海にとける星

佐倉 るる

1話 境界線(1)


 わたしの前には線がある。太くて、長くて、淀みのないはっきりとした黒々とした線。その線は、わたしと世界を分け隔て、わたしを世界の外側に追いやっている。


 わたし、星原珠海ほしはらたまみはいつだって外側にいた。家族といるときも、友達といるときも、何か作業をしているときも、外側だ。線の内側に入ることはできない。だから、わたしはずっとひとりぼっちだった。誰かと一緒にいても、一緒にいない。


 寂しかった。辛かった。


 真っ暗な暗闇で、何もない場所を彷徨っている感覚に襲われる。線の内側へ入ろうとすると、黒い塊のような風がわたしを線の外側へと押し込める。


 痛い、寒い、暗い。とても一人では抱え込めない。


 わたしは一度だけ、この不思議で不愉快な感覚を他人に伝えたことがある。


「なにそれ。それって、おかしいよ。普通じゃない」


 幼馴染の桜子さくらこが身を引きながら、そう言ったのはいつのことだっただろう。小学校四年生くらいのときだっただろうか。たしか、あれは下校中。すごく大きな荷物を持って帰っているときだったから、夏休み前か、はたまた、冬休み前か、終業式間近の帰り道だったと思う。


「だって、友達と一緒にいるのに一人って、そんなわけないじゃん。つまり、珠海は今も一人みたいに感じてるわけ?」


「……うん」


「それってさ、めちゃめちゃウチに失礼じゃない? ウチといても、楽しくないってことでしょ?」


 桜子がくっきりとした大きな目を細めて、わたしを睨みつける。


「ち、ちがうの! 桜ちゃんと一緒にいるとすごく、すっごく楽しいんだよ。今もこうして話してて楽しいし……」


「でも、さみしい、つらいって感じるんでしょ?」


「うん、まぁ……」


「やっぱりそれって、ウチといても楽しくないってことじゃん」


 桜子は綺麗で整った愛嬌のある顔をグッと引き締め、口元を結ぶ。その張り詰めた顔つきに、険しげな声に、わたしの身が縮こまった。桜子から強い拒絶を感じる。


 あ、どうしよう。これって言っちゃいけないことだったんだ。


 身体が手足の先端から徐々に冷え、重かった学校の荷物はより一層重くなり、わたしにのしかかる。


 わたしはギュッとしまった喉を無理やりこじ開けた。


「なーんてね、冗談! 好きなマンガでそんなようなセリフがあって、真似して言ってみただけ! なんか、人と違う孤高の戦士って感じでカッコよくない?」


「なんだぁ。そうだったの。びっくりしたぁ……!でも、全然カッコよくないよ! むしろ、嫌なやつって感じ! もう、ウチだったから許せるけどさぁ。ウチ以外の人にそれ言ったらダメだからね? 嫌われるよ?」


 桜子が笑う。わたしも笑う。


 笑っているのに、桜子との線がさっきまでよりもずっと、黒く、太く、長くなる。


 楽しいのに、辛い。寂しい。苦しい。


 だけど、わたしはこの感情を誰にも打ち明けないことにした。この感覚が、『普通』ではないことを、桜子に教えてもらったから。誰にも理解されないということを悟ってしまったから。




 わたしと世界を隔てるこの線がこれ以上ないほど濃くなってしまったのは、今年の六月の終わりだった。梅雨入りをして大体一ヶ月。しょっちゅう雨が降り、湿気で服が体にまとまりついて、鬱陶しい頃だ。緑が濃くなり始めた外の景色は雨と混じり合って涼しげなのに、実際には、肌にぴったりとくっつくようなじめっとした空気があたりに一面に充満し、蒸し暑い日々が続いている。


「今年も猛暑になるらしいよ」という毎年恒例の会話もそこかしこで繰り広げられていた。


 わたしは公立中学校の二年生になっていた。


 これといって仲のいい友達のいないクラスは、居心地がよくなかった。それなりに知り合いはいるけれど、仲のいい友達かと問われると頭にはてなマークが浮かぶ。一緒にいたら、話すことはできる。同じことをすることだって、同じ時間を共有することだって、できる。でも、たとえば、体育の授業なんかで「二人組を作ってください」と言われたとき、わたしはペアを作れない。大抵の子は『本当に仲良い友達』がいて、その子とペアを組んでしまうからだ。


 こんなときに、わたしはクラスの居心地の悪さをひしひしと感じるし、ひとりぼっちなのだと実感してしまう。


 それでも、なんとか中学でやってこれたのは、桜子がいたからだった。


「二年も同じクラスなんて、ウチら超ラッキーだね!」


 二年のクラスが発表されたとき、桜子が笑って、わたしの肩に腕を回した。


 桜子は気さくで朗らかで明るい少女だ。桜子の周りにはいつだって少女たちが集まり、笑顔の花が咲き乱れていた。


 わたしはそんな誰とでも仲良くなれる桜子を誇らしく思っていたし、頼もしくも思っていた。


 桜子と幼馴染のわたしは、自然と桜子を囲む輪に加わるようになり、顔見知りの少女増え、それなりに充実した学校生活を送ることができたのだ。


 だけど、学校生活が充実すれば充実するほど、わたしの目の前にある真っ黒な線が濃くなっていった。


 四月。


 桜の花びらが散り、若葉が芽吹き出した頃、少女たちは恋に落ちた。誰々がカッコいい。誰々と誰々が付き合った。誰々が。誰々が。よく知りもしない誰かの名前という記号が次々に空間にひしめき、あてもなく消えていく。


 その人は誰? その人はどのクラスの人? 恋って、好きになるって、何?


 わたしの知らない言葉で埋め尽くされた空間は、どうにも居心地が悪かった。


 五月。


 相変わらず、恋愛の話題が尽きない中、流行りのライブ配信者もまた、少女たちの心を奪っていた。


 色恋沙汰とは違って、ライブ配信ならわたしも感想を共有できる。だから、わたしはスマホにかじりついて、何が楽しいのかもよくわからない配信を毎日追いかけた。だけど、二週間もしたら、少女たちの興味は他のモノに移り変わり、わたしの努力は水の泡となった。


 苦しかった。楽しくなかった。だけど、桜子たちからハブられて、一人になる方がもっと嫌だった。


 わたしは、周りに合わせて、笑う。楽しくないのに、笑う。


 一緒にいるのに、線がわたしと少女たちを切り離し、どんどん少女たちが遠くなった。


 そして、六月。


 桜子が特定の人を嫌いになった。同じ輪の中にいた、結美ゆみちゃんだ。


「最近、結美付き合い悪くない?」


 お昼休み、風邪で休んでしまった結美ちゃんのいない教室で、桜子は自分の机の上に足を組んで座りながら、軽い口調で切り出した。


「それ、あたしも思ってた! 最近、休み時間も一人で勉強してて、あたしたちの話なんて興味ないって顔してるもんね」


「わっかるぅー! 最近、成績のためなのか知らないけど、先生にも媚びちゃってさぁ……。見てて痛々しいよね」


 少女たちが次々に同調し、頷く。


「やっぱり、みんな思ってた? ウチがいくら話しかけても生返事なんだよ? 終いにはさ、『え? ごめぇん。なぁにぃ? ちゃぁんと聞いてなかったぁ』って魚みたいなアホな顔して聞いてくんの」


「やばっ! 今の結美の真似めっちゃ似てた!」


 少女たちはケラケラと笑う。魚みたいに口をぱくぱくしてみたり、『ちゃんと聞いてなかった』という言葉を何度も繰り返し、笑う。


 下品で、冷たくて、嫌な笑いだ。


 少女たちの顔がひどく歪み、醜く見える。口の端は曲がり、目は吊り上がっている。中学二年生、まだまだうら若き少女たちなのに、ずいぶん歳をとった老女のように見えた。


 嫌だな、と思った。昔の桜子なら絶対にこんなことは言わない。昔から気の強い子ではあったけれど、誰かのことを蔑んだり、馬鹿にしたり、そんなこと、絶対しなかった。


 わたしは変わってしまった桜子を見ていたくなくて、少しだけ視線を下に逸らす。


「ね、珠海もそう思うよね?」


 唐突に、問われた。一瞬、ひるむ。だけど、わたしはすぐさま、ギュッと口を結んでから、顔に笑みを浮かべて、


「思う思う! 本当に、付き合い悪いよね。結美ちゃんってば、何考えてるんだろう。ホント、最悪」


 と、口にする。胸の辺りがざわつき始めた。喉の奥が乾燥して、息苦しくなる。


 違う。本当はこんなことを言いたかったんじゃない。


 わたしは結美ちゃんとそんなに仲良いわけじゃない。それでも、結美ちゃんが今、受験勉強を本気で頑張っていることを知っている。毎年、何十人と有名私立高校に合格させる予備校に通い、毎日夜遅くまで勉強をしているのだ。


 桜が散り終わり、木々が緑に染まり始めた頃、わたしと結美ちゃんは同じ班になった。六時間目の授業が終わり、班で廊下の掃き掃除をしているとき、


「最近、私、ピリピリしててごめんね」


 と、謝ってきたことがあった。謝られて、わたしは数度まばたきをする。なんで謝られたのか、わからなかったのだ。


「最近、塾の成績がよくなくってさ。受験までまだまだあるって言われても、私の周りはみんな頭のいい人たちばかりだし、このままじゃ『MARCH』も怪しいんじゃないかって、お父さんとお母さんが言ってて……。それで最近、苛立っててさ……」


「う、うん……?」


 聞きなれない言葉に思考が詰まり、わたしは首を傾げる。この時はまだ『MARCH』という言葉の意味を知らなかった。その後、調べてわかったことだが、『MARCH』というのは、有名大学の名称の頭文字を取って付けられた総称のことらしい。どの大学も中学生の私ですら、一度は耳にしたことのある、頭のいい大学だ。結美ちゃんがそんな頭のいい大学を目指していたなんて、知らなかった。


 結美ちゃんの一つに結いた髪がばさりと垂直に落ちる。深々と頭を下げたのだ。


「だから、ごめん」


「謝らないで。わたし、結美ちゃんが苛立ってるの、気づかなかったし」


 結美ちゃんはしなやかな顔をあげ、メガネの奥にある目をぱちくりさせる。


「本当に……? 私、結構、珠海ちゃんに八つ当たりしちゃってたと思うんだけど……。本当に、気がつかなかった?」


「うん、気づかなかった」


「それならいいんだけど……」


 結美ちゃんがうつむきがちに続ける。


「こんなに気持ちが落ち込むなら、塾辞めたいな、なんて思ったりもするんだよ。でもね、いい高校、いい大学に行けば、いいところに就職できて、いい人生が送れるんだって。今後長い人生のためなら、ま、頑張ってみるかって思っちゃってやめるっていう選択肢がなくなっちゃうんだよね」


「え、すごい。結美ちゃんってもうそんな将来のこと考えてるんだ」


「別に考えてるわけじゃないよ。ただ、周りが学歴を第一に考える人が多くて、私もそれに賛同してるだけ」


「それでも、すごいよ。わたし、就職のことなんて考えたこともなかった。わたしがあまりに将来のことを考えてないもんだから、桜ちゃんに『このままじゃ、中卒かもよ』なんて言われてるの。ひどくない?」


「あはは、想像できる。桜子ちゃん、容赦ないもんね」


「ほんとに、容赦ないよ! わたしだって一応勉強は頑張ってるのにさぁ……。でも、何も考えてないのはたしかだからね。それに比べて、結美ちゃんは本当にすごいよ。勉強を頑張ってるのもすごいし、将来のことを考えてるのもすごい。……うん、本当にすごいなぁ」


 結美ちゃんの瞳をまっすぐ見つめて、伝えた。心からの言葉だった。あんなにつまらない勉強を一生懸命やるのも、遠い先の未来のことを考えて行動するのも、すごい。わたしにはできないことだ。


「……そう、かなぁ。えへへ、ありがとう」


 結美ちゃんは照れくさそうに頭をかき、目線を逸らした。


 ふっと、結美ちゃんとわたしを隔てる線が緩み、細くなる。そう、線は太くなるだけじゃない。こうして、緩むこともあるのだ。ほんの少しだけだけど、結美ちゃんと仲良くなった気がして、わたしは嬉しかった。


 桜子や桜子の輪の中にいるみんなは、わたしよりも結美ちゃんと仲がいい。


 それなのに、みんな、知らないのかな。


 結美ちゃんがどれほど頑張って一生懸命勉強してるかってこと、知らないのかな。それとも、知った上で、悪口を言ってるのかな。


 ぶるっと全身に鳥肌が立った。身体中に悪寒が走る。


 それはわたしも一緒だ。


 わたしも結美ちゃんが塾のことでいっぱいいっぱいなのを知っていたのに、悪口を言った。『付き合い悪い、気味悪い』なんて、本当は思ってないのに、嘘をついた。


「そうかなぁ。結美ちゃん、受験ガチ勢とか言ってたし、ただ勉強を頑張りたいと思ってるだけなんじゃないかな」って、言ってあげればよかった。庇ってあげればよかった。


 でも、しなかった。だって、もし、みんなの悪口の的になっている結美ちゃんを庇ったら、今度はわたしがみんなに「え、なにそれ。なんかしらけた。珠海ってさ、ホント空気読めないよね」と言われてしまう。次の標的が結美ちゃんからわたしに変わるだけだ。それは嫌だった。一番避けたいことだった。それに、自分を犠牲にしてまで助けたいと思うほど、結美ちゃんと仲良くなかった。


「だよね? つまり、ウチら全員が結美のこと嫌ってたわけだ」


 桜子が意地悪な笑みを浮かべ、ほんの少しだけ前屈みになり、ひそひそ声で話す。


 ああ、違うのに。結美ちゃんのこと、嫌いじゃないのに。


 口の中に嫌な苦みが広がる。その苦みを飲み込もうと唾液を飲み下すも、一向に苦みはなくならない。みんなの言葉が、声が、存在が、だんだん遠くなってくる。刺々しく、硬い言葉一つ一つがわたしの身体に重くのしかかる。


 一緒にいるのに、桜子やみんなの言葉を否定せず肯定したのに、みんなとわたしを区切る線がくっきりと強くなっていった。


 その日を境に、わたしはちょっとずつ、学校に行く足が遠のいた。


 具体的に嫌なことをされたわけじゃない。


 具体的に辛いことがあったわけじゃない。


 ただ、みんなとわたしを分ける線が濃く、強くなっただけ。内側に入れないだけ。線の回りは沼地になっていて、一歩でも線の内側に入ろうものなら、ズブズブとわたしの体は沼に沈んでしまう。それがとても苦しくて、痛くて、息苦しくて、人と関わりたくなくなってしまったのだ。


 一度なら挽回することのできる休みも、数度重なると人との距離を作る。みんなの共通の話題についていけなくなる。そうして、また休む。そしたら、もっともっとみんなの話がわからなくなる。まさに悪循環だ。しまいには、登校するたび、みんなが腫れ物を触るようにわたしに接してくるようになってしまった。


 線が、色濃く、強くなる。誰も、わたしを内側に入れてくれない。わたしだけが、この教室で一人なのだ。

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