら、素っ気なく答える。ピアスの付いた唇が、微かに動く。

 京香には、痩せ我慢をしているように見えなかった。言葉通り、特に問題は無いのだろう。しかし、なんだか釈然としない。


「大丈夫なのかもしれないけど……。なに? 肌見せたら死んじゃうの?」

「まあ、どっちかというと人前で見せたくはありません。ピュアな乙女ですから」


 瑠璃から真顔で言われるも、ギャグのつもりなのか京香にはわからなかった。

 どちらにせよ、SNSでは肌の露出が多い。これまでの瑠璃の思考から、それは『人前』に含まないのだろう。やはり、基準が理解できなかった。


「ていうか、お肌を紫外線に晒したくないだけです。商売道具ですから」

「なるほど。一応、そういう理由あるのね」


 SNSの写真では、ある程度の美白加工が行われている。それでも京香は、瑠璃を抱いている身として、実物の肌も綺麗だと以前から感じていた。

 資金を費やしているのは、下着だけではないようだ。きっと肌の手入れも惜しまず入念に行われていると、京香は感じた。


「ケアのやり方、教えてあげましょうか? ママはもう手遅れかもしれませんけど……年齢的に」

「うるさいわね。余計なお世話よ」


 してやったりとほくそ笑む瑠璃に、京香は指先で鼻先を軽く弾いた。京香もまた、肌の手入れを怠っていないつもりだ。三十二という年齢から、肌以外に二の腕を隠す意味でも――普段は半袖を着られない。


 瑠璃を自宅に招き、食事を作らせ、酒を飲む。そして、素肌を重ねて性欲も満たす。

 京香にとっては、何気ない週末だった。

 いや、今年の頭から始めたスティックケーキのプロジェクトが片付き、今は開放感があった。これまでは一週間が終わろうとも、本社からの催促ストレスが完全に消えることはなかったのだ。

 ベリーとハチミツりんごの会議を終えてすぐ、五種の試作品と共に、新商品の稟議を本社に提出した。すぐに採決されると共に、スティックケーキには大きな期待が寄せられた。

 京香は商品開発業務を遂行し、家族から認められたことになる。部長職の『寿命』が幾分か伸びた手応えがあった。

 何はともあれ、無事に片付いた。


 決め手となったハチミツりんごのフレーバーを手に入れたことが、そうであるように――このタイミングで瑠璃の契約期間が一度終えることもまた、偶然であった。

 これについて、京香は未だ瑠璃と話せていない。こちらから契約更新を持ちかけるも、断られる可能性を考えると、怖かった。

 部長職としてようやくの開放感を味わうも――部長として、妙泉京香として、ひとつの不安を抱えていた。


 時刻は午後十時過ぎ。

 京香は寝室のベッドで、瑠璃を使って性欲を満たした。飲酒による酩酊から性欲の絶頂感へと、何とも心地よい余韻に浸っていた。汗の不快感は全く気にならなかった。

 全裸の瑠璃が、ベッドから立ち上がろうとする。シャワーも浴びずに、帰宅するつもりだろう。

 いつもの流れであった。京香は役目を果たした所有物に『小遣い』を与えなければならない。これがふたりの契約かんけいだ。

 しかし――京香は瑠璃の腕を掴んだ。


「帰らないで」


 どうせ瑠璃に予定が無いことを知っている。いや、予定があったところで、同じ行動に出ていただろう。それほどまでに、衝動的だったのだ。

 瑠璃は全裸の身体を隠すことなく振り返り、気だるい瞳を京香に向けた。

 ようやく京香は、自身の言動を理解した。しかし、後悔は無かった。紛れもなく本心であるとも、理解している。戸惑うことなく、瑠璃の瞳を見つめた。


「……モーニング、作りなさい」


 とはいえ京香は、朝まで居続ける理由を適当に作った。命令口調で発していたのは、無意識だった。


「何か作っておきますんで、起きたら温めて食べてください」

「作りたてが食べたいの!」


 まるで幼い子供のように駄々をこねている自覚が、京香にはあった。長時間の『ママ活』による金銭は惜しまないつもりだ。何としてでも引き止めたい。

 面倒臭そうな様子だった瑠璃が苦笑する。


「しょうがないですねぇ。今日は特別に、ママのワガママ聞いてあげます」


 瑠璃はベッドに腰掛け、京香の頬を突いた。

 このような態度を取られても、京香は構わなかった。瑠璃の返事が、ただ嬉しかった。

 それに、大きなプロジェクトを片付けた今――ワガママを言ってもいい立場だと思っていた。

 再びベッドに入った瑠璃を、京香は抱きしめる。性器には触れない。再度の性交を行う気分ではなかった。


「もう疲れたから……早いけど、寝るわね」


 酩酊と、性交による疲労――否、仕事での単純な疲労が、安心した途端に眠気として押し寄せた。

 シャワーはともかく、化粧を落とすことすら面倒だった。


「わかりました。おやすみなさい……ママ」


 京香は腕の中の瑠璃から、頭を撫でられた。

 重い瞼が下がり、瑠璃がどのような表情をしているのか、わからない。

 どこまでが現実でどこまでが夢なのか、わからない。

 微睡みがずっと続くかのように、京香は久々に心地よく眠れた。腕の中にある温かく柔らかい存在から、肯定され――労られていると感じていた。


 翌朝、京香は目を覚ますとベッドに瑠璃が居た。

 昨晩の記憶がすぐに蘇る。現在の自分の姿も、とても恥ずかしい。


「おはようございます」


 しかし、微笑む瑠璃から挨拶をされ、京香は自然と笑みが漏れた。


「ええ。おはよう」


 その後、ふたりでベッドから起き上がると、ふたりでシャワーを浴びた。

 そして、瑠璃が朝食を作った。

 雨が上がり、空は晴れていた。世界は明るい。これまでひとりで居ただだっ広い部屋で、誰かの声が聞こえる。

 実にのんびりした休日だと、京香は感じた。

 少なくともこの時、京香に不安は無かった。代わりに、まるでこの時間が永遠に続くかのように錯覚していた。



   *



 六月十八日、火曜日。

 午前九時過ぎ、京香は給湯室でコーヒーを淹れていた。

 ひとりきりの狭い部屋に、ふとひとつの人影が現れる。京香は露骨に嫌な表情を向けた。


「やあ、姉さん」


 にこやかな様子の妹、妙泉円香だった。


「スティックケーキが無事完成したみたいだね。おめでとう」

「それ言うためだけに、わざわざサボりに来たの?」


 円香に悪気が無いだろうが、京香にはなんだか皮肉に聞こえた。だから、悪態をついた。

 以前からそうだが、まるでひとりきりの時を見計らったように――こう都合よく現れるだろうかと、疑問だった。


「それもあるけど……開発一課の様子も、ちょっと気になってね」


 円香は仕事の怠惰を否定することなく、さらりと受け流した。しかし、ここまで赴いた理由が、京香にはよくわからなかった。


「どういうことよ?」

「小柴さん、どうしてるのかなーって」


 瑠璃のことを持ち出され、京香は円香の意図を察した。

 まだ開発一課の課員に、ハチミツりんごのアイデアが瑠璃による功績だと言っていない。円香はあの夜、あの場に同席していた。真相を知る数少ない人間のひとりだ。

 円香が身分を分け隔てることなく瑠璃を評価していたことを、京香は知っている。だから、せっかくの『功労者』を相応に扱っているのか、確かめたいようだ。


「どうしてるも何も……普通にいつも通りの仕事してるわよ」


 瑠璃のことを毎日把握しているわけではないが、試作室でのサンプル作成業務にあたっているのは間違いない。京香は、そのようにしか言えなかった。


「へぇ。そういえば……そろそろ更新だよね?」


 深く掘り下げられない代わりに、京香は嫌な部分に触れられたと感じた。

 いや、実にわざとらしい触れ方だ。瑠璃のことを調べたうえで『味方』として立っているのだと思った。こうまでする理由がわからないが、瑠璃に絡んだことが不快だった。


「更新するわよ」


 京香は苛立ちながら、即答した。

 この件を未だ瑠璃に振っていないのだから、瑠璃がどう答えるのかわからない。今でも不安として、纏わりついている。

 だから、結果ではなく、こちらの意思として口にしたに過ぎなかった。この返答で円香も満足するだろうと思っていた。


「えー。更新しちゃうの? 勿体なくない?」


 しかし、予想外の反応を円香が示した。


「何が勿体ないのよ? あの子のこと、あんたも買ってたじゃない」


 こうして瑠璃のことを否定され、京香は不機嫌になった。まるで、自分のことを貶されているように感じた。

 いや、そもそも円香の掌返しが全くわからなかった。裏切られたとすら思う。


「だからだよ。どうして更新するのさ? だって――」

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