7話 海がわたしを呼んでいる(2)


 それからの毎日、わたしはそれなりに充実した毎日を送った。部屋で伯母さんが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、優雅に宿題をしたり、リビングの大きいテレビで映画三昧の日を送ったり、伯母さんやお母さんと一緒に海水浴したり、伯母さんのアトリエにお邪魔して、わたしも下手くそなりに海の絵を描いちゃったり……。夏は日が長いはずなのに、あっという間に駆け過ぎてしまう。なんてことない日々は過ぎ、あっという間にお盆が来た。昨日から、お父さんもこの家にお世話になっている。あっという間に毎日が過ぎていくのに、東京にいたときには感じることができない充実感を味わっていた。


 この家の住民である伯母さんと伯父さんは変わった人だ。伯母さんはいつだってにこやかに笑っているのに、無理している感じが全然しない。したいことはしたい。やりたくないことはやりたくない。はっきりしていた。


 わたしとの関わり方もそうだ。わたしを拒絶したり、わたしのすることを一切否定したりせず、わたしの自由にさせてくれた。かといって、わたしに無関心かというと、そういうわけでもない。わたしの話を聞く時は全力で耳を傾けてくれるし、話をする時は全力で話してくれる。ダメなことはダメだと叱ってくれるし、絵が上手いと本気で褒めてくれたりもする。いつだって伯母さんは本気なのだ。


 伯父さんとはあまり顔を合わせないが、伯父さんは丸い人だった。体型の話ではない。雰囲気が丸いのだ。常に、人の話をニコニコと聞き、絶対に否定的な言葉は口にしない。口調も穏やかだし、一つ一つの動きもしなやかだ。丸い。本当に丸い。トゲトゲしているところが一つもない。夕飯を一緒に食べている時なんか、「美鳥の料理は美味しいでしょう?自慢の妻なんだ」なんて、甘い言葉を恥ずかしげもなく、さらりと口にする。


 わたしのことも「珠海ちゃんは十四歳なのにしっかりしてるね」とか「素直でいい子」とか、恥ずかしくて顔を背けてしまいたくなるほど、優しい言葉を投げかけてくれる。


 伯母さんも伯父さんも、二人をまとっている線も、緩やかだ。


 この家には嘘がない。伯父さんも伯母さんも無理をして笑ったり、無理して言葉を紡いだりしない。

 何もかも、東京とは違う。


 仕事から帰ってきたお父さんは、いつだってピリピリしているし、お母さんもそんなお父さんに気を使って気が張っている。学校でもみんな友達の顔色を伺って、言葉を放ち、行動を起こす。みんな、笑っているのに、心では笑っていない。わたしの周りには、そんな人ばかりだった気がする。


 わたしは大きく息を吐いた。


 この家は全体的に緩い。時間の流れも、規律も、会話も、空気感も、何もかも、緩い。


 わたし自身の心も、体も、頬も緩んでいく。


「珠海、最近、笑うことが増えたね。やっぱり、千葉に来てよかったわね」


 夜の二十一時。わたしの部屋に無断で入ってきたお母さんが、アンティーク風のテーブルに置いてある天使の置物をなぞりながら、つぶやいた。


「うん」


「お父さんもこっちに来たことだし、明日あたり、みんなで海水浴に行きましょうか! バーベキューをするのもいいかもね!」


「……うん」


「……どう、最近宿題は進んでる? 遊んでばっかじゃなくて、学校の宿題もやらないとダメだからね?」


「……うん」


 すっとクーラーの風が過ぎた。気怠いほど暑い夜なのに、わたしたちの間は薄ら寒い。


 この家に来てから、お母さんと話す機会が減った。話しかけられれば返事はするが、わたしから話しかけることはない。お母さんと過ごす時間が居心地悪いのだ。気を遣って、気を揉んで、遠慮して……。お母さんはいつも本気じゃない。わたしに一線を引いている。そのことが以前よりも増して居心地悪くなってしまったのは、伯母さんと伯父さんが、わたしに本気でぶつかってきてくれるからだと、気がついていた。


 お母さんが伯母さんのことをただのカウンセラーとしか見ていないことも、妙にわたしの胸をざわつかせる。伯母さんはわたしを『患者』ではなく、一人の『人間』として扱ってくれている。カウンセリングらしきことだって、何もされてない。ただ、一緒に笑い、泣き、怒り……、同じ時間を共有しているだけ。


 お母さんはいつだってわたしを『繊細で難しい子』と決めつけて接してくるけど、伯母さんは本当のわたし自身と向き合い、接してくれる。それは『患者』と『カウンセラー』という関係だからじゃない。人と人との関係なのだ。


 どうして、それがわからないのだろう。わからないお母さんに腹の底から腹が立つ。


 伯母さんが本当のお母さんだったらよかったのに。


 そんなひどいことを考えてしまう。そして、わたしはかぶりを振り、そう望む自分を叱った。


 お母さんがわたしのことを心配しているのも、わたしのために何かをしたいと思っているのも知っている。お母さんはお母さんなりに一生懸命なのだ。ただその一生懸命さがズレているだけ。


 分かってる。


 わかってるのに、鈍臭い母親に苛立って、冷たく当たってしまう。


「……じゃあ、そろそろ寝るよね。ちゃんとお腹しまって寝るのよ。昔から夏になるとエアコンの風でお腹壊すんだから」


「うん」


「それじゃあ、おやすみ」


「……おやすみ」


 パタリとドアが閉まる。わたしは腰掛けていたベッドの上に寝転んだ。


 わたしもいけないんだよな。


 線を引いているのはお母さんだけじゃない。わたしも母を拒み、距離を作っている。このままでは一生分かり合えない。線を取り除くことはできない。


 わかっているけど、お母さんと距離を縮めたいとは思わなかった。




 そよそよ。さー……っ。


 生暖かい風が流れる。遠くに海の音を聞いた。いつの間にか寝てしまったみたいだ。右手に握っていたスマホで時間を確認する。二時十七分。かなりの深夜だ。目の端で、テーブル横のカーテンが外の温かい風を包んでふわりと舞う。


 ……カーテンが舞う?


 わたしは素早く上半身を起こし、目を凝らした。


 どうして、窓が開いてるの? 伯母さんが入ってきたのだろうか。

 いや、伯母さんは個人やプライバシーをものすごく大切にする人だ。勝手に部屋に入るなどという不躾なことはしない。

 じゃあ、なんで……?


「珠海ちゃん……」


 微かにだが、聞こえた。あの時の、海の声だ。


 心臓が早鐘を打つ。耳の奥に波打つ音と心臓の鼓動の音がもつれあい、流れ込んでくる。


「きて。きて。きて」


 音にならない音が、わたしを呼んでいる。


 行かなくちゃ。


 どうしてだかそう思う。


 行かなくちゃいけない。わたしは、あの海に。


 わたしは何かに急かされるように着替え、足早に、けれども、静かに、伯母さんの家から抜け出した。


 波の音と潮の香りが濃くなる。真夏の夜風で身体が火照る。


 わたしは走っていた。走って、海に向かっていた。


 一人で海に行ったらダメ。


 珠海ちゃん……、こっち。


 伯母さんの声と、知らぬ少女の声が重なり、潮風に揉まれ、消えていく。


 どく。どく。どく。心臓が早い鼓動を刻む。眼前にはあまりにも広い海が広がっている。青白い月に照らされ、砂浜がキラキラと煌めいていた。朝や昼にみる海とはまるっきり雰囲気が違う。


 サンダルを脱いで、そっと浜辺に足を下ろしてみる。冷たい。ひんやりとしている。心地がよい。火照る身体にすーっと冷気が染み込んできた。


 わたしは前を見つめる。


 世界は夜なのに漆黒ではなく、藍色だ。澄んだ空気と青白い涼やかなまん丸の月が、どこまでも続いてる藍色の海を照らす。藍の海面には星々が映り込み、自分の存在を主張している。幻想的だ。まるで絵の世界にいるみたいだった。


「珠海ちゃん」


 まただ。また、呼んでいる。誰かが、わたしを呼んでいる。


「珠海ちゃん」


 聞こえる。


「珠海ちゃん」


 聞こえる。


「こっちだよ、珠海ちゃん」


 海がわたしを呼ぶ。いつの間にか、前に進み出ていた足に当たる水が冷たい。


 海の奥の方で小さな光の粒の塊が、煌めいているのが見えた。光が煌めきながら、流れている。


 ……なに、あれ? 星? ……ううん。星はあんな動き、しない……。


 わたしは目を凝らした。


 ゆっくりと光の塊が浮き上がったり沈んだりしながら、こちらへ向かってくる。


 美しい。いつも目の前にある真っ黒の線と真逆だ。拒絶とも拒否とも無縁の光。


 柔らかくて、あたたかい。もっと、この光を感じたい。


 わたしは光に手を伸ばす。


 その瞬間、水面から、ばしゃーんという大きな音を立てて、光が顔を出した。


 鈍色の艶々した美しい躰、水面を揺らす可愛らしいヒレ、わたしを見通すつぶらな真っ黒の瞳。イルカだ。光を弾き、煌めいているのはイルカだった。


「待っていたよ」


「わっ!」


 わたしは盛大に尻餅をついた。イルカが、イルカが喋っている。


「さぁ、起き上がって。こっちにきて。一緒に行こう」


「え、いや……。えっと……」


 状況が飲み込めない。だって、イルカが喋って、わたしに来いと言っている。あまりにも、現実離れしている。海を渡る風が奇妙なイルカとわたしを包み、水面を揺らす。


「ずっと、ボクと泳ぎたいって思っていたんでしょう? ボクもなんだ。さぁ、ボクに乗って。素敵な場所に連れて行ってあげる」


「は? ……え? なに……?」


 光の粉がわたしを誘うように舞った。粒子がわたしの体にまとわりつき、離れない。


 ふわり。


 わたしの体は光に包まれ、浮いた。


「え、嘘! 何これ!」


 宙で必死に手足をばたつかせる。


 だけど、体はさらに浮くだけで、身動きが取れない。


 どうしよう。怖い。


 そう思ったのも束の間、わたしの体はゆっくりと下降し、わたしはイルカの背びれに捕まっていた。


「さぁ、一緒に行こう」


 ギィィー、クヮァー、という不思議な鳴き声とともに、イルカが海の中を泳ぎ出す。


 速い。このままでは振り落とされてしまう。


 わたしはがっしりとイルカの背びれにしがみつく。


 おいで。おいで。


 遠くの方で声が聞こえる。


 待ってたよ。待ってたよ。珠海ちゃんのことまってたよ。


 海が、わたしを呼んでる。


 ずっと、海はわたしのことを呼んでいたんだ。行かなくちゃ。貴方の元に行かなくちゃ。


 貴方が誰だか、本当に海がわたしを呼んでいたのかは、わからない。でも、感じる。感じてしまう。

 わたしは行かなくちゃいけない。


「今行くから、まってて……」


 わたしとイルカは海の闇へと吸い込まれていった。

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