13話 わたしと線(1)
「振り向かずに、上がって!」
少女が叫ぶ。少女とわたしは手を繋ぎ、海の外に向かって泳ぐ。一心不乱に泳ぐ。泳いで、泳いで、足の感覚が無くなるほど足をばたつかせる。
まっくらな海淵を抜け、美しい宝石が転がる海溝の入り口を抜け、彩り豊かな海の森を抜ける。変わりゆく景色を綺麗だと思う暇はなかった。
「いけない! 時間がない! 日が昇るまでに帰らなくちゃ!」
少女が慌ただしく叫んだのは、わたしが自分の名前を思い出したすぐ後だった。
「わっ、急になに?」
「この海は特別なの。満月の夜の間だけ、現れる特別な場所。満月がなければ、この世界は閉ざされる。それだけじゃない。太陽が沈んでから入った者は、次の太陽が昇るまでに出なければ、永遠にこの海に漂うことになるの」
「それって……」
「そう。朝日が昇るまでに外の世界に戻らないと、珠海ちゃんはこのままこの世界に残ることになっちゃう!」
体が強張る。全身の血の気が引いた。
「今、何時!」
「正確にはわからない。でも、時間がないことは確かだよ。……ほら、珠海ちゃん、行こう!」
少女が右手を差し出す。わたしはその手をしっかりと握り、外へ向かって全力で泳ぐ。
ただ、ひたすらに泳いだ。泳いで泳いで、泳いだ先に、キラキラと輝く綺麗な光が見えた。水面だ。水面から光が差している。
「あと、ちょっと!」
少女が叫んだ。わたしも少女も必死で泳ぐ。外に向かって全力で泳ぐ。
あと少しで水面に手が届きそうになったとき、先導していた少女の動きが緩やかになり、そして、止まった。わたしもそれに合わせて止まる。
「……ねぇ、どうしたの?」
「ここでお別れ」
「えっ、なんで?」
「わたしは外の人間ではないから、そっちにはいけないの」
「えっと、どういうこと……?」
「わたしは置いてかれた者だから。だから、ここから先は、珠海ちゃんだけがいくの。もう時間がない。さぁ、行っておいで!」
少女が思いっきり、わたしを引き上げた。わたしは少女より上へと浮上する。少女の姿はもう見えない。
「振り向かないで! まっすぐに泳いで!」
凛とした声だった。わたしの背中を後押しする声。優しく、愛のある声。わたしの胸がいっぱいに満たされる。
「……ありがとう! わたしを助けてくれて、ここまで連れてきてくれて、ありがとう!」
わたしは振り向かず、叫んだ。叫んで、水面へと手を伸ばす。
その刹那、温かな光が、わたしを包んだ。
まばゆい光が照らす。わたしは伏したまま、視線を巡らせた。どうやら、わたしは、浜辺にうつ伏せになって、寝そべっているようだ。まばゆい光は朝日だった。おおらかな太陽がわたしを静かに見守っているのだ。海がさわさわと静かに騒いでいる。
わたしはおもむろに起き上がった。体にこびりついている砂を落とす。体が重く、息をするのが少しだけ苦しい。海の中とは全然違う。
そうだった。外の世界は、明るいだけじゃない。すごくすごく息苦しいんだった。
「珠海ちゃん」
声が聞こえた。聞き慣れた声が、波の寄せ返す音にかき消される。空耳だろうか。
「珠海ちゃん!」
再び聞こえる。わたしがキョロキョロと周囲を見回すと、唐突に抱きしめられた。ものすごい力だ。
「珠海ちゃん! よかった! すごく、すごく心配したのよ!」
「伯母……さん?」
「そう! 伯母さんよ! あぁ、本当によかった。本当に、本当に、みんな心配したんだから!」
「えっと……、あの……。ごめんなさい」
伯母さんの温かな胸の中で、謝る。伯母さん髪からほのかに潮の香りがした。
「ううん。無事で何よりよ。でも、どうして真夜中に一人で海に行ったの? 何か、あった?」
伯母さんは抱擁を解いて、わたしの肩を優しく掴む。伯母さんがとてもまっすぐに、わたしを見つめた。
「えっと……それは……」
なんて答えていいかわからなかった。だから、こんな要領を得ない返事しかできない。わたしは、右手で自分の胸を押さえる。
「あ、ごめんなさい。質問攻めしちゃったわね……。私ったら、興奮しちゃって……」
伯母さんがわたしの肩から、そっと手を離した。
「いえ、わたしが夜中に抜け出したのがいけないので……。でも、夜中だったのに、どうしてわたしがいないって、わかったんですか……?」
「……昨日の夜、嫌な予感がしたの。身の毛がよだつような、すごく嫌な予感よ。だから、ちょっとだけ、珠海ちゃんのお部屋を覗いてしまったの。勝手に珠海ちゃんのお部屋に入っちゃってごめんなさいね。でも、珠海ちゃんが寝ているのをしっかりと確認しないと、胸騒ぎが収まらないって思って……」
もう一度「勝手に入って、ごめんね」と、おばさんが申し訳なさそうな顔をして、小さく頭を下げる。わたしは首を横に振った。伯母さんが話し続ける。
「お部屋に入ったら、珠海ちゃんがベッドにいなくて、伯母さん、心臓がひゅってしちゃった。トイレか何かかと思ったんだけど、トイレもお風呂もベランダも他の部屋にも珠海ちゃんがいないから、慌てて珠海ちゃんのお父さんとお母さん、あと、伯父さんを起こして、探しに出たのよ。伯父さんは、行き違いにならないようにお家で待ってるんだけどね」
「そう、なんですね。ご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
「ううん。いいのよ。こうして、珠海ちゃんが見つかったんだから。……それに、この海は魅力的だもの。呼ばれて応えたくなっちゃうときもあるわ」
伯母さんが黒目を上に動かした。そして、空の一点を見つめる。
「え……?」
「あぁ、ごめんなさい。変なことを言ったわね。さ、みんな心配しているし、帰りましょ。っと、その前に、みんな心配してるから、『見つかったよー!』って連絡しちゃうわね」
伯母さんは、ダボっとしたズボンからスマホを取り出し、文字を打ち込む。カツカツと、スマホに爪が当たる音がした。
「さっ! みんなに連絡完了! 暑くなって来ちゃうし、帰りましょ」
伯母さんが道路の方に向き直ろうとしたとき、わたしは無意識に伯母さんの真っ白なTシャツを掴んでいた。
「伯母さん、海が呼ぶってどういうことですか」
伯母さんが振り返る。
「ん?」
わたしは潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、伯母さんを見据える。
「さっき言いましたよね。海に呼ばれて応えたくなっちゃうって。それに、前に海に行った時も、海は人を飲み込むって」
「うん。言ったわね」
「……。あの、伯母さん。どうしてわたしが海にいるのか、聞いてくれますか?」
「ええ、もちろん」
「少し、信じられないような話なんです。それでも、聞いてくれますか……?」
「もちろんよ。聞かせて?」
伯母さんはわたしの手を取り、頷いて、にっこりと微笑んだ。
「わたし、あの夜、わたしの部屋で、海に呼ばれたんです」
いつも閉めているドアが開いていたこと。窓から海のさざめきとわたしを呼ぶ声がしたこと。喋るイルカに、美しい海の森、宝石の少女と、豪華なダンスボール、海に溶けるわたしと、助けてくれた少女のこと。そして、少女がわたしが戻るのに後押ししてくれたこと。
わたしが話し終えても、伯母さんは口を開かなかった。わたしの手をぎゅっと握り、口を結んで、わたしのことをじっと見つめている。
信じてくれるだろうか。頭のおかしな子だと思われないだろうか。
胸がざわめき始める。
伯母さんはわたしの話を絶対にバカにしたりしない。それは、確信できる。だけど、こんな突拍子のない話を信じるかどうかは、話が別だ。御伽話のようなあり得ない話を突然する女の子なんて、頭のやばい奴だ。どこかに頭でもぶつけて、変なことを口走ってると思われるかもしれない。思われても、仕方ない。
そもそも、どうしてわたしは、非現実的な話を伯母さんに打ち明けているのだろう。伯母さんなら信じてくれる、そんな気がしてしまったんだ。
伯母さんがふっと視線を緩め、短い息を吐き出す。
「そうだったの。そうだったのね……、珠海ちゃん。でも、貴女が海から戻って来てくれて、本当に良かった」
伯母さんが手に再び、ぎゅっと力を込める。
「信じて、くれるの?」
「もちろん、当たり前じゃない」
伯母さんは嬉しそうに、だけども、切なそうな顔で微笑み、大きく頷いた。その笑みが重なる。伯母さんの寂しそうな笑顔が、助けてくれた少女の面影と重なった。
よく似ている。
目元も口元もそっくりだ。ただ、髪の毛の色と皺の数が違う。だけど、わたしをまっすぐ見た時の視線も、しなやかな輪郭も、ほとんど同じだ。わたしは目をみはり、目を擦った。その間に、少女の面影は消え、伯母さんの顔だけが残る。
まさか、まさか……、あの少女は。
そこまで考えて、心の内でかぶりを振る。そんなわけない。だって、伯母さんはこうして、外の世界で生きている。もし、海の中に伯母さんがいるとしたら、海の中に残るという選択をしたということになる。辻褄が合わない。
……だけど、もし、あの少女が本当に伯母さんだったら?
「ねぇ、もしかして、伯母さんも……」
「珠海!」
聞き慣れた声が耳に流れ込んでくる。わたしは振り向いた。お母さんが不器用に足を動かしながら、ザクザクと砂の音を立ててわたしの方へと向かっている。
「お母さん……」
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