第5話 白鍵

れんくん、曲作れるんだ?」

 彼の突然の誘いに驚いた。だってそんな音楽に精通しているようには全然思えなかったから。

「いえ。同じ盲学校のひとでそういう才能あるひともいますが、僕はぜんぜん。楽器もひけません」

「なーんだ。じゃあだめじゃんー」

 がっかりしたのと同じくらい安心している自分もいて驚いた。

「でもゆいさんなら音楽すごく詳しいし曲も作れるんじゃないですか」

「色んなアーティスト聞いてるからって、そんなわけ・・ないでしょ。聞くのと作るのは別物だよ。そりゃピアノは少し弾けるけど・・」

 言ってしまってから後悔する。そのピアノだって中学に入る前にやめてしまったし簡単な譜面を弾いたことしかない。自分で作曲するなんて、とても。

「すごいじゃないですか!やっぱり作曲は結さんに決まりですね。僕はそのかわり歌詞とかつけますから。夏休み中に作って応募しましょ」

「ん、なんかもう作る流れになってる? とにかくムリだからね?」


       ※


 日曜の午後になっても机の上の進路希望調査票は白紙のままだった。わたしは何になりたいんだろう。いったい何が正解で、なにができるというんだろう。空欄にいくら問いかけても答えは返ってこなかった。もちろん父に相談するつもりも毛頭ない。

 家から通える距離に大学はあるけど、私立が多い。父の稼ぎだけでは金銭的に無理だ、と思う。かといって近隣の国公立に受かるだけの頭はないし。地方の国立大ならあるいはと思ったけど、そうなったとき祖母の世話は誰が? と、考えれば考えるほど喉の奥がキュッと締まって、黒いモノがにじみ出てくる気配がする。


 じょうだんじゃないっつぅの!


 どこへも行けないわたしに将来の選択を迫ってくるこの世界が憎い。一歩も先に進んでいる実感もないのに。それなのに、なぜこうもしがみついているんだろう。


「いっしょに作りませんか、曲!」


 カーテンを締め切った薄い闇の中で、蓮くんのことばはわたしの輪郭を淡く光らせている。現実逃避だというのはわかっている、けど。


 一階、玄関の右隣に八畳ほどの防音室がある。厚い扉を押し開いて最初に目に入るのは父のオーディオ機器。ちいさい二重窓を隔てて部屋の反対側、光の届かないソファの影に背の高いアップライトピアノが鎮座している。祖母が引っ越してきたときに一緒に連れてきたものだった。どうしても持っていきたいとゴネる祖母のために部屋の床や壁を改造することになって、当時の母は怒り狂っていたらしい。それを知らないわたしは新しいおもちゃが届いた感覚ではしゃいでいたっけ。

 うっすら埃をかぶったピアノは鍵盤の蓋を開けるとほのかに日焼けの匂いがした。鍵盤の凹凸を指でなぞる。冷ややかな感触が指に心地よかった。「ゆい、指運びを見ていなさい」隣に座った祖母の細い指が、淀みなく鍵盤を叩くのを幻のなかに見た。



 真っ白な雪の世界 わたしだけがひとりでいる

 まわりに傷ついて 心を打ち明けられずにいた

 それも もうおしまい

 ありのままの 気持ちをだす

 ありのままの 自分になるの

 そしたら明日は すこしも怖くない


 ” 杉浦かおり” 『さあ、いこう』



 祖母はしつけの厳しいほうだったと思う。わたしが小学三年生のとき引っ越してきた彼女は、それまでわがままいっぱい野放しに育てられたわたしを見て「これじゃあ、ちょとねえ」とため息をもらしていた。食べ物の好き嫌いはゆるされず、行儀作法にも口を出した。ピアノを習い始めたのも祖母がきっかけだった。若かりしころ小学校の教員をしていた彼女はピアノが得意だった。細く長い指を機械のようによどみなく踏みならすその姿をみて、わたしはすっかり憧れてしまったのだ。

 祖母とちいさいわたし、ふたり並んでピアノを弾く日々がはじまった。最初のほうは興味津々で教わっていたのだけど、元来飽きっぽいわたしは馴染みの無い練習曲が好きになれず、常々身が入っていないと叱られるようになった。叱られるたびにすっかり練習が嫌いになっていて、そのときだけは教師役の祖母が誰より疎ましく感じられた。小学校五年生のときに、それは起きた。


「あの曲の譜面、どこいったかしら。あなたのお母さんは片付けしないから・・・ほんとにもう」


 練習中。ピアノの上段に詰んである譜面を祖母が探そうとしたときのことだ。彼女が座っていた軽い簡易イスが立ち上がった勢いで振り子のように揺れて、ついにはスカートから離れて後ろに倒れ込んだ。わたしはそのイスが分厚いカーペットの上に音もなく着地するのを横目で眺めていた。


(おばあちゃん、イスが倒れたよ)


 声に出す直前にわたしは意図的にそのことばを遮った。当時イスを後ろに引くいたずらが学校で流行っていて、ちょっと意地悪してやろうと考えたのだ。そのうち祖母は探しあてた譜面を両手で持ち、振り向くことなく腰を下ろした。そこにイスがないことも知らずに。


(やった!成功)


「いたた。もう。転んじゃったわ」

 そう、祖母は照れ笑いをする、はずだったのに。


 なすすべなく後ろに倒れ込んだ祖母は腰の上のあたりをイスのフレームに強く打ち付け、まるでテッポウで撃たれた鳥みたいな声でギャッと鳴いた。腰を押さえ苦悶の表情で床に這いつくばる祖母の様子を見て、これはもうただ事でないことを子供ながらに察した。わたしは一言も発せず、その場から逃げるように母のいる台所に駆け出すことしかできなかった。


 そして祖母は、自分の足で歩けなくなった。



 ポ―――ン


 当時より長くなった人差し指で白鍵を恐る恐る押す。しばらく調律をしていなかったの音はどこかよそよそしく、その余韻はわたしを責め立てた。


「結、おふくろが呼んでるぞ」

 部屋の入り口から父の声がして、ハッと振り返る。遠ざかっていた意識が現実に戻ってきて、うるさいくらいに心臓の鼓動が主張していた。わざわざ言いに来るくらいなら自分が行けばいいのに。アホ。



「ゆい、汗で気持ち悪いの」

「ちょっとパジャマ厚手だったかな、ごめんね。着替えようね」

 部屋の窓はカーテンで閉じられエアコンは弱くかけられている。それでも夕方になると西日の熱で蒸し暑くなる季節になった。デイサービスの入浴日は毎週火曜日なので、週末の祖母からは少し生臭い匂いがした。


「ピアノ、弾いていたの?ひさしぶりに音を聞いたわ」

「ちょっと掃除をしてて――」

 前開きのボタンを外しからだを横に倒す。寝間着の袖から腕を引き抜いたとき、祖母の指が目に入った。かつてピアノの鍵盤を叩いていた細くしなやかな指は、今では節くれ立った枯れ枝みたいだった。

 わたしのせいだ。わたしが声をかけなかったせいだ。黙って見ていたせいだ。「おばあちゃん、イスが倒れたよ」たった一言を閉ざしたせいで、わたしは祖母の生活を殺した。母から家を、居場所を奪い、父の描いた家庭をバラバラに壊した。悔やんでも悔やんでも、なかったことにはできない。


「おばあちゃんね、こんなふうになっちゃったけど後悔はしていないの」

 胸元で淡々と語る祖母の声がおなかに響く。わたしの指が緊張に震えていた。

「学校で子供たちにピアノを弾いて聞かせてね、歌を歌うんだけど。いつか自分の子供や孫にピアノを教えるんだって、思ってたのね。洋平ようへいは、あなたのお父さんは全然かまってあげられなかったから、ゆいに教えられてほんとにうれしかった」

 力いっぱい身体を動かしているわたしの額からは汗がひとすじ流れた。その汗に混じって両目からは涙がとめどなく溢れはじめた。気づかれないように袖で顔を拭う。鼻を少しすすりながらなんとか祖母の下着と寝間着を換え終わった。


「また聞きたいわ、ゆいの弾いてたアニメの曲。ほら、なんていったかしら、雪女のお話」

「雪女じゃないよおばあちゃん雪の女王だよ。それにもう、わすれちゃった」

 がんばって笑いかけたつもりだったけど、ちゃんと笑えていた自信はない。とりあえず、晩ご飯を作らなくては。そうだ、目の前にやることがある。手を動かしているあいだは余計なことを考えずに済む。やることがあるというのは救いだった。そうやってわたしは今まで生きてきたんだから。



 夕飯後、わたしはリビングの端にある供用ノートパソコンでこう検索していた。


[ ボカロ曲 作り方 ]


 やろうと決めたわけじゃない。ちょっと調べてみるだけ。


 初心者スターターセットと称してキーボードや編集アプリなど、作曲に必要な道具が紹介されている。が、とてもすべて用意するだけの貯えはない。それに――

「そっかー、絵も描かなきゃいけないんだ」

 曲を作るだけならば不要だが、動画共有サイトでアピールするには絵や歌詞も付け加えなければならない。思わず天を仰いだ。調べれば調べるほど、ちょっと作ってみようという気持ちが萎んでいく。

 それに、本格的に曲をつくるのなら勉強もしないといけないのだろう。本もたくさん出ているがまずは作曲を生業としているひとのブログや、「音楽理論」の特集を読んでみる。フレーズ、コード進行、ベースの重要性。ピアノを教わっていたときには聞いたことがない言葉や考え方が羅列してあって、急に目の前が暗くなってくる。曲って、大変なんだ。それはそうだ。スリーピースバンドだって、ドラム・ギター・ベース・ボーカル四つの役割がある。仮にメロディーを作れたからって一足飛びに曲が完成するわけじゃない。わかっていたつもりだったけどぜんぜんわかっていなかった。

 これはわたしの手に負えない。付け焼き刃で作ってみたって恥をかくだけだ。蓮くんにはちゃんと " 調べたけど無理っぽい " ことを伝えよう。

 そう決めたのに、わたしの手は情報収集をやめようとはしなかった。

 ひょっとしたら、ひょっとしたら、誰かに届くかもしれない。わたしがここにいる意味を伝えられるかもしれない。ことばにしてはじめて大それた感情に気づく。こんなやつだったかな、わたし。


 そのとき手元に置いていたスマホが細かな振動とともに窓を開いた。

「またらいしゅう日曜日に作戦かいぎですびっくりまーく」


 わたしはメッセージを呼んで、鼻から笑い声が漏れ出るのを止められなかった。ひとまず蓮くんには作曲の難しさよりも「!」の出し方を先に教えてあげないといけないらしい。

 " また来週 "  諦めるのも、また来週でいいだろう。騒がしかったパソコンの画面は静かに閉じられた。わたしの明日はまだ、ピアノの鍵盤のように白いままだ。

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