第12章『自分磨き』

第34話

 七月六日、土曜日。

 午前七時に京香は自宅のベッドで目を覚ました。昨晩アルコールを割と多く摂取したせいで眠りが浅く、気だるい。二度寝をする気になれず、起き上がった。

 床に脱ぎ捨てられていたショーツを履き――シャワーを浴びようと、着替えを取り出す。

 京香が寝室を出たのと同じタイミングで、小柴瑠璃が玄関方向からリビングに現れた。素っぴんを隠すためか、黒いマスクを着用するだけでなく、暑いのにパーカーのフードまでを被っていた。そして、手にはコンビニに袋を持っている。


「前もそうでしたけど……この部屋の冷蔵庫には、どうして何も無いんですか?」


 瑠璃は挨拶よりも、フードとマスクを外して、呆れ顔を見せた。


「何も無いってことはないでしょ? 私、朝は野菜ジュースとコーヒーとヨーグルトと納豆を、飲んだり食べたりしてるもの」

「健康に良いようで、食べ合わせの悪い典型じゃないですか」

「え……。そうなんだ」


 それら以外を購入して冷蔵庫に備蓄する習慣が、京香には無かった。つまるところ、瑠璃の指摘が正しいとの自覚はあった。


「なに? 朝ご飯作ってくれるの?」

「はい……。先にシャワー浴びてください」

「ありがとう」


 京香は浴室へと向かう。瑠璃がいつ起床したのかわからないが、既に使用された形跡があった。コンビニへの買い物といい、彼女がすっかりこの部屋に慣れたのだと感じる。

 昨晩もいつも通りの『週末』を満喫したと振り返りながら、頭からぬるいシャワーを浴びた。

 瑠璃が一泊することは、まだ数えるほどだった。昨晩は京香が引き止めることなく、自然な流れだった。

 京香はさっぱりして浴室を出るも――リビングには、昨晩食べたジャンクフードの匂いがまだ少し残っていた。だが、それ以上にキッチンから香ばしい匂いが漂い、食欲をそそる。


「わぁ。ザ・朝食、って感じね」


 ダイニングテーブルには、トーストとベーコンエッグ、アイスコーヒーがそれぞれふたり分置かれていた。このようなスタンダードなメニューを、京香はこれまで外食でしか口にすることがなかった。


「さぁ、食べましょう。わたしも、お腹空きました」


 席につくと、キッチンから瑠璃が、新品のいちごジャムを持って現れる。

 京香はその様子が可愛いと思うものの、向かいに座った瑠璃からレシートを手渡され、少し白けた。数字を確かめることなく、ゴミ箱に捨てた。今回の『小遣い』に、適当に上乗せするつもりだ。

 まともな朝食を摂るという行為が、京香に美味しさ以上の充実感を与えた。瑠璃と共に、のんびりした休日の朝を過ごした。

 レースのカーテン越しに、眩しいぐらい明るい青空が広がっている。今日も暑くなりそうだと思った。


「あんた、今日はこれからどうすんの?」


 流れとしては、朝食が済めば瑠璃は帰宅する。京香はこれから――憂鬱だが『婚約者』とのデートがあるため、引き止めるつもりは無い。


「久しぶりに、図書館に行こうと思います」

「へぇ。あんたに一生縁が無さそうな所だけど……」

「うるさいです……。それで、休みの日に仕事の話をしてすいませんけど……わたし、何の勉強から始めればいいと思いますか?」


 京香はフォークで目玉焼きの黄身を潰しながら、意外だと思った。

 正面では瑠璃がトーストを皿に置き、真剣な眼差しを向けている。せっかくの休日を、図書館で何か本を借りて、勉強に時間を費やそうとしているのだ。

 派遣社員から正社員になったが、驕ることなく向上心を持っていることに、京香は感心した。いや、瑠璃本人の今週の手応えから、焦りがあるのかもしれない。何にせよ、良い心がけだと思った。


「うーん……。別に、資格はそれ以上要らないから……とりあえず、パソコンの使い方の本でも借りてきたら?」


 とはいえ、京香はアドバイスに困った。上司として、瑠璃に対する理想像やそれに必要なスキルアップなど、具体的なイメージが浮かばない。ひとまずは、欠けているものを補うべきだと思った。


「表計算と文章作成のソフトは、使えた方がいいわね。あとは、社会人のマナー的な本も、一冊ぐらい読んでおけばいいんじゃない?」

「ふむふむ……。大きい出費になりますけど、パソコン買った方がいいですね」


 その手の参考書を読むだけでは理解し難いと、わかっているのだろう。確かに、実際に触れなければ勉強にならないと、京香も思う。

 そして、現時点でおそらく他に用途が無く――使用に慣れるためだけに大金を叩くのは、バカらしいとも思った。


「私のお古でよかったら、あげるわよ」


 京香は、使用していないノートパソコンが一台あることを思い出した。数年前に買い替えた際、処分が面倒で埃を被っているものだ。搭載しているOSは一世代前であり、近々サポートが終了するが、瑠璃の用途には問題無いだろう。


「いいんですか!? ありがとうございます!」

「ご飯食べたら引っ張り出してくるから、待ってなさい」


 瑠璃にしては珍しく感情を表に出して喜んでいると、京香には見えた。よほど高額の印象が強いのだろう。

 特に見られてはいけないものは入っていないはずだが、念のため初期化して渡すことにした。

 このような会話をしているからだろうか。京香はふと、あることを思い出した。


「そういえば、来週はボーナスよ。もちろん、あんたにも出るわ。絶好のタイミングで正社員にしてあげたんだから、感謝なさい」


 妙泉製菓も一般的な企業と同じく、七月十日に夏の賞与が支給される。

 本来であれば、査定時点で正社員或いは試用期間でなかった瑠璃は、対象でない。京香が経営陣かぞくに無理を言って、派遣社員だった頃を試用期間扱いにしたのであった。


「え? ボーナスって……都市伝説じゃなかったんですか?」

「なんで実在しないことになってんのよ……。まあ、初回は寸志だから、過度な期待は禁物だけどね」

「スンシって何ですか?」

「お気持ち程度? 心付け? 頑張ったで賞? ううん……参加賞みたいなものだと思っておきなさい。ぶっちゃけ『お小遣い』二回分ぐらいよ」

「よくわかりませんけど、出るならめっちゃ嬉しいです! 正社員、ヤバいですね!」


 極僅かな額にも関わらず――瑠璃は幼い子供のように、無邪気な笑みを浮かべた。

 無理を言った甲斐があったと、京香もまた微笑んだ。だが、後で残念がらないよう、念を押すことにした。


「私の言ってること、わかってるわよね? あんたならラクに稼げる額でしょ?」

「まっとうに稼いだお金は、違います」

「へぇ……。そういうこだわり、あるのね」


 瑠璃が割と手段を選んでいない印象を持っていたので、京香としては意外だった。それならば確かに、微々たる額でもひとしおだろう。


「それじゃあ……大事なお金は、ちゃんと貯金しないとね」


 一般的には初めての賞与も初任給と同じく、両親に感謝の意を表すことに使われるのが多い。だが、京香は瑠璃の両親がこの世に居ないことを思い出し――両親代わりだった『親戚』との関係も見えないため、言葉を選んだ。


「いえ。折角なんでボーナスで、アレを買います」


 瑠璃に即否定された。

 口振りから――以前から欲しかったものがあったのだろうと京香は察した。無欲そうに見えていたので、これに関しても意外だった。


「アレって? アダルトグッズかしら? セルフプレジャー的な?」

「なんでそうなるんですか……。服ですよ、服。流石に、そろそろまともな身なりをしようと思って……」


 恥ずかしそうに俯いた瑠璃が、ぽつりと漏らす。

 正社員になってからも、瑠璃の私服は相変わらずパーカーやスウェットだった。一日のほとんどを作業着で過ごす工場勤務としては、珍しくない格好だと京香は思う。しかし、本人としては気にしているのだと初めて知った。確かに、開発一課の面々でルーズな格好の者は居ない。

 服装には無頓着だと京香は思っていたので、瑠璃の用途がとても意外だった。いや――笑うのを必死に堪えた。


「ちょっと! いくらママでも、失礼ですよ!」

「ごめんごめん……。あんたが小綺麗な格好で出社するの想像したら、なんかおかしくて……」

「えー。そんなにですか?」

「確かに皆驚くかもしれないけど、イメチェンなら仕方ないわよ。二日か三日ぐらいで、たぶん馴染むわ。まあ、いいんじゃない?」


 笑いかけたものの、京香としては応援したかった。まだ正社員として日が浅いからこそ、イメージチェンジを行いやすいだろう。

 開発一課の皆に、瑠璃が小綺麗で落ち着いた人物だという印象が定着して欲しいと、京香は思う。


「それで……よかったら、ショッピングに付いて来てくれませんか?」


 瑠璃がモジモジしながら、小声で訊ねた。

 何を言っているのか京香には一瞬わからなかったが、瑠璃の事情を思い出した。


「ああ、そっか……。あんた、怖くてひとりでショップに入れないんだっけ?」


 否定することなく、瑠璃はこくりと小さく頷く。

 いつものように通信販売で済ませればいいと、京香はふと思った。だが、すぐに――瑠璃なりに変わりたいのだと察した。

 パソコンの勉強にしろ格好に気遣うにしろ、現在では『自分磨き』とでも言うのだろう。正社員になった現在、まっとうな社会人になろうという前向きな気持ちを、京香は汲みたい。


「ええ、いいわよ。それじゃあ……来週の土曜にでも、デートしましょうか」


 とはいえ、素直に伝えることがなんだか恥ずかしいため、茶化して提案した。


「デートになるんですか? まあ、何にしても……ありがとうございます。ママはオシャレなんで、めっちゃ心強いです」

「……え?」


 ファッションセンスのことを言われているのだと、京香は瞬時に理解した。

 しかし、ここで否定すれば瑠璃を不安にさせることも、理解した。


「え、ええ……。私に任せておきなさい」

「流石ですね」


 京香は思わず強がるも――瑠璃から向けらる期待の眼差しが、なんだか痛かった。

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