10話 華やかなダンスボール(3)


 どうしよう。とりあえず、あの子が向かった方へ行ったほうがいいかな……。お腹が空いてるって言ってたし、きっとご飯を食べているはず。


 わたしは顔を引き締め、人をかき分ける。だけど、前に進めない。人々が押し合い、わたしが進むのを妨げるのだ。この会場全体が満員電車のように人が溢れかえっている。


 足がもつれた。とたん、周りの人間がサーッとはける。身体が前のめりに倒れ込む。痛みが腕を突き抜けた。ついた両掌がジンジンと痛い。


「どうなってるの……」


 ぼんやりとした人影がわたしを避けて揺れる。揺れ動く。


「ジェームズさん、お久しぶりです。息災にお過ごしですかな?」


「いやぁ、それがこないだ考案した服飾のデザインが大流行しましてな。それはそれは忙しい毎日を送らせていただいておりますよ。イアンさんはいかがお過ごしで?」


 え、なに……?


「あら、いやだ。ミットフォード氏ったら、お上手」


「こちらの宝石、美しいでしょう。本当にいつもお目が高い」


「うちの倅がお宅にご迷惑をかけました……。わたくしの不徳の致すところであります……。ささ、飲んで飲んで。今宵はわたくしめにお任せください」


「はっはっはっ。妻には内緒ですぞ」


 人々の喋り声と笑い声が、耳の奥にこだまする。


 どうなってるの……?


 ゆらめく人影が華やかに笑い、明るく歓談する。様々な人の声がダンスホールにこだまする。ここでやっと、さっきまでわたしが、少女とわたし、二人だけの世界にいたということに気がついた。人々は背景だった。ただの舞台装置。それなのに、背景でしかなかった人たちに、命が宿ってしまったのだ。


 この人たちは、誰なの……。あの子はどこ?


 必死で辺りを見回す。だけど、どこを見ても、人、人、人。少女は見当たらない。


「公爵様は辺境の伯爵令嬢に夢中なんだそうよ」


「まっ。そんなみっともない噂話はおやめなさい。淑女たるもの……」


「本当にこの船は豪華なものですな。この航海が成功した暁には、我々の未来が保証されたもの同然でしょう」


 気品に溢れた人たちが笑い声をたてる。ある者は口元を綻ばせ、ある者は口を大きく開けながら。……だけど、わたしにはわかってしまう。ここにいる大人たちは誰も笑っていない。笑い声を響かせていながら、目は少しも笑っていないのだ。


 線だ。線がある。線の存在を忘れていた。少女に出会ってからずっと見えていなかった。その線が、ここにはっきりとある。


 誰もが素顔を隠し、化けの皮を一枚、被っている。腹の奥に逸物を抱えているのに、それを見せない。誰もが線を作り、誰もをその中に入れることはしない。


「是非とも貴方の娘さんを私の倅に……」


「やだ、ちょっと……、こんなところで……。夫にバレたらどうするんです?」


「このお金でなんとか……、うちの店を贔屓にして頂けませんかね?」


 被っている皮から、チラリと嫌な本音が覗く。贈賄、不倫、政略結婚……。人間の汚い欲望がこの空間に渦巻いている。


 嫌だ。すごく、嫌だ。気持ちが悪いし、吐き気もする。


「見て、このドレス。ワタクシのお父様が買ってくださったのよ」


 虚栄。


「この事業は素晴らしいと思いませんか? これに乗っかれば、必ずや貴方は儲かりますよ」


 欺瞞。


「あーぁ……。あの人さえいなくなれば、全てうまく行くというのに」


 憎悪。


 無数の悪意が肌にビンビンぶつかってくる。上辺だけは穏やかな世界が、痛くて、重くて、息苦しい。


 わたしは下を向き、唇を噛んだ。人々の笑い声がダンスホールの天井にまで響き渡る。


「珠海とウチってなんでも話せる親友だよね!」


 突然、桜子の声が聞こえた。わたしは顔を上げる。だけど、桜子はいない。ただ、人の影がわたしの周りでゆらめいているだけだった。


「ウチ、珠海にだったら、なんだって話せるよ! ウチらの間には秘密はなしね」


 明るく無邪気な声だ。


 秘密はなし。そう言ったから、わたしは線のことを話したのに。


 桜子に突き放されたあの日の放課後を思い出してしまう。重い道具箱と、うっすらと暗くなった夕暮れの道路。桜子の変なものを訝しげに見る鋭い視線と、体を少しのけぞらせた様子。ありありと思い出せる。異質なものに対する桜子の拒否反応が苦くて、痛くて、思い出すと、胃がキリキリとしてくる。


「珠海はいい加減、天然キャラやめた方がいいと思うな」


「ねぇ、聞いてる? 珠海って、時々ボーッとしてウチらの話聞いてないよね。ウチらだから許してるんだからね。ウチら以外にはやったらダメだよ?」


「知ってる? 隣のクラスの山岸さん。あの子、こないだおじさんと歩いてたらしいよ! やばいよね。キモすぎ」


「えー! そんなの好きなの? 趣味悪っ! バカみたい!」


 桜子の声が頭上から降りかかってくる。悪意がわたしにぶつかり、突き刺さる。


 やめて。やめてよ。


 わたしは床の上で指を握りしめた。苦味が胃から迫り上がってくる。


 一つ一つの言葉は大したことない。大したことないって思ってたのに。


 学校にいる時も、桜子と話してる時も、部屋で一人引きこもってる時も、こんなに苦くなかった。桜子との間に線を感じて寂しかったことは多々あるけれど、こんなふうに苦く、痛く、胸がざわつくことはなかった。こんなふうに思い出すこともなかった。桜子の悪意のある言葉が見える。桜子の口調、息遣い、視線、腕を組んだ様子まで蘇ってくる。


 苦しい。苦しい。苦しい。胸が悲痛な叫びをあげている。


「珠海ちゃん、ごめんね。お母さんが悪かったのよ……ごめんね」


 桜子の声がお母さんの声に変わった。許しを懇願する声だ。


「珠海ちゃんはどうしたい? お母さん? お母さんはいいのよ。珠海さえ良ければ」


「珠海ちゃん、お母さん、わかってあげられなくてごめんね」


「ごめんね。ごめんね……。本当にごめんね」


 ……やめて。もうやめてよ、お母さん。


 わたしはまた、拳を握っていた。


 お母さんは本音を隠して、詫びる。謝ったら、楽だから。謝ったら、相手の口を塞げるから。無造作に謝る。自分が本当に悪いと思っているから謝るのではなく、ただその場から逃げたくて謝る。姑息で、卑怯だ。


「私……、あの子が……わからないの……」


 わたしの声を、聞かないからでしょ。


「私、もう辛い。辛いのよ」


 わたしだって、辛いのに!


「思春期は難しいからな。仕方ないさ」


 仕方ないってなに? わたしは仕方がない人間なの? 仕方ないって諦めて、わたしを放り出すの?

 気を遣って、線を作って、わたしを追い出す。


 仮面を被った同級生が、お父さんが、お母さんが、見たこともない知らない人たちが、笑い、泣き、怒り、くるくるとわたしの周りをまわりながら、嘲笑う。


 変な子。理解できない。扱いづらい。空気読めない。ノリ悪い。キモい。うざい。


 同調しないと。合わせないと。笑わないと。謝らないと。よく見せないと。


 本音の塊がぐるぐるぐるぐるわたしの周りを漂い、わたしに覆い被さる。


「もうやめて!」


 うずくまりながら、叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。汚い。汚い。汚い。どうして人間はこんなに汚いの? なんて陰湿で、醜いの?


 いやだ。なにもかもいやだ。


 口の中に苦味が広がる。身体が震えて止まらない。悪意がベトベトになって張りつき、絡まる。目から溢れ出る涙が、海に溶ける。


 苦しい。苦しい。苦しい。


 世界が暗闇に沈む。真っ暗だ。


 艶やかな床も消え去り、ガサガサとした焦茶の木の板が敷き詰められている。棘が指に刺さり、痛みが走る。豪華だった船内は朽ち果て、弱々としたみすぼらしい沈没船に戻っていた。


「珠海ちゃん、ここにいたんだ」


 冷たく澄んだ声がわたしの耳に染み渡る。


「ダンスパーティ、終わっちゃったみたいだね」


 なにか、しゃべらなければ。


 そう思うのに、顔も上がらなければ、唇ももぞもぞと動くだけで、声が出ない。


「珠海ちゃん、大丈夫? 苦しい?」


 そっと背中を撫でられる。涼やかで優しい手つきだった。わたしはゆっくりと顔をあげた。このくすんだ場所に似合わないほど、鮮やかなピンクが、屈んでわたしを見つめている。その少女は無垢そのものだった。無垢な顔をして首を傾げている姿は、とても綺麗だった。美しかった。真っ直ぐだった。誰の悪意にも晒されていない。悪意とは無縁なのだ。わたしは手を伸ばす。手を伸ばして、太ももに触れた。やはり、少女はひんやりとしている。


「苦しい、の……。暗くて、寒くて、痛くて、苦くて……。苦しいの……」


 やっとの思いで出した言葉は、要領を得ないものだった。少女は喜びも、哀れみも、悲しみもない表情でわたしを見つめ続ける。


「うん。外の世界って、暗くて、寒いの。太陽が世界を照らしているのに、海底よりも何倍も暗くて、寒いの。どんなに華やかに飾ったって、この沈没船みたいに嘘だらけ」


 とくん。とくん。心臓が静かに音を立てる。荒波だった心臓は落ち着きを取り戻し、過呼吸気味だった息は整えられた。体全体で、少女の声に耳を傾けている。


「でもね、海の世界は明るくて、温かいんだよ。……ほら、見て」


 少女が沈没船とは反対側に指を指す。わたしはゆっくりと上半身を起こして、指差す方を見やった。


 光だ。光が水流に合わせて舞っている。海底の砂もキラキラとした光を放ち、煌めき、輝いている。


 あぁ、綺麗だ。周りの全てが光で満ちて、わたしの心もじんわりと温まる。ほんのりと潮の香りと優しいお花の香りがした。


 ここは、ここはなんて素敵な場所なんだろう。わたしを誰かを隔てる境界がない。悪意がない。へつらいも、嘘も、拒絶もない。優しいだけの場所だ。


「ね、綺麗でしょう? 外の世界よりも、ずっと綺麗なの。美しいの。温かいの。幸せなの。……でも、見て」


 少女が指を鳴らした。次の瞬間、世界がくるりと反転する。光も優しさも温もりも、何もかもが消えてしまった。暗闇だ。


 わたしは海の上に立っていた。月や星は厚い雲で覆われ、湿った風が吹きつけてくる。熱気と湿気が喉に絡まり、うまく呼吸ができない。喉がヒューヒューと音を立てる。指先と舌先が痺れ、じわじわとわたしの体から自由を奪い取る。


 苦しい。苦しい。この世界はあまりに重く、苦しい。心も体も少しずつ削られていく感覚がする。


 今すぐこの場から離れてしまいたい。


「ね、外はこんなに無慈悲なの。だけど、海はこーんなに、慈愛で満ち溢れている。そう思わない?」


 少女がわたしの両肩に手を置き、優しい声音で囁きかける。


 そうかもしれない。


 万物の根源である海に還る。それって、もしかして、素晴らしいことなのかもしれない。このまま外の世界にいたら、喉が塞がり、わたしは窒息死してしまう。悪意の重さに、押し潰されてしまう。


 ぴちゃり。足首が海の中へゆっくりと沈む。


「ねぇ、これからずっと一緒に暮らそうよ」


 少女は言う。


 わたしは黙っていた。頷きも、断りもせず、ただ、瞼を閉じて、身を任せる。


 体がずぶりずぶりと海に沈んでいく。


 わたしは静かに落ちていく。

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