8話 華やかなダンスボール(1)
沈む。沈む。沈む。わたしはどこまでも沈む。
最初はイルカと共に水平線を走っていたはずだ。それなのに、いつの間にかわたしとイルカは海の中へと潜り込んでいた。
海底の暗闇にどんどんと沈んでいく。沈んで、沈んで、沈んで、わたしは泡になる。わたしという体の境界がわからなくなってくる。体の境界が、世界の境界が、混じり合い、消えていく。海の中にわたしは溶ける。今、わたしと海は一つだ。そんな感じさえする。
心地がいい。幸せだ。
切なくて、痛くて、優しくて、柔らかくて……。なんとも形容し難い感覚に襲われる。この感情をどう言葉にしたらいいんだろう。わたしはこの感情を表す言葉を、知らない。
しばらく心地の良さに彷徨っていたら、
「ピィー!」
という、イルカの声が耳に入り込んだ。
体が一斉に
……わたしがわたしに戻る。
なんて、息苦しいんだろう。なんて、体は重いんだろう。
唐突に、足が陸に着いた。体に水圧がのしかかる。
そこは海の底だった。それなのに息ができる。上を見上げても、水面は見えないのに、海の底の砂利や貝が白、紫、赤、黄色、緑と、様々な色を放って輝き、色彩豊かに揺らめいていた。
ずっと一緒だったイルカがスルスルと体から離れる。
「ありがとう」
イルカは何故かお礼を言うと、わたしが引き留める間も無く、去っていった。
どうしよう。一人になってしまった。
イルカと離れて、体の一部がなくなってしまったかのような喪失感が襲う。
煌めく海の中、わたしは一人、立ちすくんだ。
これって、もしかしなくても、やばいやつなんじゃ……?
胸の中に不安が募る。募るのに、どうしてだか、そこまで怖いとは思わなかった。
少しだけ、海の底を歩いてみる。一歩踏みしめるごとに僅かに浮遊するが、確かに海底を自分の足で歩いている。足に絡まりつく砂利がくすぐったい。
ああ、なんて気持ちがいいんだろう。
イルカと共に海に潜ったときとは違う心地よさが、ここにはある。身体中を潤わせる冷たい水がわたしの心を満たす。肌に感じる気持ちよさだ。
髪の毛が水流に合わせてなびく。
ほんと、なんて気持ちいいんだ。わたしは瞼を閉じた。体全身に海を感じる。
「きてくれたんだ」
淡く透明な声が、背後から聞こえた。
「えっ」
振り向くと、ピンクが見えた。ピンク色の髪をしたショートカットの少女が後ろに腕を組んで、笑顔でこちらを見つめている。
「こんばんは」
水流が少女の短い髪を僅かにそよがせる。
人間じゃない。
思わず少女の顔をまじまじと見つめてしまう。あまりの美しさに見惚れてしまったのだ。
肌は白く、艶やかに唇は赤い。髪の毛はピンク色で透き通り、真っ赤な瞳を持っていた。
人間じゃない。海の中にいるから、マーメイド? でも、足は魚ではなく、人間の足だ。つまり、マーメイドではない。だけど、美しい。
「じっと見つめて、どうしたの?」
少女が不思議そうに首を傾げる。そこで、わたしは自分がずいぶんと失礼な視線を向けていたことに気がついた。
「あ、ごめんなさい……!」
わたしは慌てて俯く。こんな好奇な目で見られたら、誰だって嫌な気持ちになる。嫌になる気持ちがわかるから、申し訳なくて、恥ずかしくて、俯いてしまう。
「そんな謝らないで? 珠海ちゃん、悪いことしてないんだから」
少女がわたしの顔を覗き込んだ。少女の長いまつ毛が揺れる。
「だけど、わたしったら、すごく失礼なことを……」
「珠海ちゃんは失礼なんかじゃないよ?」
今、わたしのこと珠海ちゃんって……。
ハッとした。わたしが顔をあげると、少女は軽やかなステップで、わたしから距離を取る。少女の足の運びが優雅で、わたしはまた見惚れてしまう。気づかなかったけれど、少女のノースリーブのワンピースが透けている。シースルーってやつだ。なのに、体の輪郭も形も見えない。それだけじゃない。耳にも首にも手にも、キラリと耀う宝石がいくつも埋め込まれ、少女の体を煌めかせている。明らかに人間の体ではなかった。
この子は一体……。
「どうして、わたしの名前を知ってるの……?」
「どうしてって……。だって、ずっと珠海ちゃんのこと待ってたから」
「待ってた……?」
「うん。……あ、でも、逆かも。ずっと待ってたのは、私じゃなくて、珠海ちゃんだね」
「えっと、それはどういう……?」
「とにかく、私は珠海ちゃんを待ってて、珠海ちゃんも私を待ってたってことなの」
「つまり、わたしをずっと呼んでいたのは、貴女……?」
「うーん……。そうなんだけど、正確には違うかなぁ……。実際のところ、私も呼んでたし、珠海ちゃんも呼んでたの」
「えーっと……」
「ふふ。誰が呼んでたとか、何が呼んでたとか、関係ないよ。今、珠海ちゃんと私がここにいる。それだけのことなの。そうでしょう?」
無機質で透き通った声が、わたしに問いかける。
本当に? 本当に関係ない? わたしは誰かに呼ばれて、誰かに会いたくて、ここにきたはずなのに。
「関係ないよ」
少女がわたしの心を見透かしたように、笑う。無邪気な子供の笑顔だった。
そうかな。関係ないのかな。関係ないってしていいのかな。
……でも、そうかもね。そもそも海にいること自体、おかしいことなんだもんね。喋るイルカと息ができる不思議な海、そして、宝石のような人間じゃない少女。疑問を考え出したら、キリがない。
ふっと肩の力を抜く。少女がわたしをまっすぐに見つめていた。
「行こう? 素敵なものを見せてあげる」
少女は左手を差し出して、わたしの右手をひったくる。
「えっ! ちょっと!」
「こっち。素敵なものを見せてあげる」
少女は二本の足を優雅にばたつかせながら、泳いだ。わたしも真似して、必死に泳ぐ。
少女とわたしが上昇すると、水面が見え、月明かりが水面から差し込む。海の中はまるで森のようだ。色とりどりの珊瑚、魚、岩石。海の中は思った以上に色彩に溢れている。紫、青、緑、揺れ動く黄色や橙。無数のサンゴとサンゴをすり抜けて泳ぐカラフルな魚たち。海水には月明かりが灯り、生物たちは優々とそこに漂い、息をしている。
「すごい……」
口から感嘆の声がこぼれ落ちる。
「綺麗でしょ。ここはいつでも綺麗なの。誰にも邪魔されない、美しい世界なんだよ」
「誰にも……?」
「そう。ほら、見て!」
少女が泳ぎながら、海底を指差した。そこには無数の煌めきがあった。光が反射してぴかぴかと自分の存在を主張している。
「あれは……?」
「鉱石。いわゆる宝石って呼ばれてるものかな。この海の宝物なんだ。だから、みんなには、内緒だよ?」
「宝石……」
「一つ、欲しい?」
少女は泳ぐスピードを落とし、首を傾げる。その仕草がひどく幼く見えた。
「あ、ううん。大丈夫。ただ綺麗だなぁって思っただけ」
「そっか! じゃ、いこ!」
少女の握る手のひらに力がこもる。最初は少女に手首を掴まれていたのに、いつの間にか、手を繋いでいる状態になっていた。
わたしは今、どこに向かっているのだろう。
ズンズン、ズンズン、ズンズン。少女とわたしは進む。泳ぐたび、海の景色は変わる。綺麗だったり、鮮やかだったり、色がなかったり、明るかったり、暗かったり、海もいろんな顔をもっているのだ。それが不思議で面白い。一向に飽きない。
わたしは少女の横に並んで泳いだ。最初は先導してもらっていたのに、今や、同じ速さで一緒に泳いでいる。二人旅をしているみたいだ。
「ちょっと急降下するよ。準備はいい?」
少女はわたしの返事を聞かずに、斜め下に向かって勢いよく泳ぎ出す。それに合わせて、手も勢いよく引っ張られる。少女に置いてかれないよう、わたしも足を思いっきりばたつかせた。
「待って! 待ってよ!」
少女は止まらない。勢いよく泳ぎ続ける。気を抜くと遠ざかってしまいそうな背中に遅れまいと、足をせわしく動かす。
「どこに、向かっているの……!」
わたしは息を切らしながら、少女に問いかけた。声が喉に絡まり、掠れ声しかでない。
「あと少しだよ」
少女は一切振り返らず、答える。わたしは口をつぐんだ。無言で海の底へと降りていく。
下へ行けば行くほど、水流が強くなる。同時に、視界がどんどんと暗くなる。水温がガクンと下がる。風は吹いていないのに、凍てついた風を感じてしまう。怖い。真っ暗だ。
「苦しいよね。ごめんね。でも、あとちょっとだから」
少女とわたしは泳ぎ続ける。少女の手を握る左手に力がこもる。そうしないと、少女を見失ってしまいそうだった。息が苦しい。
さっきまで、あんなに心地よかったのに。
先刻感じた気持ち良さなんて、微塵ない。美しい彩りは霞み、温かく優しい生命の気配は消えた。ただ暗くて、寒くて、苦しい海の底だ。なんて冷え冷えとして嫌な場所なんだろう。奥の深い深いところに引きずり込まれていく。底なし沼に落ちていくみたいだ。
「着いたよ」
少女の足が止まった。わたしも足を止める。少女に目をやった。少女はこちらを見ることもなく、海の底をまっすぐに見つめている。目線の先には、ある古めかしく茶色い、禍々しい物体があった。船だ。大きな船が水底で鎮座している。
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