4話 描かれた海(2)
夏休みが始まって二日目。
わたしは自分の気持ちに折り合いがつけられないまま、大きなリュックを抱え、伯父さんの住む海近くの千葉の家に来ていた。
お父さんとお母さんは、それぞれ大きいトランクケースを片手に持っている。
住宅が並ぶ街並みの中に、一つだけ雰囲気の違う大きな家があった。その家はまるで童話の世界から飛び出したかのような可愛らしいお家だ。あまりに可愛らしいものだから、童話のプリンセスたちを見て育ったわたしでも、尻込みしてしまう。
あまりに大きい家を見上げる。都内の一軒家とは全然違う。まず、隣の家との間がすごく広いのだ。東京の所狭しと並ぶ家同士の窮屈さなんて、まるでない。それになにより、贅沢なほど広い土地にそびえ立つ家は、壮観で圧倒されてしまう。
家の見た目も素晴らしかった。
真っ白で重厚感のある外壁は、波打つように塗られた漆喰で塗られており、壁に合わせてつけられたであろう赤い屋根瓦もまた、波打つように見えた。その組み合わせが絶妙で、可愛らしくも華やかな姿を演出している。外壁がの一部が灰色の石材でできているためか、可愛らしいだけでなく、センスの良さも感じさせた。加えて、いくつもある窓の上部にあしらわれている飾りと、バルコニーから覗く飾られた色とりどりのお花たちが、家全体のアクセントになっていた。
かなりメルヘンチックな家だ。この現実離れしている家こそが、伯父さんの家なのだ。
お母さんが臆することなく、玄関横に備え付けられているインターホンを鳴らす。大きい家の割に、家と道路を仕切るような門や塀がないことが、不思議である。
インターフォンを押してから数秒経ち、「はーい」という声と共に、玄関のドアが開いた。白いTシャツに、くすみがかった茶色い短パンを履いた伯母さんがにこやかに現れたのだ。
「皆さん、お久しぶり! お正月ぶりかしら? ほら、暑いでしょう? 上がって上がって!」
開かれたドアから冷気がこぼれる。すーっと生き返る感じがした。
わたしたち家族は促されるまま、メルヘンなお家に足を踏み入れた。伯母さんが大きな玄関ドアを閉める。
「ほんと、遠いところ来てくれてありがとね。珠海ちゃんたちのお部屋は二階に用意してあるから、案内するわね。そこに荷物を置いて、リビングでお茶でもしましょう」
伯母さんが華やかに微笑んだ。まん丸のメガネ越しに見える目は優しい。伯母さんの瞳はわたしのすべてを受け入れてくれるのではないかと思わせるようだった。
玄関で靴を脱ぎ、大理石のような素材でできている廊下足を下ろすと、左右に大きな真っ白な木製の扉があった。
「右の部屋は私の仕事部屋、兼、アトリエになってるの。あとで案内するわね。二階へ上がる階段はこっち」
伯母さんが左側のドアを開けると、広々とした気持ちいい洗練された部屋が見えた。壁は木製の部分と真っ白な部分で分かれており、床は大理石が続いている。入ってすぐ右手に、デカデカとした壁掛けテレビと、大きなソファとテーブルが置かれていた。それに加え、リビング奥には対面式のキッチンがあり、そのすぐ目の前にはツルツルとした大きなテーブルが置かれている。かなり、広い。伯父さんと伯母さんが住むには有り余る空間だ。家族三人でキョロキョロと部屋をなめるように見ながら、部屋の中に入る。お父さんが感心したようなため息をこぼした。
「相変わらず、お義姉さんたちのお家は広くてオシャレですね」
棚の上や机の上のたくさんの可愛い小物やレースのカーテン、高い天井に吊るされているシャンデリアを眺め、わたしも小さく息をつく。
目が眩むほど華やかで、可愛い。
「ふふ? そう? ありがとう。二階には、この階段で上がってね」
伯母さんが廊下ドアすぐ右手にある、おしゃれなアイアンの手すりに手をかけて、螺旋状の階段を一段ずつ上がっていく。
伯母さんの姿は、このおしゃれで美しい空間によく似合う。階段に立つ姿なんて、どこかの貴婦人みたいだ。
でも、おかしい。たしかに、伯母さんはスラリとして綺麗なプロポーションをしていると思う。でも、Tシャツと短パンというラフな格好に、栗色の髪を無造作に一つに束ね、頭の上でお団子にしている姿は、貴婦人とは程遠い。顔の造形もどちらかといえば地味な感じで、化粧っ気もそんなにないように見えるのに、どうして伯母さんはこんなに華やかで優雅に見えるのだろう。
そんなことを考えながら、わたしは伯母さんの後に続き、階段を上がる。
「はい、着きましたー!皆 さんのお部屋は階段上がってまっすぐ行ったところの突き当たりの部屋と、左側にある部屋になります。一応ね、右の部屋も空いてるから、その部屋も好きに使っちゃってね」
「えっ、三部屋も貸していただけるんですか?」
「見ての通り、この家は無駄に広いからね。たくさん使ってもらったほうがありがたいの。突き当たりの部屋がダブルベッドになっているから、
聡美と健一はお母さんとお父さんの名前だ。ちなみに、伯母さんの名前は
「珠海ちゃんは左側のお部屋を使ってね」
伯母さんがわたしに向かってウィンクを投げる。わたしは恥ずかしくて目線を逸らした。伯母さんは可愛らしくお茶目な人だ。伯母さんは昔から、わたしに対して、近づきもせず、遠くに行きもせず、適度な距離を保ってくれていた。けれど、伯母さんのこんな対応は初めてで、どう接していいのかわからない。
わたしは気まずさを誤魔化すように、小さくお辞儀をして、部屋の中に入った。
「わぁ……」
足を踏み入れた瞬間、声がこぼれた。先ほどの気まずさもどこか遠くへと行ってしまった。
今までの部屋の雰囲気とは全然違うのだ。焦茶色の木製の床に、草木をモチーフにした植物柄の壁紙。少しくすみがかった赤い布を使用した天蓋付きベッドに、フリルのついた赤いレースのカーテン。重厚感のある濃茶色の猫脚家具が多数置かれており、壁には三つほど小さな絵画が飾られている。今まで通ってきた、真っ白で明るく華やかな部屋に対して、この部屋は重々しくクラシカルな雰囲気を醸し出していた。
「どう?珠海ちゃん、気に入った?」
ひょいっとわたしの左肩から顔を出す伯母さんに、わたしは静かに頷く。
「……はい、すごいです」
「よかった。客間はね、全て趣を変えてるのよ。ここの部屋は英国風、珠海ちゃんのご両親のお部屋はアメリカ風のカントリーな部屋、もう一つの部屋は和モダンな部屋になってるわ。よかったら、見てくる?」
こくり、とわたしは再び頷いた。部屋の隅に荷物を置いて、お父さんとお母さんの部屋を覗く。水色の壁紙とナチュラルブラウンの床、丸みの帯びた木目のはっきりとわかる家具に、優しい色使いの小物。自然そのものを生かした優しい雰囲気がこの部屋にはあった。
「ね? 素敵でしょう?」
声を弾ませ、伯母さんが微笑む。
「お客様に合わせて、客間を用意してるの。ほら、みんないろんな好みがあるでしょう? 私たちのお家にいる間はリラックスしてほしくって。……なーんて、旦那にはそれらしいこと言って納得してもらってるけど、全部私の趣味なの。おしゃれなインテリアを集めたり、部屋のコーディネートをしたりするのが好きなんだ」
「すごいですね……」
感嘆のため息をこぼす。
わたしの部屋とは全然違う。
わたしの部屋が余分なものを削ぎ落としたシンプルなものなのに対し、ここの家は、余分なものだらけでごちゃっとしている。
それなのに、美しい。妙に居心地がいいのだ。
この家はどうにもおかしい。野暮ったいのに貴婦人に見える伯母さんに、物で溢れているのに居心地のいい家。すべてがチグハグだ。チグハグでおかしいのに、胸がホッとする。どうしてなんだろう。
「さぁてと。みなさん荷物も置けたようですし、他の部屋も案内しますねー! ついてきてください!」
伯母さんがパンッと手を合わせる。
伯母さんは歩きながら、この家の間取りを説明をしてくれた。わたしの部屋とお母さんの部屋のバルコニーが繋がっていること、わたしたちの部屋とは反対側にある階段を上がってすぐの部屋が、伯母さんと伯父さんの寝室だということ、二階に一つ、一階に二つ、トイレとお風呂があること……。説明を聞きながら、思う。この家は広すぎる。伯母さんと伯父さん、二人で住むには過剰なほど、家が大きい。
「こんな感じかな? あと、紹介してないのは私の仕事部屋とアトリエよね」
一通り説明し終わった伯母さんが、リビングから玄関に続くドアを開けて、説明を続ける。顔はずっと柔らかい笑顔のままだ。
「玄関入って右側のこの部屋は、基本的に私以外、立ち入り禁止の場所なの。聡さんも立ち入り禁止なのよ? でも、今日は特別! みなさんを私の楽園にご招待いたします」
伯母さんは玄関の広場に出ると、ステージでマジシャンや俳優たちがするように、手を前に回して大きくお辞儀をする。
「さ、とくとご覧あれー!」
固く閉じられていた真っ白なドアを、伯母さんがもったいぶったようにして開ける。
ドアの先には、先ほどのリビングよりもほんの少しだけ狭い大きな部屋があった。キッチンもトイレもお風呂もある。
ただ一つ、明らかに違う部分があった。部屋の雰囲気だ。
この部屋もまた、これまでの部屋とは全然違う。真っ白な木の壁紙と床に、貝殻のリースや貝殻モチーフの時計。回っていない茶色いシーリングファンに、吊るされたハンモック。リラックスできるような柔らかなソファと、背もたれが緩やかなカーブを描いたラタンの椅子……。南国風な部屋だ。
「このお部屋も、素敵ですね。海の近いこのお家にぴったり」
お母さんが独り言のように呟く。お母さんはこういう感じの部屋が好きなのだろうか。部屋を見つめるお母さんの瞳がきらりと光り、輝いて見える。
「そうでしょう、そうでしょう? ここが、私の自慢の仕事部屋。カウンセリングルームになってます。患者様たちには、あっちの玄関から入ってきてもらってるの」
伯母さんの指差した方を見ると、そこにもまた真っ白なドアがあった。きっと奥にもう一つの玄関があるのだろう。
視線をほんの少しだけズラす。真っ白なドアの横にもう一つ、焦茶色のドアがあった。ドアについている小窓には、何かの植物の蔦が巻き付けられた黒いアイアンの格子がはめられている。
その扉の異質さに私は目を細め、じっと見つめた。
「ふふ、気になる? あそこは私のアトリエなの」
「アトリエ……?」
「アトリエっていうのはね、絵を描く部屋のことよ。あの部屋で絵を描いて、描いた絵を飾る。それだけの部屋。あの部屋は本当に私しか入れないのよ。……でも、今度、珠海ちゃんには特別に見せてあげる」
伯母さんがイタズラっぽい笑みを浮かべて、お父さんとお母さんには聞こえないくらいの小声で、わたしに囁く。
あっ……。
不意に、あることに気がついてしまった。
伯母さんには線がない。正確には、線はあるけれど、かなり細くて緩やかだ。線は緩やかな波を打ち、わたしを柔軟に受け入れてくれている。
だから、近づかれても嫌な感じがしないし、胸が苦しくならない。もしかしたら、この家が居心地がいいのも、伯母さんの独特な雰囲気のおかげなのかもしれない。
「お部屋の紹介はこれにておしまいです! 暑い中、来てもらったのに、たくさん歩かせちゃってごめんなさいね。お茶にしましょう! 美味しいハーブティーがあるの! ぜひ、みなさんに飲んでもらいたいわ」
伯母さんは軽やかに言うと、リビングへと足を向けてしまう。去り際、わたしはチラリとアトリエの扉に目を向けた。
あの部屋には、伯母さんの絵があるんだ……。伯母さんはどんな絵を描くんだろう。
疑問が膨れ上がる。この家に来るまで気づかなかったけれど、伯母さんは不思議な人だ。貴婦人であり、ラフな人であり、お茶目であり、線が緩やかな人。そんな伯母さんは一体、どんな景色を見て、どんな風に表現するのだろう。
気になった。
気になって気になって仕方がなくて、その後の伯母さんや両親との会話をよく覚えていない。伯父さんは夜遅くまで病院で仕事してるとか、明日にはお父さんが東京に帰るとか、夏休みの宿題は毎日やりなさいっていう注意だったりとか、そんなたわいもない会話していた気がする。
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