第7話 金魚鉢
例年よりも短い梅雨を挟んで、再び強い日差しが戻ってきた。教室には体育の授業後にまき散らされた制汗スプレーの甘い香りが充満していた。わたしはその強い匂いが苦手で、昼休みはわざわざ食堂まで歩いてお弁当を食べている。自販機で買ったペットボトルのアイスティーからはみるみる汗が滲んで、無機質なベージュのテーブルにちいさな水たまりを作っていた。
濡れないように位置をずらしたスマホでラインの画面を表示すると、
結局、進路希望調査票には介護福祉の勉強ができる大学と、滑り止めの専門学校名を書いた。学費で言えば専門学校になるだろうけど、この時期に大学を優先希望に書いておかないと三者面談でいろいろ言われそうだから、という理由だけ。後々「勉強したけど判定が悪いので専門に行きます」ということにすればいい。そもそも介護福祉に興味があるわけじゃないし。それしかできなそうだから仕方なく書いただけだった。まわりの都合のいいように振るまえば波風もたたないだろう。
ひとりで過ごしたお昼休みがようやく終わりを迎えようとしていた。窓の外を見ると干上がったグラウンドの向こうに大きな入道雲が見えた。振り返った拍子に脇の下がヒリヒリと痛む。サイズの合わなくなったブラとのあいだに汗疹ができているのを昨日みつけた。父からお金をもらって今度の休日にでも買いにいかなければならないだろう。けど、なんて説明したものか考えると憂鬱になってくる。気持ちを切るようにスマホをスカートのポケットに押し込もうとしたとき、今度はスマホが静かに震えた。息を大きく吸いラインに届いたメッセージを表示する。次に吐き出した呼吸はため息のつもりだったけど、途中で笑ってしまったのできっとため息にはなってなかったと思う。
※
「
彼の第一声はラインに届いたメッセージと同じだった。図書館の朗読室で先に待っていた
「なんでわたしが声かける前に言うのさ」
「ドアの開け方が前と一緒だったので」
「そんなに変かな」
「というか、音のかたちが」
「・・へ、へーぇ」
彼は音を視覚的に感じていて、それをシーカーラインと言うことを教えてくれた。常人には計りしれない。
「蓮くんその、腕がアザみたいになってるけど」
「あー、そうみたいなんですよね。今朝、
半袖のTシャツからチラリと見える筋張った腕は、赤というより紫色に変色していた。
「僕、柔道クラブに入ったんですけど、柔道着がまだ固くて。擦れたのかな」
「クラブ結局入ったんだね」
「なんか新しいことはじめてみてもいいかなって」
少し羨ましい、という心の声が漏れ出ていただろうか。蓮くんは、誘われて仕方なくですよ?となぜか弁解するように落ち着かない様子だった。
「そんなことより、時間かかっちゃってすみませんでした。ほんとは先週に集まりたかったんだけど、学校の行事で」
「休みの日にもなにかあるの?」
「地域のお祭りに出て点字ブロックの大切さを伝えてほしいって先生に言われて」
「メンドクサ」
「ほんとそうなんですよ。僕以外にも寮で生活してる子とかたくさん連れ出されてました」
盲学校にもいろいろ大変なことがあるらしい。改めて考えると蓮くんには蓮くんの生活があって、友達がいて、わたしとは相容れない違う未来がある。こうやってふたりで話をしていることが " 変 "なのかも。そんな迷いを断ち切るように、蓮くんは声のトーンを上げてきた。
「んで!最初に曲のイメージとか決めようと思ってたんですけど歌詞ができちゃったのでそれで説明しようかと」
ん――。こちらはこちらで曲をつくる大変さを説明して諦めてもらおうと思っていたのに、なんだか言い出しにくい雰囲気になってきたぞこれは。しかし、「これです!」と見せてくれた画用紙にはちいさな凹凸が無数についているだけで。
「蓮くん、わたし点字読めないんだけど」
数秒の空白の後、彼の口はわかりやすく「・・あっ!!」をかたち作った。
「忘れてました! えっとじゃあ。ん? スマホで今から打ち込んで、えっとラインで」
「いやいや、いま読み上げたらいいじゃん。わたしメモするし」
「えっでも自分でつくった歌詞を自分で読み上げるとか――」
蓮くんは苦渋の表情を隠そうともしない。わたしはそれがおかしくなってしまって。
無理やり音読させること数分、クツクツと笑うわたしの気配を感じ取って、彼の幼い顔は徐々に茹であがっていった。
荒れた酒場で情報あつめ 愛しの馬で走りだそう
いくつものまち 通りすぎ 地平線のはて孤独においかけ
真実はどこにあるの 理想郷はどこにあるの
危険な洞窟はいり込み ぜったいほしい宝物
トレジャーハンター ぼくはトレジャーハンター
孤独と恐怖にがまんして しめった壁にしるしを探そう
大きなコウモリ追いはらい 思い出のハンカチ握りしめる
真実はどこにあるの 理想郷はどこにあるの
危険な洞窟かけ抜けて きみにみせたい宝石たち
トレジャーハンター ぼくはトレジャーハンター
” れんP(仮)” 『トレジャーハンター』
「あ―――、もう金輪際ぜったい読まないですからね」
「おん、お疲れ。でもところどころ書き漏らしちゃったなー。だからもう一回…」
「むり!」
「あはは、うそうそ。だいたいは拾えたよ漢字の確認だけあとでさせて」
「はあ――寿命縮まった」
イスの背もたれに崩れていく蓮くんの身体。
「でもさ蓮くん、これってポップな曲なんだよね」
「はい」
「どれくらいのリズムで考えたの?」
「いや、そういうむずかしいのはわかんなくて。なんとなく、です」
「やっぱそうか。だいたいテンポ120~160くらいの曲なんだろうと思うんだよね。ただそうなると二分くらいで曲が終わっちゃうこの歌詞の分量だと」
「えっ、だと短すぎますね」
「そう。それにさ、これ。Cメロってどの部分になるの?」
「・・なんですかそれ」
「・・え?」
「・・え」
先は長そうだ。Cメロは後半の曲調を変化させたメロディー。これくらい常識だと思っていたけど。
「普通は曲を最初に作って後から歌詞を付けるのが一般的らしいからちょっと難しいかもね」
「すみません、そういう手順とか知らなくて」
「あと、"トレジャーハンター " ♪ 。ちょっと長くない? "冒険者"♪じゃだめなのかな、ラノベっぽくさ」
「それだとモンスターと戦う感じにならないですか。戦うのもいいんですけど、探し求める感じにしたいんですよ」
「んー。そっかー。とりあえずさ、とれまPさんの"極楽鳥"みたいなテイストはどうかな。知ってる?すごいポップで可愛いんだ」
「聞いたことないです。今って再生できます?」
「もち」
聞いたり、聞かせたり。その日は時間いっぱい、お互いの考えていることを話し合った。ふたりしかいちいさな朗読室は、まるで金魚鉢みたいに平和で穏やかだった。外の世界とは切り離されて、ずっとこんな時間が続けばいいのに。
思いのほか真剣に考えてきた蓮くんのことばに引っ張られるように、いつのまにか彼は歌詞の見直し、わたしは曲のイメージを考えてみることになった。本当は断りに来たはずだったのにどうしてこうなった。とことん空気を読むとか相手の望む通りに自分を動かしてしまう。
ただ、いつもなら自己嫌悪になるところでも不思議とそうはならなかった。鎖がもうひとつ増えたような感触はありつつ、それでいてその縛りは自分が望んで結んだミサンガのようでもあった。
盲目の少年と自由のないわたしは、この日から共同制作者になった。
※
「消えてる・・!なんで??」
呆然と思考停止するわたしの耳に届いたのはリビングの古いエアコンのうなり声だけだった。共有パソコンにインストールした無料の楽曲編集ソフト「かみおん」。二週間格闘した編集ファイルがデスクトップ上から消えてなくなっている。歌詞に合わせて主旋律をひとつずつ打ち込んで、イメージに合うドラムの方はネットの無限の海から掴み上げた無料のスコアファイルを当て込んでいた。曲はまだ完成していなかったけど、あと少しというところまできていたのに。
このパソコンを自分以外に使うとすればあとひとりしかいない。わたしはノートパソコンをひったくると防音室の扉を勢いよく開けた。部屋からはジャズが大音量で流れ出てくる。
「お父さん!」
音圧に逆らって叫ぶと、ソファーでうとうとしていた父はハッと目を見開いた。彼はよろよろと二、三歩あるいてオーディオのボリュームを小さくするとこちらを睨んできた。
「なんだよ、いま一番いいところだったのに」
「お父さん、パソコンのファイル消したでしょう」
「何のファイルだよ。知らんぞ」
「うそ、デスクトップに置いてた編集ファイルだよ」
「あ?あの真っ白なアイコンのファイルか?よくわからんから消した」
「なんで確認しないで勝手に消すの!?信じらんないんだけど。すごい時間かかってたのに!」
「なんなんだよいきなり。何のファイルだったっていうんだよ」
「――曲、、作ってて、その伴奏のファイル。もうちょっとで完成だったのに――」
自然と握った爪の先が手のひらに食い込む。
「・・ちょっと見せてみろよ」
父は気まずそうな顔を作りつつ、そのくせ口元は面倒だと雄弁に語っている。
「おっ、"かみおん"じゃん。まだあるんだこのソフト。懐かしいな」
「知ってるの?」
「昔ちょっとな」
手慣れた手つきでパソコンをさわる父の姿を見るのは初めてだ。
「このソフトはさ、編集するたびに古いファイルをバックアップとして内部にため込む仕様になってんだ」
「・・どういう」
「少し前の状態になら戻せるってこと。ほらよ」
画面には最終版ではないか少し前の楽譜が表示されている。
「よかっ・・よかったー! また最初からやり直しだったら今度こそ諦めてた。まだ主旋律にベースを合わせる作業は残ってるけど」
父はそれを聞いて小さく「・・へえ」とつぶやくと、まじまじと画面を見始めた。そしてやがて何かに納得するように頷いた。
「なんか既存のデータをいろいろ混ぜただろ。キーを合わせた方がいいぞ。メロディがEなのにベースがDだから気持ち悪いんだ」
「・・! お父さん、そいうのわかるの?」
「まあな。学生時代はバンドやってたし。結婚してやめたから知らないだろうけど」
「えっでもピアノは弾けないって」
「おふくろは弾かせたがってたみたいだけどかっこ悪くてさ。友達の家でギターばっか弾いてた。お前、言うなよ」
意外な父の過去に助けられて、まもなく曲は完成した。あとは主旋律をボカロに歌わせるだけだ。そうラインに打ち込んでいるあいだに、反対に彼からメッセージが届いた。
「フィラメンツちけっともらった!」
また何をいっているんだこの子は・・。このあいだ会得した"!"をさっそく使ってきたことにニヤリとしつつ、わたしから伸びた見えない糸がスマホを通じて確かに脈打っているのを感じていた。
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