2話 境界線(2)
七月も半ば。
暑さが本格的になり、草木は緑一色に輝きを放ち始めた頃の昼下がり、わたしはクーラーの効いた六畳半の自室で横になっていた。
ベッドと勉強机と本棚と備え付けのウォークインクローゼット。服も、本も、雑貨も、ほとんど置いていない。わたしの部屋は必要最低限のモノしかなかった。余分なモノを削ぎ落とした部屋は、どこか清々しく、居心地が良い。
わたしはベッドの上で布団にくるまりながら、スマホを確認する。
メッセージアプリに『待ってるね』『会いたいよ』という無機質な文字列が浮かぶ。
嘘、嘘、嘘、嘘。
全部、嘘だ。だって、見えてしまう。こんなにもはっきりと拒絶を示した黒い線がスマホから溢れ出て、わたしを嘲笑っている。
空気の読めない可哀想な子。心が弱い可哀想な子。内側に入れない可哀想な子。
誰も言ってはいないけど、聞こえてくる。
トントントン。
ノックの音がして、ドアが開いた。鍵のないドアは、簡単に人を招き入れてしまう。
布団の隙間から覗くと、ベージュのゆるっとしたワンピースを着ているお母さんが、遠慮がちに部屋に入ってきた。長い髪を無造作に一つに束ね、心配そうにわたしを見つめる。
「珠海、大丈夫?」
優しい声音だ。わたしは、頷き、体を起こす。
「うん、大丈夫」
「本当? 無理しちゃダメだからね……」
「わかってる。……で、なんか用? 何か話があって、きたんでしょ?」
「え、ええ……。実はね、担任の金沢先生から電話があってね……。金沢先生って、すごくマメね。去年、初めてクラスの担任をしたって言ってたでしょう? だから、すごく心配してたんだけど、すごく物腰柔らかで丁寧な先生よね。ああいう先生なら、安心して珠海を任せられるというか……」
お母さんはしどろもどろになりながら、伝える。温厚で柔和なお母さんは、争いを嫌う人だった。事が荒波立つことをひどく恐れているように見える。だから、わたしはお父さんとお母さんがケンカをしているのを見たことないし、わたしもお母さんとケンカしたことも、口論したこともない。大抵の場合は、お母さんが折れて謝るのだ。
「ごめんね、ごめんね。お母さんが悪かったから、もう泣かないで?」
わたしが小さい頃、コップを床に落として割ってしまった事がある。わたしは物を壊してしまった罪悪感と申し訳なさで胸が張り裂けそうになっていた。焦ったわたしは慌てて素手でガラスの破片を拾おうとしてしまったのだ。そのとき、
「ちょっと! 珠ちゃん! 何してるの!」
と、人生で初めて、お母さん怒鳴られた。
今なら、お母さんが、ガラスの破片でわたしが怪我することを心配して、声を荒げたのだとわかる。でも、当時のわたしはそれがわからなかった。ただ、いつも優しく微笑んでいるお母さんを怒鳴らせるほどいけないことをしてしまったのだと、自分のしてしまった事はそれほど大変な事なのだと、と、思い込んでしまったのだ。
わたしは、泣いた。わんわんと泣き叫んだ。
そうしたら、お母さんが謝った。困ったような顔をして、ぎゅっとわたしを抱きしめた。
どうして? お母さんは何も悪くないのに、どうして謝るの? 悪いのはコップを割ってしまったわたしなのに……。
コップからこぼれたオレンジジュースの甘い香りが部屋に広がる中、わたしの頭は混乱して、ぐちゃぐちゃになったのを覚えている。
何か問題が起こるたびに、お母さんは謝る。お母さんが悪くない事だって、謝る。謝るのは小心者だからだ。トラブルが、イレギュラーが、気まずい空気が、嫌いだからだ。
今、わたしは『不登校の娘』というお母さんの想像の範疇を超える異質なモノだ。そんなイレギュラーな生物との距離感を考えあぐねているのだと思う。
お母さんが困惑している時、今みたいに口数が増える。関係ない話を延々と始める。きっと、気まずい空気を紛らわそうとして、アレコレ関係ない話をし始めるのだろう。
親のくせに娘の顔色をいちいちうかがって、遠慮がちに話しかけてくる母親に腹が立つ。胸の辺りがムカムカする。
「……それで、その物腰柔らかな金沢先生は、なんて? 学校にこいって?」
「あ、えっと、ううん。そういうわけじゃなくて……。なんていうか、もしね、珠海が午前中に学校に行くのが辛いなら、午後から学校に行くのも全然問題ないみたいなの。だから、午後に学校に行きたくなったら、いつでもおいでっておっしゃられたのよ。それに、教室に生きづらいとかなら、保健室に登校してもいいみたいだし……。だから、どうかな? 午後からでも学校に……」
お母さんは口を閉ざした。静寂が訪れる。部屋の空調の音だけが室内に響き、空気が張り詰めた。
あ。まただ。また、線だ。
お母さんとわたしを真っ二つに分ける真っ黒で太い線。お母さんとは血のつながった家族なのにも関わらず、ここにも線がある。それも、今まで以上に太くて、濃い線が。
目の奥が急に熱くなって、わたしは目を伏せた。
「あ……っ、珠ちゃん。ごめんね、ごめんね」
お母さんが必死な声ですがるように謝る。
「お母さんね、珠海に無理やり学校に行かせたいわけじゃないのよ。ただ、学校に行きたいなら午後からでもいけるってことを教えたかっただけなの。行きたくないなら、行きたくなるまで休んでいいんだからね。ほら、お母さんも珠海が家にいてくれるおかげで、工場のパートを休めてるし。お母さんも珠海も、休息しないと行けない時期なのよ、きっと」
少しだけ顔を上げると、お母さんは目をくしゃりとして、泣きそうな顔をしている。
ずるいよ。お母さん。
謝られたら、泣かれたら、わたしは何も言えなくなっちゃう。
お母さんは、わたしに学校に行って欲しいから、今、この話をしたんでしょ?
お母さん、食品工場の製造スタッフも楽しいって言ってたじゃん。休みたいなんて、本当は思ってないんでしょ?
いつだってそう。お母さんは先に謝って、泣いて、わたしの主張なんて聞かない。
わたしの話なんて聞きたくないから、お母さんが弱虫だから、謝って物事を済ませる。
謝罪も涙も一種の脅迫だ。これ以上、踏み込むな、何も言うな、責めるなという脅迫。
ここにも嘘。ここにも距離。ここにも線。
喉の奥でぐぐっとくぐもった音がした。息が詰まる。うまく呼吸ができない。居心地のいいがらんとした空間が、嘘や線でいっぱいになる。
わたしは布団を力の限りぎゅっと握り、無言で布団の中に潜る。わたしなりの抵抗だ。
もう話すことはない、出ていけ。
言いはしないけれど、布団に潜った背中で訴える。
「じゃあ、何かあったら呼んでね。お母さんはね、いつだって珠海の味方だから……」
お母さんは小さく消えそうな声で言うと、パタリとドアを閉めて、わたしの部屋出た。
わたしは、誰もいなくなった部屋で天井を見上げる。
ああ、いやだ。
どこもかしこも、黒く太くくっきりとした線だらけ。
わたしは奥歯を噛み締める。クーラーが効いているのに、額に汗が滲むほど体が熱い。耳の底で流れる血の音が聴こえ、不愉快だ。
線のない世界行きたい。わたしと世界を区切る線、境界線のない世界。
声にならない願いは、わたしの喉に粘りつく。
でも、そんな世界はどこにもない。わかってる。もう、わかってるからさ。もうこれ以上、わたしを拒絶しないでよ。
下唇を噛む。粘りついた思いのせいで、喉元が苦しい。えずいて、もどしそうだ。喉にまとわりついた思いをはぎ取るように、喉の奥の方で数度息を吐いて、わたしは布団の中でうずくまった。
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