12話 とけゆくわたし(2)


「ねぇ、貴女、自分の名前、言える?」


「わたしの、名前……? そんなの、言えるに決まってるでしょ。えっと、わたしの名前は…………名前は。名前は……。だから、えーっと……あれ……、なんだっけ?」


 出てこない。自分の名前が、すらりと出てこない。なんで? どうして?


 辺りを見回しても、白くぼやけている。なにも見えないのだ。目の前にいるであろう人も、海の風景も、灰色に閉ざした世界も、なにも、見えない。


「どうして、どうなってるの。どうして」


 わたしは身を捩り、誰かの腕の中で暴れる。


「落ち着いて! 大丈夫だから、落ち着いて!」


 抗うわたしを誰かがさらに強く抱き締めた。抱きしめるというより、暴れる大型犬を捕える時に近い動きだ。腕がわたしの身体に巻き付けられる。強い力だった。わたしの力は吸収され、誰かの胸の中に静かに収まる。ゾッとするほど冷たい風が吹いた気がした。


「貴女は、今、世界と同化しているの。海に溶けようとしてるんだよ。貴女を形作るものは消え、貴女と世界の境界線はなくなる。その第一歩が名前なの。……貴女は、まだ、海と一つになりたい?」


 目の前の見知らぬ誰かに、問われた。わたしは無言だった。


「貴女は選ばなくちゃいけない。このままここにいるか、それとも、ここの外に出て大地の中で生きるか」


「そんなの……わたしは……」


 答えられない。先程まで、あんなに海と一つになりたいと願っていたのに。その熱い思いは涙と共に流れ去ってしまったみたいだ。


「ねぇ、貴女のいた世界は、本当に、辛いことばかりだった?もし、このままここにいたら、もう、お父さんにも、お母さんにも、お友達にも、他の人たちにも会えなくなっちゃうんだよ。楽しみにしていたテレビも動画も、新作のお菓子も食べれなくなっちゃうの。……貴女がまだ見ていない素敵なもの、たっくさんあるよ。それを全て捨てちゃってもいいの?」


 苦しかった。辛かった。逃げたかった。……でも、ここまで生きてきた。頑張ってきた。それを全て失うのは、少し、いや、ものすごく、怖いかもしれない。


 視界を失った目を閉じる。閉じた先には、お母さんがいた。


 お母さんは手先が不器用な人だ。編み物もできなければ、折り紙すらできない。直線に縫えなかったり、紙をピッタリ合わせて折るのが苦手なのだ。


「お母さん、下手くそー!」


 と、わたしが笑ったこともある。そうすると決まって、


「えー? そうかなぁ? 不格好でも、ほら、みて! お母さんだけの、かわいい折り鶴ちゃん! 他の人には出せない味だよー!」


 なんて、人懐っこい笑顔で笑って見せていた。無邪気で、優しくて、少し子供っぽくて。そんなお母さんが大好きだった。


 以前、わたしがまだ小学校の中学年くらいだった頃、お母さんと一緒にキッチンに立ったことがあった。そのとき、お母さんの手際の良さにとても驚いたことを覚えている。お母さんは、ぱぱっと味噌汁を作り、ぱぱっと野菜を切って、ぱぱっとご飯を炊く。ぱぱっと動いている間も、使い終わった調理器具を洗ったり、わたしのお世話をしたり、忙しなく動いていたと思う。


 すごい。器用だ。こんなに手際よく動いている母を初めてみた。


「すごい……。お母さんって、そんなに器用だったんだ」


「器用なんかじゃないのよ。ただ、料理が好きなだけ。あと、料理は手先を使わないでしょう? 細かい作業はダメなんだけど、料理みたいに段取りを立てて、並行で物事をするのことが、昔から得意なのよね」


 段取りという言葉も並行という言葉も、よくわかっていなかったけれど、お母さんの凄さはよくわかった。かっこいいと思った。わたしもこんな風に器用にいろんなことをこなしたいって思った。尊敬もした。お母さんと過ごす時間は、かけがえのない時間だったはずだ。なのに、どうして、お母さんとの距離がこんなにできてしまったんだろう。


 次に瞼の裏に現れたのはお父さんだった。


 お父さんは真面目な人だった。いつも厳格で、強くあろうとしていた父が怖くもあり、頼もしくもあった。


「誕生日おめでとう、珠海」


 誕生日には必ずケーキとプレゼントを用意して、仕事を早めに切り上げて帰ってきてくれた。誕生日当日が無理な日は、他の日に休みを入れてくれたり、厳格ながら、家族サービス旺盛なお父さんだ。

 険しい顔をすることも、わたしに「勉強しなさい」「お行儀良くしなさい」と強く言うこともあった。それでも、目を閉じて思い浮かぶお父さんの顔は、笑顔だった。

 一緒にいる時間が少ない分、お母さんと比べて距離があったと思う。わたし自身、思春期になり、父親との距離感を掴めないでいる。だけど、優しくわたしのことを第一に優先してくれるお父さんのことが、本当は大好きだった。


 次に現れたのは桜子だ。


 みんなの中心にいるリーダー的存在の桜子は、中学に上がってから、意地悪な表情をすることが増えた。人を馬鹿にしたり、噂話をしたり、嫌なことを言ったり、あまり好きになれない側面もある。だけど。わたしが桜子に救われたのもまた、事実だった。


 小学校の頃の桜子は、天真爛漫で、元気で、気の強い優しい女の子だった。桜子と一緒に過ごす時間は楽しくて、面白くて、甘やかな軽口を交わすときは本当に幸せだった。それに、桜子は、鈍臭さが目立つようになったわたしを、常に気にかけてくれていた。


 中学にあがって、小学校のときよりも濃くなった線に戸惑っていたわたしは、線を前に立ちすくむことがよくあった。他の友達がそれを変な目で見ていたこともわかっていた。


「あの子ってさ、ぼーっとしてること多いよね。何考えてるのかわからなくて、あたしちょっと怖いんだ」


 中学一年生のときの春の夕暮れ時、忘れ物を取りに帰った教室で、同じグループのあずさと桜子が話しているのを耳にしてしまった時がある。胸の奥がずくり、とした。あずさはしっかり者で、滑舌が良くて、シャキシャキッとしてて、どちらかというと苦手なタイプの女の子だ。グループの中で、誰よりもわたしとの間に太い線がある女の子でもあった。


「えー、そうかなぁ?」


「うん。ちょっと、ね……。喋り方もさ、いつも自信なさげだし、いつもモゴモゴしてて、何言いたいのかわかんないし」


 あずさがバツの悪い顔をして、目線を横に流す。


「まぁねー……。でも、あの子は真面目でいい子だよ? ウチみたいにノリでモノを言わないで、色々と考えてモノ言う癖があるからさ、反応が遅い時があるんだよねー。反応が変な時もあるけど、ウチ的にはそういうところも天然で憎めないと思うんだぁ。……あ、でも、これ、幼馴染びいきかも」


「えっ、桜子とあの子って、幼馴染なの?」


「そそっ! 幼稚園から一緒なんだ! しかも、ずーっと仲良し!」


「知らなかった。言われてみれば、たしかに、二人とも仲良いもんね」


「そりゃあ、あの子とウチは親友ですからねぇ。あの子のちょっとポーッとしてるところに何度癒されたことか……。あずさももっと仲良くなったら、あの子の良さがわかるよ」


 桜子がニヤリと笑い、あずさの肩にポンッと手を乗せる。


 嬉しかった。桜子がそんな風にわたしを思ってくれていたこと、陰でわたしを守ってくれていたこと、すごく、嬉しかった。


 桜子はいつだって、『扱いづらい』『変わり者』のわたしを気遣い、そばにいてくれた。優しくしてくれた。喧嘩しても、翌朝には、必ず「おはよう」と声をかけてくれた。


 桜子は心根の優しい子なのだ。


「天然キャラ、やめた方がいい」という言葉も「ウチら以外の前であまりポーッとしない方がいい」という言葉も、ただの悪意の言葉ではなく、もしかしたら、わたしを心配して言ってくれていたのかもしれない。今になって、少しだけ、そう思う。


 同グループの他の友達だって、みんな悪い子達じゃない。結美ちゃんはわたしに心を開いてくれたし、他の子達もわたしと仲良くしようと声をかけてくれることもあった。


 伯父さんや、伯母さんも、忙しいのにわたしによくしてくれた。本気でぶつかってくれてた。お母さんもお父さんも本気で心配して、改善策を考えてくれてた。


 ……そこに一線を引いていたのは、誰?


 目の前に線があるからと、深く濃い線を引いていたのは、誰?


 線を恐れて、一歩前に進まなかったのは、誰?


 自分自身に問いかける。


 ……わたし、だ。


 人と距離を取ってたのも、より太い線を引いてたのも、全部、わたし自身なんだ。

 胸の奥がぎりぎりと痛む。そして、熱い。


 そうか。わたし、みんなのことが好きなんだ。


 みんなのことが大好きで大好きで仕方がないのだ。だから、線があると悲しい。だから、否定されると苦しい。だって、大好きな人に拒絶されることは、わたしが思う以上に痛いことを知っているから。


 好き。好き。好き。好き。大好き。


 心の奥底に蓋をしていた大好きという気持ちが溢れ出る。


 本当は大好きな人に受け入れてほしい。大好きな人と分かり合いたい。お母さんとお父さんに本気でぶつかりたいし、桜子にあの時庇ってくれてありがとうって、お礼を言えてない。結美ちゃんとだって仲良くしたいし、伯母さんと一緒に海の絵を描きたい。もし、このまま海に溶けたら、もう二度とみんなと会えない。話すことも、分かりあうこともできない。


 嫌だ。それは、すごく嫌だ。


 やっと、みんなが大好きだって気づけたのに、このまま消えていくのは嫌だ。


「嫌だ! 消えたくない! 宝石になるのも、海に溶けるのも、どちらも嫌! わたしは、外の世界で生きたいの!」


 叫ぶ。力の限りに叫ぶ。


「それが貴女の答え?」


 誰かが尋ねる。


「そう! わたしの答え! わたしは外の世界で生きたい!」


 体の中に光が走った。一本の光が体に突き抜ける。稲妻に打たれたことはないけれど、きっと、こんな感覚だ。


 体の中で光が弾ける。赤、緑、青、黄色、ピンク、白。様々な色がぶつかり合い、わたしの中に消えていく。眩しい。熱い。光が爆ぜる音を聞いた。


 重たい瞼を持ち上げる。光がわたしを中心にして、ほとばしっている。花火みたいだ。


 燃え上がるような光の中で、目の前の人と視線が絡み合う。わたしと同い年くらいの少女だ。ピンクの宝石の少女ではない。どこにでもいるような普通の女の子が目の前にいた。嬉しそうな、寂しそうな、そんな顔をしている。


「ずっと呼びかけてくれていたのは、……キミ?」


 少女が頷いた。黒く長い髪をなびかせ、わたしをギュッと抱きしめる。ほんのりと潮の香りと甘いスイーツのような香りがする。


「よかった。本当に、よかった」


 どくん。どくん。どくん。鼓動を感じる。わたしの心臓の音なのか、少女の心臓の音なのか、わからない。だけど、心地の良い気分になった。


 光があたり一面に満ちる。


「ね、貴女。名前、思い出した?」


「わたしは……」


 少女の肩の上で喉が動く。そっと少女の肩を押し、抱擁から逃れた。


 わたしは少女と向かい合った。少女の眼差しを受け止めて、答える。


「……わたしの名前は、珠海。星原珠海」

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