14話 わたしと線(2)


「お母さん……」


「珠海! よかった! 無事でよかった!」


 思いっきり、抱きしめられた。


「わっ! ちょっと、苦しいよ」


「珠海、怪我してない? 痛いところはない?」


 お母さんがバッと、体を離し、ボディーチェックをする。動きがせわしない。


「大丈夫。大丈夫だって」


「ほんと? ほんとに……?」


「うん。本当にほんと。……それより、お母さん、クマがひどいよ。ごめんね。心配かけたよね……。本当にごめんなさい」


 わたしは小さく頭を下げた。


「ううん。お母さんが悪いのよ……。珠海、ごめんね。お母さん、全然珠海のことわかってあげられなくて……。まさか、珠海が海に……身を投げるほど……、悩んでいたなんて……。お母さんがダメダメで、本当にごめんね。これじゃあ母親失格ね。本当に、ごめんね……」


 お母さんの目にいっぱい涙がたまる。今にも溢れてきそうだ。


「お母さん。謝らないで」


「でも……」


「謝らないで」


 言い切る。その口調に棘があった。自覚している。でも、伝えなくちゃいけない。わたしの思いを、ぶつけたい。


 お母さんは口をつぐんだ。


「それに、誤解してる。わたしは海に身を投げてないし、投げてたとしても、それはお母さんのせいじゃない」


「だ、だけど……」


「わたし、お母さんに謝られると息が詰まるの」


 わたしの口からするりと言葉が溢れる。お母さんが息を呑んだのがわかった。


「お母さん、すぐ謝るでしょ。お母さんが悪くないことでも、すぐに謝るの。すぐ謝って、わたしの話を聞かないでしょ。まるで、わたしの口を塞ぐみたいに謝るの。気づいてる? 謝られるとね、謝られた側は、それ以上、何も言えなくなっちゃうんだよ。許すことを強要されるの。『ごめんね』って言われたら、怒ることも、泣くことも、出来なくなっちゃう。何も言えなくなっちゃう。そうやって、お母さんはわたしの言葉を塞いできたんだよ」


 わたしは奥歯を噛み締めた。顔をまっすぐにあげ、お母さんの顔を見る。


「お母さん。わたし、わからない子じゃないよ」


「え?」


「お母さん、夏休みに入る前、お父さんに言ってたでしょ。わからない子だって」


「珠海、聞きてたの……?」


「うん。トイレに起きたときに、聞こえちゃった。……ねぇ、わたし、本当にわからない子?お母さんが、聞いてくれないだけじゃなくて? いつも謝って、わたしのことしっかり見てくれないだけじゃなくて? ……わたし、本当に嫌なの。謝られてると、これ以上話さないでって、これ以上話を聞くつもりがないよって、言われてるみたいで、本当に嫌なの。それって、わたしのことを拒絶してるってことでしょ? ……それに、お母さん、いつもわたしの顔色伺ってる。それが、家族じゃなくて、他人みたいな関係を象徴しているようで悲しいの。お母さん、謝らないで。わたしを拒絶しないで」


 するりするりと言葉が出てくる。初めて心の内をお母さんに見せた。曝け出した。心を曝け出してしまったら、わたしの心を守ってくれる線はどこにもない。これで、お母さんに言葉で攻撃されたら、お母さんに拒絶されたら、わたしの心はボロボロに傷ついてしまう。拒絶の刃でずたずたにされてしまう。癒えることのない深い傷を負ってしまう。


 怖い。怖いけれど、言葉にしなければ。


 言葉にしなければ、いくら頭で考えていようと、思いなど伝わらないのだ。伝わらなければ、一生分かり合えない。


「そう、だったの……。珠海は、そんなことを、考えてたの……」


「うん」


 お母さんの声はうわずっていた。湿った風が吹き付ける。太陽がグングンと昇り、朝日が強くなる。今日も暑い日になりそうだ。


「そっか……。そうだったんだね……。お母さん、珠海のこと、なんもわかってなかったね……。あはは。お母さん、ちゃんと珠海のこと見てたつもりだったんだけどなぁ……。そっかぁ……」


 お母さんは長い息を吐いた。目的を失い途方に暮れたような顔つきが滲む。


 目の前には線があった。線がいつもよりも張り詰めている。


 どくん、どくん。


 心臓が飛び出そうだ。


 拒絶されている。そりゃそうか。わたしの言葉は、謝ってばかりのお母さんを否定したのだ。否定は、痛い。受け入れるのは、難しい。それはわたしが一番よくわかってることじゃないか。……だけど、安易に謝りたくない。「ごめん、お母さん。わたしも自分の気持ちを言ってなかったのが悪いの。ちょっと、気が動転してて、変なこと言っちゃった。あはは。ほんと、ごめん」なんて、言いたくない。今、謝るのは逃げと同じだ。その場から離れるための姑息な謝罪だ。だから、わたしは謝らない。


 わたしはお母さんを見つめる。


「うん。確かに。珠海の言う通りかもしれないね。……お母さんね、自信がないの。お母さんね、本当に珠海が大切で、大好きなんだ。珠海には幸せになってほしいってすっごく思ってるの。でも……。お母さんね、お母さんのせいで間違った道を選んでほしくないの。だから、何するにも、珠海が幸せになるために、これでいいのかなって考えちゃうのよ。何かするたびにちゃんとしたお母さんやれてるかなって、怒ったら珠海のためにならないんじゃないかって、いつも考えちゃう。きっと、その自信のなさが出ちゃってたのね……。何か失敗してないかっていつもビクビクして、何かあるとお母さんのせいだって思って……、それで謝ってしまっていたの。それが珠海を追い詰めてたなんて、気が付かなかった。……本当にごめんなさい」


 お母さんが一歩後ろにひいて頭を下げた。今までの安易な謝罪とは違う。本気の謝罪だ。


「うん。お母さんはわたしに怯えすぎ。わたしの話を聞いてよ。わたしの声を聞いて。理想とするわたしを見るんじゃなくて、今のわたし自身を見てよ」


 わたしは頭を下げるお母さんの肩を揺すった。お母さんが顔を上げる。唇を噛み、今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「うん。うん。そうだね……。ごめんね。珠海。ずっと、話を聞いてあげられなくて、ごめんね……。これからは、ちゃんと聞くから。きちんと、受け止めるから……」


「うん……。わたしも、ちゃんとわたしのこと、話すね。わたしね、お母さんが大好きなの。大好きなお母さんに拒まれるのが、ずっとずっと怖かった。心の中を話して、大好きなお母さんに否定されるのがすごく嫌だった。だから、口をつぐんでたの。お母さんだけが、悪いんじゃない。何も言わなかったわたしも、悪いんだ」


 わたしは短く息を吐いた。


「……でも、ちゃんとわかってたよ。お母さんがわたしのこと、大切にしてくれてるのも、心配してくれてるのも、わかってた。だから、いい子でいたかった。普通でいたかった。わかりやすい子でいたかった。……だけど、やっぱりわたしには、無理そうなの。わたしは、普通にもなれないし、反抗的だし、わかりにくい女の子なの。それは変えられないから……」


「いいの。それでいいの。お母さんは珠海が幸せなら、それでいいのよ。そのままの珠海でいいの。いいのよ」


 お母さんが泣きながら、わたしを思いっきり抱きしめる。


「いいの……?」


「いいのよ。お母さん、もう、無闇に謝らないから。ちゃんと珠海の話を聞くから。これからはちゃんと珠海に向き合うから」


「お母さん……」


 嗚咽が込み上げてきた。お母さんの胸の中で、声をあげて泣く。お母さんは受け入れてくれたのだ。わたしのありのままを攻撃するでもなく、拒否するわけでもなく、受け入れてくれた。


「お母さん、ありがとう。ずっとお母さんのこと信じられなくて、ごめんなさい」


 わたしたちは泣いた。抱きしめ合いながら、お互いの存在を確かめ合うように泣いた。


 これからお母さんと上手くやっていけるかどうかは、わからない。これから先も、わたしとお母さんを隔てる線がわたしを拒むかもしれない。だけど、その度に向き合いたい。自分の思いに蓋をせず、自分の思いをお母さんに伝えたい。わたしは傷つくのを恐れる臆病者で、弱い人間だけど、自分の作り出す線から、一歩踏み出す勇気を持っていたいのだ。


 身体の芯が、ほんの少し熱くなった。


「さ、太陽も昇ってきて暑くなってきたし、お父さんも伯父さんも心配してると思うから、お家に帰ろう」


 お母さんは指先でわたしの涙を拭い、微笑んだ。わたしは頷き、静かに息を整える。


「仲直りのお祝いしなくちゃね」


 伯母さんがウィンクをする。


「まぁ、お義姉さん! お祝いなんて大袈裟ですよ!」


「そんなことないと思うよ? こうやって分かり合えたときや、仲直りできたときは、一緒に美味しいものを食べるの。そうするとより仲良くなれちゃうんだから」


「……それ、お義姉さんが美味しいものを食べたいだけなんじゃ?」


「バレた? 久しぶりにケーキを食べる理由が欲しかったのよね。いつも作りすぎて聡さんに怒られちゃうの。でも、珠海ちゃんたちが食べてくれるなら、怒られないでしょう?」


「まったくもう。お義姉さんは、私たちをダシに使わないでください」


「あ、伯母さんのケーキなら、わたし、食べたいかも」


「ほんと? んふふー。それなら伯母さん、腕によりをかけて作っちゃうから!」


 たわいもない会話。ささやかな会話。だけど、いつもよりも緩やかで、優しい会話。居心地の悪さはどこにもない。線を気にせず話すのって、こんなにも楽しいんだ。


 わたしとお母さんと伯母さんは、海に背を向け、歩き出す。


「またね」


「……え?」


 不意に、声をかけられた気がした。わたしは振り返る。海が太陽の光を浴びて、煌めいている。サラサラと波打つ波打ち際に、きらりと光る一つの水色の光があった。北極星のように、一際輝いて、自分自身を主張している。


 あれは……。


 大きな波が来た。波が瞬く間に、水色の星を攫っていく。


「珠海ー、何してるのー!」


 数十歩先にいるお母さんがわたしを呼ぶ。


「今行くー!」


 わたしは走り出す。海に水色のかけらを置いて。海に澄んだ光が落ちた。


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