第09章『契約終了』

第25話

「どうしてですか!? あたしは納得できません!」


 六月十日、月曜日。

 開発一課の面々が揃った第二会議室に、両川昭子の大声が響く。

 テーブルには既に決定したスティックケーキのフレーバーであるチョコレート、抹茶、チーズ、レモンの四つ――そして会議の議題である、残り一枠への候補のふたつが置かれていた。

 時刻は午後三時過ぎ。これだけの焼き菓子があるものの、とてもティータイムの雰囲気ではない。

 立ち上がった昭子が睨むような、何かを訴えかけるような目を、京香に向ける。

 しかし、京香は座ったまま微塵も動じなかった。


「貴方が納得できなくても、この五つで決定よ」


 ベリーのフレーバーは、昭子にとって商品開発業務で初めての提案だった。先週の金曜日、三上凉と共に試作段階へ進めていたことを、京香は把握している。

 その時点では、決定したかのような空気だった。しかし週が明け、もうひとつの『対抗馬』が急に現れ――昭子の案は敗北した。

 昭子の気持ちを察するが、京香は特に胸を痛めることなく蹴った。昭子個人が嫌いだからではない。仕事上の合理性を考えたまでだ。


「仕方ないよ、両川さん。スティックケーキという商品で考えた場合、五つのバランスはそっちが取れてる」


 三上凉が昭子に言い聞かせる。

 昭子に指導していた分、京香は凉からも悔しさを感じる。だが、まだ納得した様子だった。

 この決定は京香の独断ではない。九名の課員全員で試食したうえ――昭子を除く全員が、同じ二択を選んだ。

 赤い外観から、昭子はベリーを提案した。しかし、京香が危惧した通り、柑橘ではないが果物かつ酸味という意味ではレモンと被る。


「ハチミツりんご……この甘ったるい味で、スティックケーキは完成よ」


 京香が提案したそれとベリーの、二択だった。

 前者をたった今、スティックケーキのフレーバーとして味わった。そして、頭を抱えていたプロジェクトがようやく片付いたと、京香は確かな手応えを得た。


「また次、頑張ろう」

「……」


 凉が宥めるも、昭子は黙って会議室を去った。

 社会人としての態度は良くないが、若さゆえの『青さ』を京香は感じた。この敗北が次に繋がればいいと、楽観的に考える。


 会議を終え、京香はオフィスに戻る前に、凉と喫煙室で休憩した。

 加熱式タバコを吸う凉の隣で、不味い缶コーヒーを飲む。


「しっかし、驚いたよ。土壇場であんなアイデア出してくるなんて……番狂わせもいいとこじゃん」


 結果的に、京香は凉と敵対することになった。勝利を収めたものの、ふたりきりの空間は、居心地が悪かった。


「ですよね……。朝イチで言ってきた時は、私もビックリしました」

「ずっと試作してきた本人に、思うところがあったんだろうね。やるなぁ、あの派遣ちゃん」


 凉が未だに小柴瑠璃という氏名すら知らないのかもしれないと、京香は思った。

 そう。ハチミツりんごは瑠璃のアイデアだった。大事な二択に『派遣社員』の先入観を持って欲しくなかったため、課員には今も伏せている。凉にのみ、事前に伝えておいた。

 とはいえ、今朝瑠璃からこっそり提案があったという体裁うそだ。

 実際は、先週末――自宅で円香と共に、瑠璃が作ったハチミツりんごのケーキを食べたからであった。

 角切りのりんごにたっぷりのハチミツがかけられたそれは、京香と円香が初めて口にした味だった。スティックケーキの最後のひとつとして相応しいと、手応えがあった。

 りんごの果肉を使用していたが、フレーバーとして再現可能だと瑠璃に確かめた。週明けにベリーだけでなく、これも試作するよう指示したのであった。

 京香はあの夜から、凉に対して申し訳ないと思っていた。円香と共に、ベリーに勝てる確信があったのだ。


「けどまあ……素直に喜んでいいのか、わかりませんね」


 瑠璃のアイデアが起死回生になったことが、京香はとても嬉しい。『所有物』の活躍が、まるで自分のことのように誇らしかった。

 だが、事実としては派遣社員に足元を掬われたことになる。そのように考えると、複雑に感じる部分があった。


「何言ってんの。部下ひとを使うのが、私らの仕事だよ? 派遣だろうと、使えるものは使わなきゃ」


 凉が笑う。京香の目には、嘲笑にも自虐にも見えなかった。

 確かに、管理職としては間違っていない。至って正論だが、京香はなんだか釈然としなかった。

 この結果は、ただの偶然なのだ。あの夜、瑠璃がどのような意図でハチミツりんごケーキを作ったのかも――そもそも小柴瑠璃という人間自体も、京香は未だに理解していない。


「そういう意味じゃ……こんなこと言うの失礼だけど、京香にしては珍しく頑張ったというか、正しい選択したじゃん。私なら、たぶん派遣の意見なんて聞く以前に突っぱねてたよ」


 もしも瑠璃を脅迫することなく、現在もただの派遣社員として扱っていたならと、京香は考える。瑠璃から商品開発の意見が挙がったとしても、凉と同じく聞き入れなかったことだろう。

 体裁と事実は違うが、何にしてもやはり偶然だ。


「聞くだけでも、聞いてみようかなと……」

「あの子も、よく京香に意見はなし持って行ったよね。京香のこと、信頼してるんじゃない?」

「サンプルが気になって、ちょくちょく覗いてたからですよ。話しやすいというか、舐められてるだけですよ」


 京香は謙遜ではなく、慌てて誤魔化した。瑠璃から懐かれることを、疑問に思われてはいけない。

 あのように体裁を作ったが、部長である京香に直接意見したのは確かにおかしかったと、今になって気づいた。


「まあ、あの子……今回のことは別にしても、とりあえず更新してもいいんじゃない? そろそろでしょ?」


 しかし、凉にとってはどうでもいいのか、深く触れられなかった。

 代わりに――そういえば契約更新が近いと、京香は思い出す。


「こっちとしてはそうでも……あの子がどう答えるか、ですね」


 京香は反射的に、そう口にしていた。肯定でも否定でもなく、ただ不安だったのだ。

 結局は瑠璃次第になるだろう。そう理解しているからこそ、京香はこれまで、瑠璃に訊ねられなかった。


「私はなるべく残って欲しいけど、もしも去るって言われたらしゃーないか」


 凉がそのように割り切るのは、非正規雇用として何らおかしくないと、京香は思う。

 だが、たとえ仕事だけでも――瑠璃がここを去りたい意思を、見たくなかった。


 休憩が済み、凉が一足先にオフィスへ戻る。

 京香も戻るつもりだが、試作室へと向かった。

 瑠璃に対して、複雑な気持ちはある。それでも、アイデアが採用されたことを、本人に伝えたい。

 驚くだろうか、或いは喜ぶだろうか。そのように考えながら、廊下を歩いていると――


「あんたね! 指示通りにサンプル作らなかったでしょ!?」


 試作室からの怒鳴り声が、京香の耳に届いた。

 京香は慌てて帽子とマスクを着用し、扉を開ける。

 全身白色の作業着に身を包んだ瑠璃のに――昭子が正面から詰め寄っていた。今にでも手を上げそうな勢いだ。

 昭子が帽子とマスクで顔を覆っていても、激しい剣幕だと京香はわかった。先ほどの怒鳴り声は、間違いなく彼女のものだ。


「そ……そんなこと……ないです……」


 一方で瑠璃は、ひどく怯えていた。

 半ばパニック気味の様子に、京香は既視感を覚えた。仕事の苛立ちから、自分もまた非道くあたり散らしたのだ。そして、あの夜は――瑠璃を泣かせた。

 たとえ自分の非難でなくとも、目の前で『所有物』を泣かせたくない。


「やめなさい! 両川さん、貴方何やってるの!?」


 京香は慌ててふたりの間に入った。昭子に背中を向ける。

 ハチミツりんごが瑠璃のアイデアであると、昭子はまだ知らないはずだ。ベリーが敗北したことを、試作した瑠璃の責任にしているのだと京香は察した。実に不条理だ。


「妙泉部長、こんな派遣の肩を持つんですか!?」

「当たり前じゃない! 今回の結果は残念だけど、誰かにあたるのは違うわ!」


 京香が瑠璃を贔屓しているのは確かだが、公平な倫理観で捉えたとしても、間違っていないだろう。


「どうして派遣なんかに!」


 それだけを言い残し、昭子は去っていった。

 自分の案が敗北したこと。そのうえ、格下の派遣社員を上司が庇ったことで――気持ちの行き場が無くなったように京香には見えた。結果的には、火に油を注ぐかたちになったのかもしれない。

 しかし、この場をひとまず収めた。


「だいじょうぶ!?」

「ええ……なんとか……」


 京香は瑠璃の細い肩を抱きしめる。

 瑠璃は頷くものの、細い肩は震えていた。


「ごめんなさい。あの子、自分のアイデアが落とされて、気が立ってるのよ」

「え? それって……」

「そうよ。あんたのが採用されたわ――皆、ハチミツりんごが良いって」


 贔屓からの強行採用ではなかったと、京香は念のため補足した。

 瑠璃の表情が、パッと明るくなる。別の意味で、今にでも泣き出しそうなほど、瞳に涙が浮かぶ。


「ありがとうございます!」


 偶然のチャンスだったとはいえ、この『弱者』は大きな手柄を上げた。自己肯定感が低い瑠璃も、この時ばかりはとても喜んだ。


「感謝するのは、こっちの方よ。ありがとうね」


 京香は瑠璃の頭を、帽子越しに撫でた。

 やはり、まるで自分のことのように、京香としても嬉しい。そして、幼い子供のように無邪気な笑顔を見せる瑠璃が、たまらなく愛おしかった。

 今にでも抱きしめたい気持ちが込み上げるが、なんとか堪える。代わりに、喫煙所での複雑な気持ちがフラッシュバックした。


「たぶん、秋から冬ぐらいには……あんたの考えたフレーバーが、全国で売られてるわよ」

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