これが最後の

谷地雪@悪役令嬢アンソロ発売中

これが最後の

「久しぶり」


 爽やかな笑顔の青年が、並木道の向こうから手を振って駆けてくる。

 私はそれにふわりと笑って、久しぶりと返した。




 忘れる、ということは人に許された権利だ。

 嫌な出来事や辛い記憶を忘れるのは、人の心を守るために必要なことである。

 それを意図的に行なうことができないか、というのが始まりだった。

 忘れたくても忘れられない記憶を抱え続け、苦しむ人のために。最初は医療の一環として、実験的に開始された。

 効果が認められたため適応範囲はどんどん広がり、いつしかそれは整体やエステのように、誰にでも簡単に受けられる処置になった。

 今や人は自分の記憶を自由に断捨離できる。要らない記憶はどんどん捨てて、必要な記憶だけを残す。

 トラウマという言葉はほぼなくなった。人々はこの技術が開発される以前より、明るくなったように思える。

 

 目の前に座る元恋人、さとしも。最後に会った時より、ずっと明るくなった。

 柔らかな午後の日差しを浴びながら、開放的なガラス張りのカフェで、私達は向かい合って会話に花を咲かせていた。


「本当に久しぶりだな。大学卒業して以来だから――五年か?」

「そうだね、そのくらいになるかも」

「今仕事何してんの?」

「保険会社のカスタマー対応」

「げー。それってすごいクレーム多そう」


 けたけたと笑う聡に、私は苦笑する。

 ああ、これで何度目の同じ台詞だろう。

 けれど私は、まるで初めて聞いたかのように返さなくてはならない。

 だって、聡の記憶の中では、これが初めてなのだから。


「そうなの。毎日毎日、怒鳴られてばっかで嫌になっちゃう」

「癒やしてくれる彼氏は?」

「募集中」

「ふぅん……ならさ」


 カップを置いた聡が、少しだけ上目遣いになるように私の顔を覗き込む。


「俺とかどう?」


 断られることを考えていない、自信満々な顔。

 まるで大学生の頃のような表情に、私は目を細める。


「今彼女は?」

「募集中」


 肩をすくめた聡に、私は声を出して笑った。


「なら、いいかな。よろしく」

「あれ、あっさり」

「だって寂しいんだもん」


 挑発的に見つめながら手を取った私に、聡は一瞬だけ面食らった顔をして、意地悪そうに唇を吊り上げて指を絡めた。


 まるでおままごと。でも、お互い納得しているから、別にいい。


 聡は私の元彼だ。大学を卒業してからすぐに付き合って、三年で別れた。そしてその記憶を忘れている。

 恋愛とは、脳内のドーパミン分泌によるものだという。そしてそれは、最長で三年しかもたない。

 聡はその典型だった。

 最初の三ヶ月はとにかく楽しかったが、倦怠期を迎え、だんだんお互いを求めることも減り、三年が経つ頃には修復不可能となった。

 だから私達は別れた。そして別れた後、聡は私と恋人だった記憶を消した。

 それを知ったのは、偶然再会した聡が、私とまるで何もなかったかのように話しかけてきたからだ。

 聡が記憶を消したことを知らなかった私は混乱した。しかし『記憶を消した』という事実だけは、記録にしっかり残っている。聡から、私とのことは覚えていないから、おそらく消した記憶なのだと言われた時には愕然とした。

 あんな終わり方になっても、私にとっては大切な思い出だったのに。聡にとっては、綺麗さっぱり忘れてしまえることだったのかと。あの三年間は、なんだったのかと。

 泣き出した私を抱き締めて、聡は謝った。謝りながら、告白した。

 以前のことは覚えていないけれど、今の聡は本気で私のことが好きなのだと言う。だからもう一度、チャンスが欲しいと。

 そんな馬鹿なとは思うのに、記憶がないのなら。今の聡には嫌な思い出は一つもなくて、純粋に私のことを好きでいてくれるのなら。やり直すことが、できるのではないか。

 私は聡と再び恋人となった。


 結果として、長くはもたなかった。

 今度は一年ほどで険悪になった。やはり無理だったのだと、私は諦めた。

 今度こそ完全に終わりにしようと思っていた私に、聡はとんでもないことを言い出した。


「俺、またお前との記憶消すわ」

「……は? 何それ。また? そんなに私のことを覚えていたくないなら、いいけど。今度はちゃんと、再会しても話しかけないってメモに残しといてよ」

「それはやだ」

「はぁ!?」


 いらいらしながら声を上げた私に、聡は視線を合わせないまま続けた。


「俺達、再会してから暫くはうまくいってたじゃん。やっぱりさ、俺とお前、相性はいいと思うんだよ」

「今更どの口が」

「けど、長く続かない。これはきっと、仕方ないんだ。そういう風にできてるんだよ、俺達は」

「……だから、別れようって」

「だからさ。ずっと、最初の状態をたもてばいいんだよ。付き合いたての楽しい時期をさ、繰り返せばいいじゃん」


 聡の提案に、私は固まった。脳が動き出して、唇が震える。

 それは怒りだったのかもしれないし、或いは、その提案を魅力的だと一瞬でも思ってしまった自分を否定したかったのかもしれない。

 

「そんなの……ダメに決まってるじゃん」

「なんで?」

「だって、そんなの、どこにも辿り着けない。繰り返して、最後はどうなるの。どうなりたいの」

「それって今決めなきゃいけないこと? だってお前、別に子ども欲しいとかないんだろ。だったら、結婚しなきゃとか、そういうゴールは設定する必要ないじゃん。ダメになるまで、繰り返してさ」

「ダメになるまで、って」

「だって俺は全部忘れてるんだぞ? お前がもう嫌だと思ったら、付き合わなきゃいいだけじゃん」


 それはそうだ。聡は記憶を消すと言っているだけで、その後の私の行動を制限しているわけではない。

 私が嫌だと思ったら、断ればいいだけだ。そもそも聡の方だって、記憶を消すならまた私を好きになるとは限らない。


「……わかった。好きにしたら」


 そうして聡は記憶を消した。それが二回目。


 果たして、聡とはまた偶然にも再会した。そして聡はまたアプローチをしてきて、私達はまた恋人になった。

 また楽しいだけの時間を過ごして。――また、終わりを迎える。


 繰り返して。もう聡は、三回記憶を消している。

 最初の三年付き合った後。次の一年付き合った後。その次の一年付き合った後。

 五年間の私との記憶は全てなかったことになっている。だから、今は五年ぶりの再会。


 最初こそ傷ついたが、私がここまで付き合ったのは、柄にもなく運命なんてものを感じていたからだ。

 約束もしていないのに、記憶を消した後、聡とはすぐに再会できる。

 会って暫く話をすれば、聡はすぐに私のことを好きになってくれる。

 何度記憶を失くしても、同じ人間に恋をしてくれるなんて、ロマンチックじゃないか。

 そんな夢見がちな妄想で、自分を騙していた。


 本当はわかっている。

 すぐに再会できるのは、生活圏が同じだからだ。

 聡が恋をしてくれるのは、聡が大学の頃から既に私のことを好きだったからだ。

 でなければ、最初から卒業後すぐに付き合うなんてことにはならなかっただろう。

 聡が記憶を消しているのは大学卒業後、私と付き合った時以降に設定しているから、大学在学中にあった気持ちは聡の中に残っている。

 

 それらに目を瞑って付き合い続けてきたのは。

 私が聡に、恋をし続けているから。


 聡は三年で冷めてしまったけれど。私はずっと、ずっとずっとずっと、この人のことを好きでい続けている。

 だから私は一度も記憶を消さない。聡との思い出は、全部大事な記憶だから。


愛花あいか?」


 ぼうっとしていた私に、聡が優しい声で名前を呼ぶ。

 いつしか呼ばれなくなる名前。これが聞きたくて、私は繰り返しを受け入れてしまう。

 また聡が私を愛してくれる。私だけを見てくれる。それが嬉しくて、拒めずにいた。


 けれど永遠に変わらないものなどない。

 私には今、転職の誘いが来ている。

 保険業界に嫌気がさした私に、昔の友人が事業に誘ってくれた。

 ただし、場所はアメリカだ。

 ありがたいことに返答は今すぐでなくてもいいとのことで、猶予はある。


 だから繰り返しはこれで終わりにすると決めた。三度目の正直というやつだ。

 聡が私と長く一緒にいてくれるなら、或いは結婚などの区切りをつけてくれるのなら。このまま日本に残って仕事をしよう。

 けれどまた同じことになるのなら。今度は、もう待たない。私はアメリカへ行く。二度と聡と会うことはないだろう。

 私の決意と裏腹に、聡は緩んだ顔で、視線に愛しさを滲ませながら口を開く。


「なぁ、久しぶりに映画でも見に行かないか?」

「うん。そうだね、に」


 これが最後の。


 

 

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