第24話
『やっほー、姉さん。近く通りがかったから、遊びに来たよー』
インターホンの画面に、オリーブベージュの耳出しショートヘアの女性――京香の妹、妙泉円香が映っている。
身内である円香がこの部屋を訪れることは、珍しくない。口振りから、仕事で直帰の流れでふと立ち寄ったのだと、京香は察する。ただの気まぐれだろう。
いつもであれば、嫌々ながらも部屋に上げていた。
しかし、今日は――ふとキッチンを見ると、事情を知らない瑠璃が首を傾げていた。
京香としては、職場ならまだしも、この部屋で円香と瑠璃の接触を避けたい。仕事外で瑠璃を招いていることを、円香に知られたくない。
この状況を、どうすればいい。京香はついさっきまでウイスキーを飲み、軽い酩酊状態だったが、焦りから一気に覚めていた。
居留守を使って切り抜けようと、咄嗟に考えた。インターホンに応えさえしなければ、円香はこのまま去っていくだろう。しかし――
『あれー、おかしいなぁ。部屋に灯りついてるのに……』
「どうしてわかるのよ!?」
角部屋とはいえ、三十三階建てタワーマンションの二十四階部分だ。遠くから数えればどの部屋かわかるだろうが、現実的ではない。
京香はつい、インターホンの受話器を上げてしまった。
『あっ、姉さんやっと出た。そんなの、カマかけたに決まってんじゃん』
にこやかな表情の円香に、京香は苛立った。一切の躊躇なくサラリとブラフを持ちかけるところが、妹ながら恐ろしくもあった。
「あんたねぇ……」
何にせよ、円香の術中に嵌ったようだ。観念して、エントランスの扉を解錠した。
円香が部屋に上がるまで、時間が無い。京香は慌てて、キッチンへ向かった。
「ヤバいわよ! 妹が来たわ!」
「は?」
マスク越しに瑠璃がぽかんと口を開けるのが、京香はわかった。
瑠璃を今から帰す、もしくは寝室に隠すことを考えた。しかし、ダイニングテーブルに置かれた料理を円香に説明できなければ、それ以外の痕跡も隠し通す自信がない。
だから、下手な真似を打つことはやめた。脅迫して肉体関係を迫ったこと、そして『ママ活』の関係であること。その二点のみ円香に知られなければ構わないのだと、防衛線を確かめる。
「私に話を合わせてくれたら、それでいいから……。いいわね?」
瑠璃が円香に打ち明けないと、信じるわけではない。だが、瑠璃としても金銭の『旨味』がある以上、職場と同様、きっとこの関係を黙っているはずだ。
それでも、京香は敢えて防衛線を明かさないどころか、合わせるべき口裏も伏せた。瑠璃は『コミュ障』を自称する通り、話すのが得意ではない。それに、今伝えたところで、全て覚えきれるのか不安だった。だから京香は、そもそも瑠璃に可能な限り喋らせないことを前提に、アドリブで乗り切るのが最も安全だと判断した。
「わ、わかりました。リードお願いします」
「ええ。とりあえず……ケーキ作ったら一緒にご飯にするのは、そのままで。あっ、お箸と取り皿、追加でお願い」
「了解です」
京香の中で、円香に対するおよその筋書きは出来ていた。
ただ、瑠璃の――まとめた髪から露わになっている、無数のピアスが付いた両耳に目がいく。マスクを外せば、唇にもピアスが付いていることだろう。
今さら外せとは言えない。外したところで、ピアスホールは誤魔化せない。
それに、自分がどのような人間と交際しようと勝手だと、やけになった。
エントランスを解錠して数分後、玄関のチャイムが鳴った。
京香はリビングを出て、扉を開ける。ブラウスとスラックス――やはり仕事帰りの格好をした円香が立っていた。
「姉さん、お疲れー。あれ? 誰か先客居るの?」
円香が早速、瑠璃のスニーカーに気づいた。
「ええ、ちょっと部下を呼んでるのよ。まあ、気にすることないわ」
「へぇ。姉さんが……珍しいね」
瑠璃を部下と表現することに大きな違和感があるものの、京香はなるべく自然な対応を心がけた。
とはいえ、円香の口振りから――そもそも、客を招かないひとり気質だと思われているようだ。京香にも自覚があるため、何も言えなかった。
「うわっ。なにこのカオスな匂い」
一度離れてリビングに戻ると、やはり様々なものが入り混じった匂いが立ち込めていると、京香も感じた。円香が驚くのは無理がないと思った。
「ケーキ作って貰ってるついでに、ご飯も作って貰ったのよ。ちょうどいいから、あんたも食べていきなさい」
ダイニングテーブルはふたり掛けだが、付属品として小さなベンチがあった。現在は壁際で物置となっているそれを、京香は持ち出す。
円香に、向かいのダイニングチェアを指さした。しかし円香は、ベンチに腰掛けた。
「めっちゃ赤いね。でも、美味しそう。いやー、夕飯時狙ったみたいで、ごめんね」
「ほんとにね……。作ってくれたのが、
京香はキッチンカウンター越しに紹介すると、瑠璃が緊張した様子でぺこりと頭を下げた。
どこか釈然としない様子で円香は立ち上がり、頭を下げる。
瑠璃のようなダウナー系の人間と関わることは、円香もこれまでなかっただろう。しかし、人柄に抵抗を示しているのではないと、京香にはわかった。
「あれ? 初対面だっけ?」
円香が京香に小声で訊ねる。
工場に立ち寄った際、開発一課のオフィスに顔を出すことが多い。課員全員の顔と名前を覚えているつもりなのだと、京香は察した。
「栄養管理士で試作室に居ること多いから……初めて見るんじゃない?」
「試作? ああ、派遣の……」
京香が敢えて伏せた言葉を、円香は口にした。
とはいえ、相変わらずにこやかであり、京香には特に見下しているように見えなかった。
「こっちは私の妹の、円香。胡散臭い女だけど、本社で営業やってるわ」
「そんなことないからねー」
どこか拍子抜けたと感じるも、京香は瑠璃に円香を紹介する。
瑠璃はとても緊張しているようで、ブンブンと何度も頭を下げた。
そんな瑠璃を円香がなだめ、改めて座った。京香も腰を下ろす。
「で……小柴さん呼び出して、ご飯作らせてるの? 家政婦みたいなことさせるの、よくないと思うなー」
円香がそのように言いながら、カルパッチョに箸を伸ばした。
瑠璃の扱いについてはあながち間違っていないので、京香にとって図星だった。だが、認めるわけにはいかない。円香の『誤解』にしておきたい。
「違うわ。スティックケーキのアイデアに協力して貰ってるのよ。小柴さんに、とっておきのケーキがあるみたいだから……フレーバーの前に一度食べてみたくてね」
京香は横目を送ると、瑠璃が小さく驚いたように見えた。しかし、大げさなリアクションを見せることなく、コクコクと頷いた。
話が合わさり、京香はひとまず安心する。
瑠璃にとっては確かに驚くべき体裁だろう。だが、京香にとっては――これが今夜の、本来の目的であった。意図自体に嘘偽りはない。
「なるほど。それで甘い匂いがするわけだ。でも、サービス残業させるのは、よくないよ」
「個人的に『残業代』を渡すって、約束してるわよ」
「それならまあ、ギリギリ許されるのかなぁ。……あっ、エビチリ美味しい」
京香が持つウイスキーの入ったグラスを、円香が羨ましそうに眺める。自動車で帰宅するため、アルコールを飲めない。
エビチリと、アンチョビとアボガドのカルパッチョ。どちらもウイスキー、いや酒に合わない印象を京香は持っていたが、意外と相性が良かった。そして、これだけ濃い味付けのものを食べた後ならば、確かにケーキが美味しいと思った。
姉妹で食事していると少し遅れ、瑠璃がキッチンから出てきた。
「一時間で焼き上がります」
まとめていた髪を解き、エプロンと――黒いマスクを外した。
「うわー。カッコいいね、それ」
露わになったリップピアスに、円香は白けるどころか興奮した。
素顔を晒した瑠璃は、照れくさそうに俯くも、京香の正面に座った。
「小柴さん、流石は栄養管理士というか、料理上手いね。私のところでも『残業』しない?」
円香はブラウスのポケットから名刺入れを取り出し、名刺を瑠璃に渡した。会社のものなので、円香の自宅住所が記載されていないにしろ、仕事上の連絡先を伝えたことになる。
「ちょっと! なにあんた、ウチの
「もしも姉さんのことで何かあったら、そこに連絡してもいいからね」
小声で円香が瑠璃に伝える。
瑠璃本人は、そもそも名刺を貰う機会が滅多に無いからか、珍しそうに眺めていた。
「ありがとうございます。でも……部長は、意外と優しいですよ」
「意外とは余計でしょ!」
微笑む瑠璃に、京香は口を挟んだ。
どうなることかと心配していたが、三人の食事は楽しく進んだ。
やはり円香が瑠璃を派遣社員扱いしていないように、京香は感じた。仕事外だからか、それとも円香の性格なのか――分け隔てることなく自然に、瑠璃に接していた。
瑠璃もまた、自然な笑顔を見せていた。
だが、ふたりの関係を円香に隠している。京香は酩酊ながらも、奇妙な空間だと時折思った。
ふたつの皿はとっくに空になり、会話が一段落ついた頃、オーブンのタイマー音が鳴った。
瑠璃が立ち上がり、キッチンに向かう。
「スティックケーキ、最後はベリーで決まったって聞いたけど?」
「まだ決まったわけじゃないわよ。悪くはないんだけどね……。まあ、これ食べてから考えてもいいんじゃない?」
「へー、自信あるんだ」
円香の言葉に、京香は頷けなかった。ブラフにも限度がある。これから何のケーキが出てくるのか、全く知らないからだ。
「あの子のこと、信用してるから」
頷く代わり、そう誤魔化した。願望であり――本心でもあった。
「へぇ。何にしても……姉さんがここまで仕事にマジになるの、珍しいね」
「そうかしら」
円香にそう言われても、京香は実感が湧かなかった。
とはいえ、実際どうなのだろうと少し気になるも――思考は匂いの分析に働いた。
妙に甘ったるい匂いが、キッチンから立ち込める。一般的な『ケーキ』としては、珍しい匂いだ。
そう。ハチミツだと京香は理解した。
それだけではない。微かな酸味が混じっている。レモンとベリーでは前面に出ているそれが、甘さに隠れていた。
その意味では、他四つのフレーバーと被らないものだった。
「なるほど。そうきたか……」
円香が意外だと感心する。手応えのある笑みを浮かべていた。
京香も、匂いからケーキの正体を察した。フレーバーとしては、そう珍しくはない。しかし、ケーキとしての転用はとても珍しい。
「お待たせしました」
瑠璃がホールケーキを抱えて現れる。気まぐれで作ったそれには、しっかり焼けた角切りの果物が載っていた。
「小さい頃、お父さんとお母さんがよく作ってくれた、このケーキは――」
(第08章『気まぐれ』 完)
次回 第09章『契約終了』
スティックケーキの五種類目のフレーバーが決定する。
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