3話 描かれた海(1)


 完全に学校に行かなくなって、数日。中学校は夏休みに入ろうとしていた。


 わたしはがらんとした自分の部屋で、意味もなくスマホの画面をボーッと眺める。


 ここ最近、海の映像を見ることにハマっていた。青い空、澄んだ水、境界線や国境ももなく続く大海原。溢れんばかりの開放感に、わたしの心は踊る。

 海の映像の中で特に好きだったのは、ハワイの映像だ。人と共に泳ぐイルカの映像が好きだったのだ。イルカも人間ものびのび優雅で、時がゆっくり流れているようで、海の空間が幸福に満ち溢れていた。


 わたしもイルカと泳ぎたい。


 現在はイルカと泳ぐのことが禁止になっているのに、そんな願望を抱いてしまう。


 ベッドの上でスマホを片手に、イルカの映像を見る。


 いいなぁ、君たちは。国境もボーダーも線もない。自由に動き回って、あちこち回る。羨ましい。わたしも君たちと一緒に泳いだら、線なんて気にならなくなるのかなぁ。


「ねぇ、珠海。話があるの」


 ノックと共に部屋に入り込んできた控えめな声に、名前を呼ばれた。わたしはスマホから流れる映像を止める。


「……何?」


 わたしは部屋に入ってきたお母さんを無視するように寝返りを打ち、背を向ける。


「突然、ごめんね。……ほら、もうそろそろ夏休みでしょう?」


 お母さんは勉強机の中にしまってあった椅子を出し、ベッドの横に置いて座った。長話をするつもりだ。わたしはため息混じりに、「うん」と、答えた。


「お母さんのお兄さんのお家、つまり、えーっと、珠海ちゃんの伯父さんのお家、覚えてるかな?」


「うん。覚えてる。海の近くにあるあの真っ白な可愛らしい家でしょ」


「そうそう、そこ。……ねぇ、珠海さえ良ければなんだけどね、夏休み、伯父さんのお家に遊びに行かない?」


「は? なんで?」


 考えてもいなかった提案に、わたしは思わず振り向いてしまった。お母さんが遠慮がちにコチラを見つめている。


「ほら、珠海、ずっと家にいるでしょ? 同じ場所にずっといたら、息が詰まっちゃうかなぁって思って……。せっかくの長いお休みだし、気分転換に家じゃない違う場所に行くのもいいんじゃないかって、お父さんと話したのよ」


「んー……」


 わたしは曖昧に頷く。伯父さんの家。最後に行ったのはいつだろう。


 家の近くに海があったこと。砂浜があったこと。海近くのショップでピンク色の砂時計を買ったこと。そんな断片的な記憶しか覚えていない。覚えてないってことは、幼稚園の時か、小学校低学年の頃に行ったのだろう。


 伯父さんと伯母さんに関しては、一年に一回、お正月に会うが、「大きくなったね」「今年もよろしくね」という当たり障りのない会話しかしたことがないため、印象が薄い。


「ほら、海も近いし、きっと楽しいよ」


 お母さんはわたしを見つめたまま、微笑みかける。いつもより少し高めの声だった。


「お母さんとお父さんは? 二人とも一緒に行くの?」


「ええ、もちろん。あ、でも、お母さんはずっといるけど、お父さんはお仕事があるから、お盆のときだけ泊まる感じになるかなぁ?」


「え、まってよ。お父さんがお盆のときだけ泊まるってことは、わたしたちはどのくらいそこにいるつもりなの?」


「そうね……。夏休みが始まった次の日から、一週間でも、二週間でも、夏休み中ずっとでも、珠海ちゃんがいたいだけお邪魔させてもらおうかなぁって、思ってるの。ほら、伯父さんって子供いないし、住んでるお家も無駄に広いでしょう? 最近、歳をとってきて、家に活気がなくなって寂しいんだって。こないだ電話したとき、『珠海ちゃん、夏休み来てくれないかなぁ……』ってぼやいてたのよ。だから、『珠海連れて、そっち行こうか?』ってお母さんが提案したの。そしたら、『ぜひお願いします!』だって。ふふ、すごい喜んだ声だったわよ。珠海にも聞かせてあげたかったなぁ」


 お母さんが優しい声で、饒舌に話す。笑っているのに、表情が硬い。本当の笑みじゃないのだ。わたしは黙った。『不登校の娘』と向き合って話しているのも、『行きたくない』と言われるのも、どっちも嫌で、捲し立てるように話すのだろう。


 本当にわかりやすい。わかりやすくて嫌になる。


 わたしは苦い気持ちを飲み込んで、母親から目線をベッドに移す。


 だけど、海か。お母さんの思惑がなんであれ、海にいけるのは魅力的だ。


「……ねぇ、イルカって見れる?」


「えっ、イルカ?」


 お母さんが頓狂とんきょうな声を出す。想定外の質問だったのだろう。


「そうねぇ……。どうかしら? 千葉の海だから……。あ、でも、イルカウォッチングできるところもあるみたいよ。んーだけど、一時間から二時間かけて、海の奥の方まで行かないと見れないみたいだから、確実に見れるってわけじゃなさそうね」


 お母さんはスマホで調べながら、丁寧に答えた。


「ふーん……。でも、いるんだ、イルカ。……じゃあ、行こうかな」


「よかった! 伯父さんも伯母さんもきっと喜んでくれるわよ」


 お母さんの顔が晴れやかになる。滲んでいた暗みがなくなり、弾んだ声になった。


「だといいけど」


「早速、伯父さんと伯母さんに連絡してくるわね。ふふ、夏休みが楽しみね」


 足取り軽やかに勉強椅子を元の場所に戻すと、上機嫌で部屋を出て行った。


 お母さんはいつだって一方的だ。一方的に話しかけて、一方的に決めて、一方的に去っていく。それをいつもうざったく思っていたけれど、今回はそれ以上に、海に行けることの喜びの方が大きかった。


 海がわたしの周りにある線を全て持っていってくれたらいいな。


 砂浜に打ち付ける波を思い起こす。波が押し寄せ、引いていく。海は万物の根源なのだとどこかの誰かが言っていた。すべての根源ならば、線もそこから生まれるのだろう。それなら、波が引いていくときに、周りにある線を持っていってくれたらいい。海に還してくれたらいい。そうしたら、きっとわたしは幸せなのに。


 現実になりえない願望を、わたしは胸にそっとしまった。




 その日の深夜一時頃、わたしは尿意を催し、トイレに行くために廊下に出た。廊下は部屋のクーラーを頼りにしているため、じめっとして暑かった。すごく嫌な暑さだ。パジャマの裾で汗をぬぐいながら、歩く。


「一ヶ月も義兄さんの家にお世話になって大丈夫なのか……?」


 お父さんとお母さんの寝室に差し掛かったとき、少し空いたドアの隙間から、声が聞こえてきた。お父さんだ。お父さんが感情を隠す様子もなく、動揺した声でお母さんに尋ねている。


 どきりとした。わたしが今まで聞いたことのない声色だったからだ。銀行に勤めるお父さんは感情的な人間ではない。というより、お母さんと違って、人に弱さを見せないのだ。何かに悩んでいるところも、怯えているところも、泣いているところも見たことがない。一家の大黒柱としてのプライドがあるのだろう。頼れる父でいたい、そう思う親心を、わたしは子供なりに理解しているつもりでいた。そんな完璧なお父さんが今、動揺している。胸が騒いだ。わたしはお父さんの異質な様子が気になって、してはいけないことだと自覚しつつ、息を殺してドアの隙間から両親の部屋を覗き込んだ。


 お父さんとお母さんはダブルベッドのふちに並んで座って話をしている。ここからでは距離が遠くて、二人の顔までは見えない。


「大丈夫よ。ほら、兄さんのお嫁さんの美鳥さん、カウンセラーやってるでしょう? 珠海の様子、見てくれるっていうのよ。あの子、私達に何も言わないから……。美鳥さんがね、こういうの思春期の悩みって親じゃなくて、他人の方が話しやすいときがあるんですって」


「そうなのかぁ。俺も不登校児について調べてるんだけどな。デリケートな問題だろ?不登校になった理由や子供の性格によって対応も変わってくるらしいし……。ここのところ、珠海の塞ぎ込みが加速してるし、今回の千葉滞在が何か好機になるといいんだが……」


「そうね……。私、一度も学校に行きたくないなんて思ったことがないから、珠海がどうして行きたくないのか、わからなくって。しかも、あの子、最近わたしを無視するのよ……。自分の子なのに、あの子が何を考えてるのか、全然分からないの。どう接していいかも、全然……、わからないの……。もう、本当に辛くて、辛くて……」


「……あぁ、そうだな。昔から珠海は繊細な子だったし、思春期で難しい年頃なんだろう。仕方ないさ。誰だって思春期はある。他力本願は良くないが、きっと、お義姉さんが解決してくれるよ。……はい、ティッシュ」


 背筋がサーっと冷たくなる。体の内側がしんと寒くなるのと同時に、心臓がバクバクと音を立て始めた。


 お母さんがズビズビと鼻をすすり、控えめに泣く。お父さんがお母さんの背中を優しくさすっているところで、わたしは覗くのをやめた。


 もう見ていられない。見ていたくない。


 わたしは尿意を催していたことも忘れて、自分の部屋に駆け込んだ。ベッドに飛び込み、枕に顔を埋める。


 そうだったんだ。だから、いきなり伯父さんの家に行こうなんて言ったんだ。


 わたしがわからないから。わたしと一緒にいるのが辛いから。わたしが『繊細』だから。


 だから、追いやる。


 本物の拒絶だ。それも、強い拒絶。


 今までもお母さんからの拒絶は感じたことがある。でも、感じるのと、実際に言葉として聞くのとではわけが違う。母の悲痛の涙が、「あの娘がわからない」という言葉が、わたしの心を喰らう。それに、お父さんの手に負えないほど、わたしは扱いに困る人間なのだ。


 その事実を突きつけられた。


 本当にわかっていたんだ。扱いづらいと思われていることも、厄介に思われていることも、わかっていた。わかっていたのに、事実を突きつけられることは、こんなにも痛い。


 目頭が熱くなる。気を緩めたら、涙が出てしまいそうだ。


 だけど、わたしは泣かない。絶対に泣かない。


 泣くのは弱さの証だから。泣くのは両親の言葉を認めることになるから。泣くのは卑怯な行為だから。だから、泣かない。わたしはグッと拳を握り、手のひらに爪を立てる。じんわりと広がる痛みで、胸の痛みを誤魔化す。


 痛いな。苦しいな。わたしは唇を噛み締め、布団の中でうずくまった。

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