第09話
午後七時四十五分に、京香は瑠璃と共に自宅を出た。
自動車で夜道を走ること、約三十分。自宅から離れた繁華街に到着した。
電車の駅から続くメインストリート――車道から、ある建物に入る。
「え? ここなんですか?」
助手席の瑠璃が、驚いた声をあげる。
大きく高い建物だがショッピングビルと違い、落ち着いた雰囲気だった。かといって、ビジネスビルのように味気ないものではなく、気品がある。
世界的に名のある高級なものではないにしろ、結婚式場を備えるほどのホテルだ。
「ええ。ここのレストラン予約してるの」
「確かに、あんな格好じゃ入れませんね……」
ドアマンが居るほどではないため、京香は自身の運転で地下に駐車する。
瑠璃と自動車を降り、エレベーターに向かった。
「って、こんなふざけた格好でもダメでしょ!?」
エレベーターが下りてくるのを待っていると、瑠璃が京香を見上げた。
「ふざけてないわ。襟があれば、世間一般ではフォーマル扱いよ」
「これのどこがフォーマルになるんですか!?」
うるさく声をあげる瑠璃に、京香は微笑みかけた。慌てふためく姿が、可愛かった。
このような格好をした女性とホテルのレストランに訪れたことは、確かに無い。しかし、これまでの人生経験で、自分以外に家族や知り合いも――誰かが入店を拒まれる場面に遭遇したことも無い。よほど公序良俗に反しない限り、問題無いと思っていた。
「とにかく、落ち着きなさい。ソワソワしてると、逆に怪しいわよ」
エレベーターにふたりで乗り込むと、京香はそのように注意した――半笑いで。
衣服に『着られている』より『着ている』方が大切だと思うが、落ち着かない様子の瑠璃が面白かった。
「そんなこと言われても、落ち着いてられませんよ!」
瑠璃としては格好の他、おそらく滅多に訪れない場所のせいでもあるのだろう。さらにマスクを外しているから落ち着かないのかもしれないと、京香はぼんやりと思った。
やがてエレベーターが十九階に到着し、扉が開く。
手ぶらの瑠璃は、まだ落ち着かない様子だった。京香は瑠璃の手を握り、エレベーターを降りた。
レストランはエレベーター乗り場の正面だ。
「予約していた妙泉です」
「いらっしゃいませ、妙泉様。お席へご案内致します。どうぞ、こちらへ」
京香は入口の店員に名乗ると、すんなりと通された。京香の背後に隠れているつもりの瑠璃に、視線を向けすらしなかった。
だが、瑠璃の存在がこの空間では珍しいのか――店員に連れられ薄暗い店内を歩いていると、京香は食事中の客達から視線を感じた。瑠璃の心細さが、握った手から伝わった。
入口から奥、窓際のふたり掛けテーブルへと案内される。瑠璃と向かい合って座った。
周りの客達もそれぞれ会話と共に食事を楽しんでいるが、京香はそれほど気にならなかった。特にうるさくもなく、落ち着いた――洒落た空間。繁華街の灯りが綺麗かはさておき、夜景を一望できる席だった。
「頼んでいたコースと……あと、これ」
京香は値段の書いていないメニュー表を眺め、店員に赤のスパーリングワインのボトルを指さした。
店員が立ち去ると、正面で縮こまっている瑠璃に微笑んだ。
「こういうところ、初めて?」
「当たり前です……」
「さっき、周りからめっちゃ見られてたわね」
「当たり前です!」
瑠璃が小声で強く訴えかける。
先ほど歩いていた時は、確かに背後の瑠璃へ視線が集まっていた。しかし、手を引いていた京香もまた――確かに、周りから見られていた。
「ねぇ。私とあんた……どう見られたと思う?」
結局のところ、周りが知りたいのは、ふたりの関係だろう。
彼らに言いふらすつもりは無いにしろ、言いふらす『答え』を京香は持ち合わせていなかった。
三十二歳のスーツ姿の女性と、二十一歳の――未成年の少女にも見える、可愛らしい格好をした女性。何ともおかしな組み合わせだと、京香は思う。少なくとも仕事の雇用主と従業員、もしくは上司と部下には、まず見えないはずだ。
「なんでしょう……。姉妹ですか?」
「一番それっぽいのは、たぶんそれよね。でも、私には実の妹が居るから、あんたと姉妹プレイは嫌よ」
「わたしだって嫌ですよ。それじゃあ……母娘に見られるのはどうですか?」
老け、或いは年齢を煽っているつもりだろう。瑠璃がにんまりと笑みを浮かべた。
ようやくそれだけの余裕が出てきたのだと、京香は思った。
「まあ、悪くないんじゃない?」
テーブルに肘をつき、瑠璃の顔を覗き込みながら微笑んだ。
京香としては、年増扱いされることは、どちらかというと嫌だ。だが、この年齢では子供が居てもおかしくはない。そして、妙泉製菓の跡継ぎとして、結婚や子育ての『圧』を家族から受けている。だから
「……え? ママでいいんですか?」
瑠璃はきょとんとした表情の後、小さく笑った。
「ええ、いいわよ。娘はママに頭が上がらないし、言うことは絶対に聞かないといけないし……」
部長職と派遣社員。持つ者と持たざる者。ふたりの身分差が母娘のように離れていると、京香は感じた。それに、脅迫による絶対的な支配も『躾け』に似ているように思う。
そのように考えるほど、まさに擬似的な母娘関係がしっくりきた。曖昧でおかしな繋がりに、何かが見えてきそうだった。
「ていうか、こんな所に連れて来られて……なんか、ママ活みたいですね」
苦笑する瑠璃に、京香は静かに驚いた。
頭の中でぼんやりしていたものが、その言葉でようやく形づいたような気がした。
「みたいじゃなくて、ママ活でいいんじゃないかしら? お金欲しいから、バカみたいなことしてるんでしょ? だったら、私がお小遣いあげるわよ……私の遊び相手になってくれたら、ね」
京香は先週の出来事を思い出す。タクシー代として差し出した金銭を、瑠璃は素直に受け取った。『ぁぉ∪』の活動といい、派遣社員の身分といい、経済的に余裕が無いことは事実だ。
脅迫することで、恐怖による支配を考えた。しかし、この女性が京香にとって馴染みの無い人柄であり、面白い。だから、堅苦しく縛るのではなく――遊び相手として迎えたい。
「……」
瑠璃が困惑した表情を浮かべる。
ふと、店員がワインボトルとグラスをテーブルに運んできた。
「飲むんですか? 車で来ましたよね?」
「だって、
たとえひとりだろうと、京香は週末の夜をこのホテルで過ごすつもりだった。念のため、ふたりの利用で部屋を押さえているが。
グラスを手に取り、口を瑠璃に向けた。
瑠璃は呆れた表情でワインボトルを掴み、京香のグラスにゆっくりと注いだ。グラスの中で、炭酸が小さな音を立てる。
「帰ろうにも……着替え、アナタの部屋じゃないですか」
「あら。そういえば、そうだったわね。でも、その格好で帰ったらいいじゃない」
現在の瑠璃は、携帯電話と財布ぐらいしか持っていない。リュックサックは自動車の後部座席にあるが、元々着ていた衣服は京香の寝室に脱ぎっぱなしだった。
一泊することを告げなかった京香に落ち度がある。また、衣服の存在を失念していた。
「やですよ。ご近所さんから、変な目で見られたくありません」
とはいえ、瑠璃は呆れるばかりで、焦る様子が無い。注ぎ終わり、ワインボトルをテーブルに置いた。
諦めているのか、それとも特に用事が無いのか、京香にはわからない。どちらにせよ、一泊しても構わないと受け取った。
ちなみに、深夜に近所の目を気にする必要があるのだろうかと些細な疑問が浮かんだが、わざわざ訊かなかった。
「それで……どう? 悪い
京香は話題を戻すと、ワインボトルを手にした。瑠璃が両手でグラスを構える。
「まあ、あんたに拒否権無いんだけどね」
ツインテールの女性にワインを注ぎながら、不敵に笑った。
瑠璃を遊び相手に迎えたいと、京香は思う。だが、対等な友達になるつもりは微塵もない。上下の関係は揺るがず、立場をはっきりとさせておきたかった――たとえ『弱み』を責めることになろうとも。
ワインで満たされたグラスを、瑠璃は一度テーブルに置いた。そして、グラスに目を落とした。
「確かに、わたしに悪い提案じゃないですけど……本当に、わたしなんかでいいんですか?」
そう訊ねると共に、瑠璃が顔を上げる。
拒否権の無い立場で、どうにか否定へ促そうとしている――その可能性は、京香に浮かばなかった。
両耳に無数のピアスを付けようとも、普段とは違う格好をしようとも、瞳はとても弱々しかった。京香は派遣社員の女性から、自己肯定感の無さを感じた。
「わたしじゃなくても、もっと良い
不安げな瞳で訴えられ、京香は今一度考えた。
瑠璃の言い分を理解できるが、瑠璃以外の選択が無いことを改めて確かめた。理由はふたつある。
ひとつは、跡継ぎの立場上、同性に興味がある『自身の内』をなるべく他者に知られたくない。信頼の無い人間と闇雲に繋がることだけは、避けなければならない。
もうひとつは、仕事で瑠璃を雇用している立場だからだ。会社の皆に知られたくない関係を、持ちたかった。退屈な日々に、何か刺激が欲しかった。立場がありながら、危険を犯してこそ楽しめる。
そう。所詮はその程度の『お遊び』に過ぎない。
京香は、この歪んだ関係が長く続かないと思っていた。現実的に、いつまでも危ない橋を渡れない。長くても、派遣会社との雇用契約の更新となる七月までだろう。瑠璃の仕事ぶりに関わらず自己都合で打ち切り、開放するつもりだ。
遅かれ早かれ家業を継がなければならないことは、頭から離れない。かたちだけの婚約者も待っている。
家族は知らないが、これが最後の『足掻き』になるかもしれないと、京香は予感していた。
「嫌よ。変なビョーキ持ってるかもしれないじゃない」
自身の胸内も弱みも、瑠璃に見せるわけにはいかない。京香は適当に誤魔化した。
「わたしだって持ってるかもしれませんよ?」
「ついこの前までヴァージンだったあんたが、それ言う?」
もっと自信を持ちなさい――京香はそのように言いたかったが、ふたりの関係では『余計なお世話』になるため、黙っておいた。
代わりに、ワインの注がれたグラスを手にする。
「そういうことだから、これからよろしくね。私があんたのママよ」
「わかりました――ママ」
瑠璃は釈然としない様子だが、仕方なくグラスを持つ。
ふたつのグラスがぶつかる、小さな音が鳴った。この乾杯により『契約』は完了した。
しかし、期限を迎えた際、果たして本当に手放せるだろうか。
ふと、京香はそのように思う。しかし、小さな不安を流すように、ワインを呷った。
(第03章『強制ママ活』 完)
次回 第04章『自己肯定感』
京香は新商品開発の会議を開く。
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