11話 とけゆくわたし(1)
ああ、聞きたくない。喋りたくない。見たくない。嗅ぎたくない。知りたくない。
もう、なにも感じたくない。
線も、気遣いも、嘘も、悪意も、何もかも、感じたくない。
「苦しまなくていいんだよ。なにも感じなくていいの」
声が聞こえる。わたしの全てを受け入れ、肯定してくれる声だ。
世界が色を失う。艶やかな珊瑚礁も、煌びやかなダンスボールも、わたしの住んでいるマンションも、中学校の古い校舎も、全て褪せて鼠色に閉ざされてしまう。
耳が、口が、目が、鼻が、体全体が、硬化していく。感覚が一つ一つ失っていく。
変わりゆく身体を見た。黒く塗り染められていく世界の中で、私の身体は強い水色の光を放っている。
あぁ、わたしも美しい宝石になるんだ。そう感じた。
この海の中で光り輝く宝石になる。いいじゃないか。線のない大好きな海の世界で、美しい存在になれるのだ。醜い人間の姿からの脱却。なんて美しい物語だろう。
本当に? 本当に、いいの? このまま、ここにいていいの?
わたしとわたしが話している。だけど、思いも、思考も、だんだんと色褪せていく。
なんでもいいか。全部が全部、どうでもいいや。なんだか、すごく疲れちゃったよ。
海に体が溶けてゆく。体が硬直していく。世界との境界線がなくなり、わたしと世界の見分けはつかない。呑み込まれていく。温かくて、柔らかくて、優しい。心が凪ぐ。
ほろりと、温かい何かが目からこぼれ落ちた。春の木漏れ日みたいな温かさだ。それも、桜が散っていく寂しさのような切ない温かさ。それがなんなのか、わたしにはよくわからなかった。
「だめ! ダメ! ダメだよ!」
音が聞こえる。鋭くて、激しい音だ。
「ねぇ、ねぇったら! 聞こえる? ねぇ、まだ聞こえてるんでしょ?」
静寂の中に漂っているのに、それを切り裂くような騒音だ。うるさい。
「ねぇ、貴女! 聞いて! 私の声を聞いて!」
声? ……そっか。誰かがわたしに話しかけているのだ。どうして?わたしは世界と一つになろうとしているのに。どうして邪魔するの?
「貴女は、どうしてここにいるの。何で耳を塞ぐの?」
うるさい。
「何で目を閉じるの?」
うるさい。うるさい。
「何で鼻を詰めるの?」
うるさい。うるさい。うるさい。
「なんで言葉を封印するの?」
うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。
「心を閉ざすのは、まだ早いよ」
「あぁ、もう! うるさいってば!」
「ほら、聞こえるんじゃない」
目をかっぴらいて、叫んでいた。まばゆい光が目の中に飛び込む。
「わたしは、海に還ろうとしてたの! 邪魔しないでよ!」
視界が、音が、臭いが、肌の感覚が、体内に戻ってくる。熱い。痛い。重い。
「どうして、全てを諦めてしまうの。どうして、海の奥底に沈もうとするの」
「だって、だって……」
だって、見たくない。この世界は嘘だらけで、線だらけ。わたしがどう足掻いても内側には入れない。結局、どこに行こうが、このまま海と一緒になろうが、同じだ。いつだって、ひとりぼっちなのだから。本当の意味でそばにいてくれる人は誰もいない。理解してくれる人も誰もいない。どうしようもない疎外感だ。誰もわかってくれないのなら、このままここにいたっていいじゃないか。
体の横にだらりと腕が落ちる。
「……邪魔しないでよ」
誰かがわたしの肩を思いっきり掴んで、揺らす。
「邪魔するよ! このままここにいたら、元の世界には戻れなくなってしまうんだよ! 一生このままここで、何も見えず、何も感じず、過ごすことになるんだよ! それでもいいの?」
「いいよ。それで。いいに決まってるでしょ」
「よくない! 絶対よくない! 貴女はここにいていい人じゃない! 貴女は生きなくちゃ」
「アンタに何がわかるのよ!」
誰かの叫びに、わたしの怒声が被さる。
叫ばずにはいられなかった。何も知らないのに責め立てて、大声で拒絶して、わたしを言いくるめようとして、一体何様のつもりなんだ。腹が立つ。ムカムカとドス黒い感情がお腹の底から湧き上がってくる。わたしはぎゅっと拳を握った。
「アンタに何がわかるのって聞いてんの! わたしが何を感じてて、何を苦しんでいるのか、アンタにわかる? わかんないよね? わたしにだってわかんないんだから!」
叫び声が周囲に反響する。一瞬の静寂。静寂とともに、しゅるりと気持ちが萎んでゆく。
「わたしにも、わかんないんだよ……」
わたしは喘いだ。怒りの矛先をどこに向けていいのか、敵は誰なのか、わからない。わたしはなにもわかっていないことに気がついてしまった。
ぽつりぽつりと唸るように言葉を絞り出す。
「……みんなの周りに線があるの。みんなは線の内側で楽しそうにお話ししているのに、わたしは、決して中には入れないの。だって、線が見えてしまうから。線を越えようとすると、拒否されてズブズブと沈んでしまうから。……なんで、みんな易々と線の中に入れるんだろう。なんで、みんなには線が見えないんだろう。なんで、わたしはこんなにも不器用で、みんなが簡単にできているような人付き合いをすることができないんだろう。わからない。わからないの。わからなくて、羨ましい。でも、いくら羨んでも、わたしはみんなみたいになれないことも知っているの」
握っている拳に力を込める。手のひらに爪が食い込んだ。
「でもさ! みんなも悪いと思わない? みんな、本音を隠して、線を引いて、人との距離を取るんだよ? お母さんは寄り添うふりだけして、わたしの話を聞かないし、桜子はなんでも話してっていうのに、話したら変な目でわたしを見るの! お父さんも優しいけど、いつも疲れててイライラしてるし、周りの同級生もいつも人に気を遣って生きてる。なんで線を引くの? なんで声を聞いてくれないの? なんで否定するの? なんで線を引いているのに楽しそうに笑えるの? ずるい! ずるい! わたしもそっち側に行きたい! 線の内側にいって、心から笑いたい。楽しみたい。内側の人間に、わたしの声を聞いて欲しい! 否定しないで欲しい! わたしの本当の想いを知って欲しい! わたしの……わたしの……! だから、わたしは! わたしは、わたしを受け入れてくれる海に溶けるの! それがわたしの幸せなのよ!」
言葉が、止まらない。悲しみが、怒りが、恐怖が、止まらない。大雨の日に荒れ狂う川のようだ。言葉の氾濫が止まらない。止まらない。
「こんなわけわからないことを主張してるわたしはやばいやつでしょう? こんなことで学校に行けなくなるのも意味わからないでしょう? わかってるの。わかってるのに、どうしようもないの。だから」
「海と一つになりたい?」
「そう! そうよ! わたしはこのまま海に溶けるの!」
「……それって、本当に貴女の幸せ?」
「遮らないで! わたしの話を遮らないで! わたしの話を最後まで聞いてよ! なんでみんな聞いてくれないの? なんでわたしの本当の声を聞いてくれないの? なんで! なんで!」
わたしは目の前の誰かに縋りついていた。膝から崩れ落ちる。
喉に何かがつかえて、息が苦しい。脈が速くなり、自分の発した罵声が身体を巡る。粘つく思いが喉に絡まり、呼吸困難を起こしそうだ。
頭の中が痺れる。
そうだ、わたし、ずっと思ってたんだ。
内側に入りたい。声を聞いて欲しい。本音を見せてほしい。
ずっと思ってた。
言葉にするまで、自分がこんなに激しい感情を抱いていることを知らなかった。こんな願望を持っていたなんて知らなかった。わたし自身のことなのに知らないことばかりだ。
「そっか、そうだったんだね」
優しく温もりあふれる声が頭上から落ちてくる。知らない誰かが、わたしの頭をゆっくりと撫でた。
「貴女は、ずっと、一人だったんだね。ずっと、一人で抱え込んでたんだね。頑張ってきたんだね。えらいよ。本当にえらいよ」
ふわりと誰かに抱きしめられた。誰かは愛しいものを抱きしめるように、わたしのことを抱きしめる。漆黒の闇の中に光が流れ込んでくる。軽やかで温かな光だ。握りしめていた拳は緩み、わたしは目の前の誰かの抱擁を受け入れ始めていた。
「よく頑張ってきました。よく耐えてきました」
「わたし、頑張ってない。なにも、頑張ってないよ。……だって、わたしは、普通の人のようにできなくて、おかしくて、のろまで……。わたしは、なにも頑張ってなんか……ないの……」
「そんなことない。誰にも理解されない中で、ずっと、耐えてきたのでしょう? 無理やり笑って、もがいていたのでしょう? どんなに辛くても、今日までずっと生きてきたのでしょう? それってすごく、すごいことなんだよ。貴女がたくさんたくさん、うんと、うーんと、頑張ってきたから、なんだよ」
「でも……、でも……」
子供をあやすような優しい手つきで、ポンポンと背中を叩かれる。鼓動のリズムに合わせて、刻まれる音が、心地よい。
「普通に生きることって大変なことなの。そもそも、『普通』なんて誰にも定義できないんだ。人によって基準は曖昧だし、国や時代によって『普通』が変わることもありうる。だからね、そんな不確かな世界にいるだけで、生きているだけで、それは奇跡なんだよ。すごいことなんだよ。貴女が頑張った証なの。頑張って生きてきた証なんだ」
身体の芯が熱くなり、熱が胸元に、喉に、目に迫り上がってくる。その熱は涙となって、溢れ出てくる。また、氾濫が起きてしまった。涙を堰き止める堤防は壊れ、わたしの涙は荒れ狂う川のように流れ続ける。
わたし、頑張ってたのかな。普通じゃなくても、いいのかな。
わからない。わからないけど、涙が止まらない。背中を優しく叩く音に、心が揺さぶられる。涙が停めどなく湧いてくる。
ずっとずっと、辛かった。痛かった。寂しかった。苦しかった。一人だった。それって、たいしたことないって思ってた。苦しくても、耐えられるって思ってた。想いを全て飲み込んで、蓋をしておけば、たまに苦しくなることはあっても、大丈夫だって、そう思ってた。本気で信じてた。……だけど、本当はこれっぽっちも大丈夫なんかじゃなかったんだ。
わたしの心は思った以上に、締め付けられ、悲鳴をあげていたんだ。
気づいたら、止まらない。心の痛みと涙が止まらない。内にこもってきた想いと共に、嗚咽が込み上げ、わたしの呼吸を荒くする。呼吸がうまくできなくなる。悲しみ、怒り、失望、疲労、虚しさ、寂しさ、あらゆるものが混ざり合って、わたしの胸の内を荒らす。
泣けば泣くほど、頭の中が真っ白になって、泣き声が頭の中に響く。クラクラしてきた。苦しい。もう泣き止みたい。なのに、全然涙が止まらない。
「よしよし。頑張った。頑張った。えらい、えらい」
その声は、深く、柔らかかった。
「すべて、吐き出しちゃえ。仕舞い込んだ思いは、じわじわと侵食するように人の心を蝕む。だから、吐き出して。抱え込まないで」
わたしを抱きしめる目の前の人に縋りつき、わたしは声が枯れるまで泣いた。目の前の人はなにも言わずに、ただわたしを抱きしめ、背中をさするだけだった。
しばらくして、わたしの涙は少しずつ引いていった。相変わらず、頭はクラクラするし、喉がひくつくけれど、それでも、大号泣していた時よりか幾分、楽になった。激しく感じた苦しみも、今は少し落ち着いている。
わたしはまだ、抱きしめられていた。子供のようによしよしと、あやされている。冷静になってくると少しだけ、照れ臭い。
見知らぬ人にたくさん甘えてしまった。縋りついてしまった。ぼんやりとする頭が少しずつ晴れてきて、やっと自分のしたことの恥ずかしさに思い当たった。
お礼を言わなくちゃ。きちんと目を見て、泣かせてくれて、そばにいてありがとうって、伝えなくちゃ。
顔を上げる。だけど、見えない。視界がぼやけて、なにも、見えない。
そういえば、気配を感じるのに、確かに抱きしめられているのに、声だって聞こえてきてるのに、この人が誰なのか、男なのか女なのか、そもそも人なのかも、わからない。
「……貴方は、誰?」
混乱する頭で出てきた言葉は、そんな不躾なものだった。
「私は……」
唐突に、間違えてアナログボタンを押してしまった時のテレビのノイズのような音が滑り込んでくる。その音に掻き消されて、なにも聞こえなくなる。ノイズはすぐに消えた。同時に、今度は人の声が耳に届く。
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