9話 華やかなダンスボール(2)


「あれは……」


「船だよ。沈没船。きっと地上で難破して、沈んじゃったんだ」


 少女が淡々と告げる。物寂しげな船とは裏腹に、少女の声には悲しみも同情もない。


「きて。中はすごく綺麗なんだよ」


 少女の声色がくるりと変わる。明るく嬉々としていた。


 少女に引かれ、わたしは沈没船の横に回り込む。豪華に色付けられていたであろう船体は色が剥げ落ち、そこらじゅうに穴が空いている。沈没してから何年も経っているのか、腐敗しているところも見受けられる。この場所は、薄暗く、陰気な空気が漂っていた。


 こんなに薄汚いのに、中が綺麗なんて本当なんだろうか?


 船体の中を覗き込む。中はがらんとしていて、闇が深い。あまりの寒々しさに目を逸らしたくなる。この船は二度と手に入らない光を渇望している。そんな気がした。


「あ、ここから入れそう。」


 少女は腐敗した木の板を触りながら、華やかで明るい声を水中に響かせる。


「な、中に入るの?」


「そうだよ。言ったでしょう? 中はすごく綺麗だって」


「……そんなの嘘だよ。だって、中は、こんなに、こんなに、真っ暗で……」


 怖い。


 語尾がヘナヘナになって崩れ落ちる。少女の赤い瞳がわたしを射抜く。鋭いわけじゃないのに、わたしの臆病さを責め立ててるみたいだ。


「大丈夫だよ。私がいるんだから。……さぁ、行こう!」


 少女が空いた右手で木の板を剥ぎ取ると、元気よくわたしの腕を引っ張った。


 船体の中に入る。


 その瞬間、空気が、水中が、空間が、ぐわりと揺れた。それが合図だったかのように、辺りが七色に揺らめき、景色が変わる。崩れかけていたドーム状の天井はあるべき場所に戻り、朽ち果てていたはずの天井には天使の絵が艶やかに描かれ、縦にズラリとシャンデリアが並んでいる。ツルツルの焦茶の木の床はまるで鏡のように、天井を映し出していた。さらに、壁側には真っ白なテーブルにさまざまな料理が並び、黒い服を着たウェイターみたいな人がワイングラスを持って、立っている。どこをどう見ても豪華絢爛なダンスホールだ。


「な、何これ……」


「ね? 中は綺麗って言ったでしょ?」


「そう、だけど……。でも、だって、こんなの」


「ありえない?」


 少女が遮る。わたしは小さく頷いた。


「そうだね。……でも、珠海ちゃんがこうして海中で息をしているのも、私みたいな存在がいるのも、ありえないことでしょう?」


 今度は遠慮がちに頷く。


「ありえなくても、今、私と珠海ちゃんはここに存在している。沈没船は綺麗に蘇る。珠海ちゃんが知らないだけで、本当は、世界にはありえないことが溢れてるんだよ」


 ありえないことが溢れている。心中で少女の言葉を繰り返す。そうかもしれない。わたしがここにいるのも『ありえない』。光が当たってないのに海底が煌めくのも『ありえない』。そして、わたしが他人との間に線が見えるのも『ありえない』ことだ。


 ありえないことが溢れている。


 それは救いのような言葉だった。『普通』じゃなくても、いいよ。そう言われた気がする。わたしが人との距離を感じてしまうのも、学校に行けないことも、扱いづらい子なのも、別に変なことじゃないと教えてくれているみたいだ。


「踊ろう!」


 思考が深みにハマりそうになった瞬間、少女が繋いでいる右手をグイッと引っ張った。それほどの力ではなかったが、あまりに急だったので、よろめきそうになった。少女の華奢な体が、わたしをしっかりと受け止める。


「あはは、ごめんね! でも、せっかくのパーティだよ? 一緒に踊ろう!」


 この少女はいつだって唐突だ。少女はわたしの右手を持ったまま、白く滑らかな右手をわたしの腰に回す。


「まって! 踊り方、よくわかんないよ……! わたし、キャンプファイヤーのマイムマイムしかしたことない……!」


「大丈夫! 私もわからないから!」


「えっ、わからないのに踊ろうとしてるの?」


「うん! だって、こういうのって、踊ったもん勝ちでしょ?」


 少女が声音を弾ませ、くるくると回りながら、ステップを踏む。


 ポン、ポロロン。ポロロンポロロンポロロン。


 ピアノの軽快な音がホールに響いた。


 演奏の中、わたしと少女は華やかなダンスホールでステップもリズムも動きも気にせず、めちゃくちゃに踊る。少女に身を任せ、少女もわたしに身を任せ、二人で踊る。


 楽しい。


 真っ赤な布とエメラルドグリーンの布が目の縁ではためく。


 いつの間にかわたしは、真っ赤なドレスを着ていた。少女も透き通るエメラルドグリーンのドレスを着ている。それだけじゃない。わたしたちとウェイターしかいなかったダンスホールには、ピアニスト、ダンスを踊る人々、端でおしゃべりする人、ご飯を食べたり、お酒を飲んだりする人で溢れかえっていた。


 変なの。こんなのって、ありえない。


 広いダンスホールを誰ともぶつかることなく、くるりと軽快に踊る。


 ありえないけど、楽しい。すごく、すごく、楽しい。


 ステップを踏むたび、心が軽くなる。満たされる。生きている心地がする。


 わたしと少女は一曲踊り終わると、顔を見合わせて笑った。こんなに楽しかったのは、いつぶりだろう。こんな明るく華やかで美しい世界は無縁だと、ずっとどこかで思っていた。本気で笑うのも、本気で楽しいと思うのも、わたしにはできないと思っていた。


 いつだって目の前には線があって、みんなとわたしの間には距離があって。誰も分かってくれない悲痛さと、一人ぼっちの心細さに苛まれる苦しさの中で、わたしは、本気で楽しむことも、本気で笑うこともできなかった。


 わたしは、笑う。ごまかすためでも、気を紛らわすためでもなく、自分が心から楽しいと思って笑う。今、すごく幸せだ。


「あーぁ、楽しかったね!」


「うん、すっごく」


「たくさん踊ったらお腹すいちゃった! あっ、あっちにたくさんご飯があるよ! 行こう!」


 少女は身を翻して、人と人の間を器用に縫いながら、駆け抜ける。


「あっ、まって!」


 談笑する人たちが、わたしと少女の間にスッスッと立ち塞がる。


「まって、まってよ!」


 わたしの声は群衆に飲み込まれ、消えてしまう。置いてかれてしまった。名前を呼ぼうと思っても、わたしは少女の名前を知らない。この人混みの中、少女を見つけられる自信もなかった。八方塞がりだ。

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