第08話
四月十九日、金曜日。
午後六時半に京香は仕事を置き、退社した。
自動車で電車の駅へと向かう。ロータリーを徐行し――コンビニの前で、小柴瑠璃の姿を見つけた。京香はじっと見ていると、瑠璃が視線に気づいた。気だるい様子で、助手席に乗り込んだ。
「既読スルーじゃなくて、ちゃんと返事しなさいよ。社会人の常識でしょ?」
「いやいや……わたし来なかったら、どうしてたんですか?」
京香は呆れた物言いの瑠璃と、会話が噛み合わなかった。自動車を走らせながら、無理もないと思った。
結局、今週は会社での接触をずっと避けていた。その代わり、再び週末に会おうとした。
しかし、京香は瑠璃の連絡先がわからない。どうしたものかと悩んでいると――SNSにアカウント間のダイレクトメッセージ機能があることに気づいた。
『金曜、仕事終わってから駅前で待ってなさい』
二日前にその一文だけを送信し、今日に至る。自分が『ヨシピ』だと名乗ったことを、ぼんやりと思い返していた。それ以外は、返事が無くとも何も疑わなかった。
「うーん……。あんたは絶対来るって、なんとなくわかってたわ」
「どんな根拠なんですか、それ。大体、わたしに予定あったら――」
「どうせ無いんでしょ?」
「け……結果的には、です」
先週も瑠璃が似たようなことを言っていたが、特に慌てている様子は無かった。そもそも、京香は今夜も瑠璃に用事があるとは思えなかった――特に、他の人間との。現に、図星のようだ。
だが、それが必ずしも命令に従う根拠にはならない。強いて挙げるなら、先週が好感触だったからだ。今夜も楽しい時間を過ごせることを、期待していた。
とはいえ、あくまでも京香としては、だ。
この女性の弱みを握って脅しているのだと、ふと思い出す。瑠璃としては『ぁぉ∪』の正体を明かされることを、何よりも恐れているに違いない。どれだけ嫌でも、従わざるを得ない。
「もしも、あそこに居なかったら」
SNSで、あんたの正体を言いふらしてたかもね――京香はそう言おうとするも、口を閉じた。
立場の再確認と再教育は大切だと思う。だが、少なくとも今は、恐怖で縛りたくない気分だった。
「居なかったら?」
「まあ、今週も無事に終わったんだから、楽しみましょう」
京香は悟られまいと、朗らかな口調で強引に話を切り替えた。
「またピザ食べて、ヤるだけですか?」
瑠璃としても、話を引き止めるつもりは無いようだ。その代わり、嘲笑った。
「ええ、まずはディナーね。でも、今日はジャンクフードじゃなくて……うんと美味しいのを食べさせてあげるわ。八時半に、レストラン予約してあるの」
「へぇ、外食ですか……。地味に楽しみです」
京香は二日前、瑠璃にダイレクトメッセージを送ってすぐに店を押さえた。その時から、今夜のことを計画していた。
どのような店なのかは、敢えて言わない。
たとえどこであろうと周りの目があるからなのか、それとも純粋に期待しているからなのか――瑠璃は普段よりも落ち着いた様子だった。
しかし、午後七時頃、自動車は京香のタワーマンションの地下駐車場へと入った。
「ちょっと待ってください。また騙したんですか?」
「またも何も、あんたを騙したことは一度も無いと思うけど……。ドレスコードまではいかないけど、あんたの小汚い格好だと入れないかもしれないから、着替えるわよ」
「えー。そんな堅苦しいお店に行くんですか……」
さっきまでとは打って変わり、瑠璃は肩を落としながら自動車を降りた。
京香としては、良い場所で美味しい料理を食べたい。だが、それ以上に、会社の人間の目を避けなければならない。だから、目が無いであろう店を選んだまでだ。その理由は自身の『弱点』になるため、黙っておいた。
瑠璃の格好は、オーバーサイズのフード付きパーカーとダメージデニムに、いつものキャップとマスクだった。あまりにカジュアルだ。
エレベーターで二十四階まで上がり、京香は再び自宅に瑠璃を招いた。
「ていうか、着替えなんて持ってきてませんよ。もしかして……部長さんの服着るんですか?」
「あんたね……そう言いながら人様の胸見るの、やめてくれる? サイズ合わないとでも言いたいわけ?」
京香は胸部に瑠璃の視線を感じ、半眼を向けた。
確かに胸は瑠璃の方が大きいが、身長は京香の方が一回り大きい。主に後者の理由で、瑠璃が京香の衣服を着ることは現実的でない。
「安心なさい。あんたの服、通販で買っておいたから」
「は?」
リビングの灯りを点けると、ソファーにはビニールで包装されたままの――未開封の衣服が置かれていた。
襟と袖に黒いレースが装飾された、暗いピンクのブラウス。三連バックルベルトの付いた、丈の短い黒色のプリーツスカート。そして、フリルの白いショートソックス。
瑠璃はそれらを、冷ややかな目で見下ろした。
「……え? これですか? 嘘ですよね?」
「早く着替えなさい――命令よ」
満面の笑みで京香が告げると、瑠璃は大きく溜め息をついた。
京香の思っていた通りの反応だった。『ぁぉ∪』がカジュアルやルーズな格好を好む一方で、可愛い衣服を着ているところを見たことがない。嫌がる瑠璃の羞恥心を楽しみたいのが半分。もう半分は、実際に着たところを見てみたかった。瑠璃に似合うと思い、選んだのであった。
こればかりは、たとえ恐怖で縛ろうとも――どのような手段を用いても、必ず着せたい。
「ちょっと、ここで脱がないで」
キャップに続いてパーカーを脱ごうとする瑠璃を、京香は制止させた。
「着替えるところ見たら、楽しみが半減じゃない。寝室で着替えてらっしゃい」
「楽しみって言われても、ワケわかりませんよ。まったく……わたしは何なんですか」
「はいはい。あんたは私の
瑠璃は呆れた瞳で京香を一瞥すると、新品の衣服を抱えて寝室に向かった。
ひとりになった京香は、ソファーで仕事用の鞄からコスメポーチを取り出した。軽く化粧直しを行いながら、待った。
やがて、五分ほど過ぎ――寝室から人影が出てきた。京香はゆっくりと振り返る。
「み、見ないでください!」
「ふふっ。似合ってるわね。可愛いわよ」
黒いマスクで下半分が覆われているが、瑠璃は顔を真っ赤にしていた。まるで裸体を隠すように、自身の肩を抱きしめていた。
京香は先週の一件で、瑠璃の身体の大きさを把握したつもりだった。それに狂いは無いようで、衣服のサイズは丁度よかった。
思った通りの出来であり、京香は満足の笑みを浮かべる。テーブルから携帯電話を取り、カメラを起動させた。
シャッター音が、リビングに響く。
「ちょっと! なに撮ってるんですか!?」
「スカートたくし上げてもいいわよ。バズること間違いなしね」
「そんな恥ずかしいこと、しませんよ!」
「えー。今朝だって見せてたじゃない。あんたの基準が、わからないわ」
スカートの下はピンクのレースショーツだと、京香は今朝の『ぁぉ∪』で把握している。この衣服と共に、見たい気持ちが無いわけではない。しかし、夕食前なので性欲はまだ控え目だった。
冗談のつもりで言っていたが、瑠璃はスカートを必死に押さえていた。
格好だけでなく、瑠璃の恥ずかしがるも可愛いと、京香は思った。
「マスク外しなさい。メイクで仕上げてあげるから」
ソファーから立ち上がり、瑠璃を再度寝室に連れていく。ドレッサーの椅子に座らせ、背後に立った。
瑠璃がマスクを外すと、唇のピアスが鏡越しに見えた。衣服に対して、京香はどちらかというと似合っていないように感じたが――外すよう言いたくはなかった。化粧で合わせることにした。
唇だけでなく、耳の複数のピアスも瑠璃の象徴だ。いっそ耳を出したいと、サイドヘアーをかき上げる。
「そうよ。こうしましょう」
瑠璃のヘアスタイルは、ストレートロングだ。それを京香は、ツインテールにした。リボンがあればよかったが、無いのでヘアゴムで束ねた。
「ほら、いい感じじゃない。インナーカラーだって、このために入れたんでしょ?」
「そんなわけないです!」
紫のインナーカラーが、左右の黒いツインテールでそれぞれ映えていた。
耳と唇のピアスが露わになった顔に、京香は手持ちのコスメで化粧を施すことにした。
とはいえ、瑠璃は既にリップ以外の化粧をしている。京香はまず、深い赤色のリップを渡し、塗らせた。瑠璃の白い顔に、鮮やかな色のリップが際立った。
それに合わせるように――多くの種類を持っているわけではないが、アイシャドウとチークもなるべく暗い赤色で手を加えた。
京香は、自分以外の人間に化粧をすることが滅多に無い。気分はまるで、人形遊びだった。
やがて、イメージ通りに化粧を終えた。
「なんていうか……典型的な地雷ちゃんじゃないですか。こんなの、全然落ち着きませんよ」
「地雷系の人間が何言ってんのよ。最高に似合ってるわ」
京香は詳しく知らないが、瑠璃の口振りから『ダウナー系』と『地雷系』が必ずしも一致するとは限らないようだ。何にせよ、全身を可愛く仕立てたかった。別人のようにとまでいかずとも、瑠璃の気だるさを残しつつ、雰囲気がガラリと変わった。
「さあ、美味しいの行くわよ」
「……もういっそ、殺してください。たぶん何食べても、味しませんよ」
瑠璃は諦めた様子で立ち上がり、憂鬱と言わんばかりに項垂れた。
そんな瑠璃の腕を引き、京香は寝室を出た。ふたりの繋がりは、会社の人間をはじめ周りに知られたくない。しかし、こうして可愛く仕上げた『所有物』を、他者に見せたかった。
玄関には、瑠璃のスニーカーが並べられていた。可愛いものが京香の理想だったが、そのようなものは手持ちに無く――適当な、赤いローヒールのパンプスを瑠璃に履かせた。
瑠璃にとっては、少し大きいようだ。歩き難そうだが、脱げることまではなかった。
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