6話 海がわたしを呼んでいる(1)


 暑い。真上から真夏の陽が降り注ぐ。うだるような暑さだ。ただそこに立っているだけで、暑い。わたしは腕で額の汗を拭う。浜辺から競り上がってくる焼け付くような熱気がじりじりとわたしを炙る。裸足になって砂浜を歩きたい、という願望があまりに無謀だと、今、この場で知った。


「いやぁ、ほんと、暑いねぇ……」


「そうですね」


 伯母さんが日傘を片手に、携帯扇風機を顔に当てながら、今にも溶けそうな声で呟く。


「波打ち際は多少、涼しいんだけどねぇ……。でもこの直射日光は避けられないから、暑いは暑いのよねぇ……」


 伯母さんが海に行こうって言ったのに、という言葉を飲み、「そうなんですね」と頷く。


 わたしと伯母さんは海と道を繋ぐ石段のすぐそばの浜辺に降り立っている。真夏の海は想像と大分違っていた。海は絵ほど青くはなく、灰色がかった青だ。思ったよりも綺麗じゃない。そのことに少しだけ落胆するけれど、それでも、波の音は心地いい。


 夏休みに入ったということもあり、浜辺にはたくさんの若者が集まっていた。家族連れや、サーファー、男女のカップル、大学のサークル仲間であろう若者たち、さまざまな人たちが、サーフィンや海水浴に勤しんでいる。


 眩しいな。


 砂浜に反射する光もそうだが、真夏の海で弾けている人々が眩しい。わたしはあんな風にはっちゃけて遊ぶことはできない。


 本気で遊んだのって、いつだっけ?


 誰かと居ても、目の前には線がある。いつだって線に邪魔され、本気になれない。だから、羨ましい。本気で遊ぶのも、友達と心の底から笑い合うのも、本当に、羨ましい。


「珠海ちゃんも水際、行ってきたら? 足に水をつけると涼しくて、気持ちいいよ。せっかくビーチサンダル履いてきたんだしさ」


「そう、ですね」


 再び、頷いた。


 何はともあれ、ずっと来たかった海に来たのだ。海を地肌で感じたい。


 わたしは水際まで歩み出た。海を渡る風が砂浜よりも微かに涼しい。わたしは左足を海に浸してみた。


 気持ちいい……。


 あまりの気持ちよさに、体の力がすとんと抜ける。本物の海の水は、想像よりもずっとひんやりとして、海の冷たさが身体中に染み渡る。海水を通して、自分が乾いていたのだと気がついた。心も、体も、乾き切っていた。その渇きにじんわりと海水が沁みる。わたし全体が潤う。心地よい冷たさだ。

 慣れない環境に来て、知らない間に力んでいたらしい。海水に触れ、目の奥も、噛み締めて張っていた顎も、肩も、手のあたりも、力が抜けていく。


 ああ、本当に気持ちがいいな。スマホの画面じゃない。わたしは本当に海の中にいる。


「すみませーん! ボール取ってくださーい!」


 若い女の人の声が耳に飛び込んでくる。わたしのすぐ足元に、カラフルに彩られたビーチボールが転がっていた。わたしはそれを拾い上げ、キョロキョロと辺りを見回す。


 少し奥の方の浅瀬に、わたしに向かい手を振っている男女のグループがいた。きっと、あの人たちがこちらまで飛ばしてしまったのだろう。


 わたしはビーチボールを両手で掴み、思いっきりボールを投げた。ボールは綺麗な弧を描き、空へ舞う。太陽の光を受けてプラスチック製のボールは、キラキラと輝きを放ち、そして、それはお姉さんたちのいる浅瀬のすぐそばの水面に、水飛沫をあげ、落っこちた。


「ありがとうございまーす!」


 手を大きく振る人たちに応えるように、わたしも胸の辺りで控えめに手を振る。


 ホッと胸を撫で下ろす。勢いで投げてしまったけれど、わたしは運動音痴だ。もしかしたら、変なところへボールが飛んで行く可能性もあった。わかっていたのに投げてしまったのは、夏の暑さにやられたからだろうか。それとも、水の心地よさに気分が良くなって、大胆になっているからだろうか。


 ……どっちもかな。


 わたしは目を閉じて、大きく深呼吸をする。胸いっぱいに潮の香りが広がる。カモメが鳴き、人々の叫ぶ声が耳の奥で反響する。気持ちがいい。海という背景に溶け込んだ気分だ。このまま海にダイブしてしまいたい。


「キャー!」「もう、冷たいなぁ!」「あははは……!」


 たくさんの声が波に揉まれてやってくる。誰もわたしのことなど気にしていない。誰もわたしのことなど知らない。今、わたしはこの背景の一部だ。知られなくても、ここにいる。一人で立っている。


「たまみ……ちゃん」


「え?」


 名前を呼ばれた気がした。気のせいだろうか。うん、きっと気のせいだ。たまにあるのだ。誰もわたしの名前など呼んでいないのに、呼ばれた気がする時がある。いわば、一種の幻聴なのだろう。


「珠海ちゃん」


 再び、名前を呼ばれる。今度は、女の子の声で、はっきりと、明確に。


 気のせいじゃない。わたしは慌てて目を開けた。


 目を凝らして辺りを見回す。だけど、伯母さんはおろか、知り合いすら近くにいない。


「珠美ちゃん」


 また聞こえた。海の方からだ。目の前には誰もいないのに、声が聞こえる。


「誰?」


 尋ねてみる。口から出た声は、頼りないほど細い。


 返事はなかった。わたしは注意深く、音を探る。先ほどの声は、一体、なに?


「珠美ちゃん」


 声が段々とはっきりしてきた。その声の主は、もっと奥にいる。周囲の音の輪郭がぼやけ始める。笑い声も、叫び声も、波の音も、ぼんやり揺れるBGMだ。


「だれ。誰なの?」


「珠美ちゃん」


 声の主は一向にわたしの質問には答えない。わたしの名前をひたすらに呼び続けている。


「ねぇ! 誰なのよ!」


 叫んでいた。自分が思うより鋭い声だった。苛立っていたのだ。呼んでる人が得体が知れないのも、会話をしようとしないのも、呼びかけを無視するのも、全てが腹立たしい。


 体から吹き出てくる汗を拭い、海の奥を睨みつける。そこに人なんていやしないのに。


 風が吹いて水面が揺れる。


 ざぶざぶ〜……。さばばばば……。ざー……。さー……。ぴちゃ……ぴちゃ……。


 わたしの苛立ちをよそに、海が色んな音を奏でる。美しい音色だ。先ほどまでくすんで見えた海水も、今は緑がかっている澄んだ青色だった。


 美しい。


 ふっ、と緊張が緩む。海にヒーリング効果があるというのは本当らしい。


 あれ?


 海の先に目を凝らす。


 今度は気配がした。ここからちょっと行ったところ、そこに誰かがいる。淡いピンク色の何かがぼんやりと揺れている。わたしは目を擦った。


 人だ。ショートカットの女の子が足首を濡らし、空を見上げている。


 水面がキラキラと蒼く光り輝き、海の音色だけが耳にこだましていた。


「あの!」


 叫んでも、届かない。波の音にかき消されてしまう。


「あの!」


 今度はお腹に思いっきり力を入れて、声をふり絞る。だけど、その声もまた、海の底に沈んでしまう。


 少女はこちらなど見向きもせず、真っ青に染まった空を見上げ続けている。


 どうしてそんなところにいるのだろう。


 一歩。


 また一歩。少女に向かって足を運ぶ。


 どうして、そんなところに……。


「ダメ! 危ない!」


 唐突に、腕を掴まれた。突然の人間の生身の感触に、わたしは目を見開き、振り向く。視界の淵がうっすらと白い。


「伯母さん……?」


「何してるの! 危ないでしょう!」


 ぼんやりとした焦点が、少しずつ伯母さんに合わさる。伯母さんが必死な形相をして叫んでいた。ひどく慌てた様子だ。


「伯母さん……、どうしたの……?」


「どうしたの、じゃないわよ! こんなに海の深いところまで入って! 危ないでしょ!」


「えっ……?」


 わたしは、わたし自身を確認した。腰まで水に浸かっている。わたしは無防備にも、服のまま海の中を進んでいたのだ。


「うわっ!」


 飛び退いた。途端にめまいがする。海水にずっぷりと浸かっている足が、ふわりと浮いた。


「危ないっ!」


 咄嗟のところでわたしの体を伯母さんが支える。スラリと華奢な腕なのに、がっしりとわたしを抱え込んだ。


「わたし……、どうして……」


 わたしは体を震わせた。意味がわからなかった。


 だって、わたしは確かに水際にいて……。


「あれ?」


 伯母さんの腕から抜け出し、わたしは周りを見回した。


 少女がいたんだ。ショートカットの女の子が。あの女の子は足首までしか浸かってなかった。あの子の元にも辿り着いていなかったのに、どうしてわたしは腰まで海に浸かっているの……?


「誰を、探してるの」


 低い声で伯母さんが唸った。


「えっ……」


「ここは危ないわ。早く外に出ましょう」


 腕を再び掴まれ、岸に向かって引っ張られる。掴まれているところが痛い。熱い。海の中を歩く伯母さんは無言だった。わたしは目を見張ったまま、伯母さんの後姿を見つめる。


 どうして、そんなに思い詰めた顔をしているの?


 わからなかった。わからなかったけれど、伯母さんがかなり必死なのはわかる。


 伯母さんは手に持った日傘も差さず、一心不乱に歩き続ける。伯母さんはズンズンと前に進む。海から上がり、砂の道を臆することなく進み、来た道を引き返す。とんとんとん、とリズムよく足を運ぶ伯母さんはに合わせて、わたしもとんとんとん、とリズムよく踏み出した。


 浜辺も暑かったが、アスファルトの上も身を焦がすように暑い。濡れていた下半身もあっという間に乾いてしまう。


「珠海ちゃんは、海、好き?」


 二、三歩前を歩き、わたしを先導する伯母さんが、前触れもなく、わたしたちの間の静寂を切り裂いた。


「……好きです」


「そう。私も海が好きなの。海って魅力的よね。わかるわ。本当に素敵な場所。……だけどね、海に心を許したらダメよ。身を任せてしまっては、ダメ」


「えっと……それは、どういう……」


「海はね、人を飲み込むの。思い出して。もし、あのまま珠海ちゃんが海の奥に進んで行ったらどうなってた?」


 あのまま進んでいたら、わたしは……。わたしは、どうなっていただろう。溺れてしまったのだろうか。


 伯母さんが道路の真ん中でぴたりと立ち止まった。振り返ってわたしの肩を掴む。解放された左手首がじんわりと空気を吸う。


「海は魅力的なだけじゃない。怖い場所でもあるの。海は人を癒してくれるけれど、傷つけもする。だから、海に行く時は必ず大人について来てもらって。わたしでもいいし、聡さんでもいいし、お母さんでもいい。珠海ちゃんが一人で行くことは、絶対にしないで」


「だけど……」


「お願い」


 食い気味に頼まれた。照りつける日差しの中で、わたしは伯母さんと見つめ合う。


 伯母さんはたくさんの絵を描くほど海が大好きで、海に魅せられているはずなのに、どうしてそんなに海を怖がるの?


 伯母さんが、わからない。全然、わからない。


「でも……わたしは……」


 海が好き。


「お願い。本当に危ないの」


 また、遮られた。どうして誰も彼もわたしの話を最後まで聞いてくれないの?胸がざわつき、感情が昂る。お母さんも、伯母さんも、桜子も、あの妙な女の子も、みんなみんな、わたしの話を聞いてくれない。


「どうして……」


「えっ?」


「……そんなに危険なら、なんでわたしを海に連れていったりしたんですか」


 手を振り払っていた。そんなつもりは全くなかったのに、伯母さんの手を振り払っていた。振り払って、気づいた。わたしは今、反抗しているのだと。


 あまり関わったことのない親戚相手に反抗している。敵意を向けている。それは、今まで他人にしてこなかった行為だった。


 だって、反抗なんてしたら、線はもっと濃くなる。みんながわたしを拒むようになる。だから、なめらかな線の伯母さんだって、わたしを拒む。


 いやだ。拒まれたくない。どうして、突然こんなことをしてしまったのだろう。どうして、いきなり感情が溢れ出てしまったのだろう。


 潮の香りを存分に孕んだ風が、私たちの間をそよそよと吹き抜ける。わたしはオロオロと視線を落とした。


 伯母さんの張っていた気が、ふっと緩んだ気配がした。


 わたしは顔を上げる。伯母さんが頬を緩め、優しげにこちらを見つめている。


 どうして、線が緩むの? わたしは、伯母さんに反抗したんだよ?


「そうね。私が連れてきたのよね。珠海ちゃんがあまりにも海を、私の絵を、恋しそうに見てたから、私と珠海ちゃんを重ねてしまったのかもしれないわ。私はすごく海が好きで、海に行きたいと常に思っているから。だから、連れてきたの。さっきも言ったように、海は魅力的で、癒しの力があって、優しく包み込んでくれるから。……だけどね」


 再び伯母さんが肩を掴み、わたしを見つめ直す。先ほどよりも強い眼差しだった。


「さっきも言ったけれど、海は危険でもあるの。ぼんやりしていると飲み込まれてしまう。だから、気をつけなくちゃいけないの。珠海ちゃんみたいに感受性豊かな子は特に、ね。お願い。海に行くな、とは言わない。ただ、海に行く時は必ず大人を連れていって」


 伯母さんの瞳に吸い込まれる。語尾も、眼差しも、鋭いのに、鋭くて重いのに、わたしと伯母さんの隔てる線はない。


 本気なんだ。本気でわたしと向き合ってくれているんだ。


 久しぶりの感覚だった。


 扱いづらいとも、理解できない、とも思ってない。目を逸らすでもなく、気を使うでもなく、わたしを真正面から見て、わたしのためを思って、本気でぶつかってくれている。真っ直ぐな伯母さんの思いが胸に突き刺さる。


 少しだけ、痛い。


 痛いけど、嬉しい。


 身体の内側から熱いものが込み上げてくる。表面的ではなく、本気でぶつかられるって、こんなに嬉しいんだ。


「わかりました」


 わたしは頷いた。伯母さんがあまりにも真剣だったから、わたしも真剣に頷いた。

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