第4話 チョコレートワッフルサンデー
蝶を追いかけていた。大きな両翼は鮮やかな青色で、羽ばたくたびに海みたいなグラデーションに変化した。霧が立ちこめる深い森の中で、僕はその蝶を手の内に収めたい一心で後ろ姿を追いかけていた。あと数歩の距離。もう一歩。手が届く。その直前に僕の身体は空中に放り出された。急に森が切れて、僕のからだは高い崖から一直線に暗いモヤに向かって急降下していった。
真っ暗闇の次に目が捕らえたのはオレンジ色の薄明かりだった。こたつの中だと気づいたのはその蒸し暑さからだった。その狭いこたつの中に誰かとふたり、密着して入っていた。額に触れているなんだかとても柔らかいものが、汗ばんだ艶めかしさをもって僕を誘惑した。抗いきれずにそっとその膨らみに触れてみる。
「わっ、それ、わたしのです」
僕は反射的に肘を張って半身を起こした。あたりは一面のグレーの世界。遠くで救急車が走り去る音がする。僕はあわててパジャマのズボンに手を突っ込むと"やらかして"いないことに安堵する。「助かった・・」と、ひと息ついて再びベッドに倒れ込んだ。安心したのもつかの間、こんどは腕時計の針にふれて驚いた。待ち合わせの時間が迫っていた。あわててベッドから出ようとして、椅子の角に頭をしたたかにぶつける。痛みが引くまでの短い時間のなかで、自分じゃない誰かに操られているみたいな気味の悪い高揚感を覚えていた。
※
「これ、は、ふた、り? で、ぼ うし ゆ? 募集?」
「”房州 ”。地名じゃないかな」
「あー、それはムリ」
「わたしが読んで丸暗記したほうがはやいんじゃない?」
「それだと、練習の意味がないので・・」
日曜日の午前九時。家から歩いていける距離の図書館にわたしたちはいた。二階の一番奥に「朗読室」という防音の小部屋があって、そこに点字本と通常の本の両方を持ち込んでいた。彼がいま解読に苦しんでいるのは夏目漱石の『こころ』だ。わたしも去年習った気がする。なんでも ”来週の現代文の時間に、音読の順番がまわってきそう”なのだという。
わたしたちはあれからメッセージのやりとりを頻繁に交わすようになっていた。大抵は誰の曲がすき、とか他愛のない話で、家族や学校の話はお互いになんとなく避けてきた。そんなだから、彼から届いたメッセージ「このまえのお礼がしたのて、図書館に着てもらえませんか」は何かの変換ミスなのではないかと思って打ち返したけれど、指定された場所はたしかに図書館だった。
「わたしここ、はじめてきたよ」
「朗読室?」
「この図書館」
「えっ市内にあるのに?」
「うん。べつに用ないし」
祖母の介護で友人と一緒に勉強する機会が少なかったわたしは、わざわざ家の外に出てまで勉強する習慣がまったくなかった。けど、たまにはこうして家を離れるのも悪くない。カラオケと違ってどれだけいても
「この図書館はデイジー図書の貸し出しもたくさんあるんですよ。僕も来たのは三回目ですけど」
「デイジーって?」
「えっとCDをいれると小説とか音声で読み上げてくれる機械があって。学校のは古い話ばかりだし、年下の子たちが主に使ってるので恥ずかしいというか。ここなら空いてて使い放題なので」
「本読むの好きなんだ?」
「そうでも。・・いや、どうだろ男の中では読むほうかもですね」
「蓮くん、使わなくていいよ、ケイゴ」
「はぁ・・はい」
一時間ほどダラダラして、わたしがお昼には家に帰らないといけないことを伝えると、彼は点字の練習になったのかどうか怪しいタイミングで切り上げて、図書館横の喫茶店に行こうと言いだした。
外に出ると暑いくらいの日差しだった。図書館の四角張った近代的な装いとは対照的に、喫茶店はレトロな洋館で屋根上の風見鶏が尻尾をくるくると回していた。
彼を伴って店内に入ると気の抜けたドアベルがカランと鳴った。店内は若いカップルや品のいい奥様たち談笑で包まれている。休日でもなぜか学生服姿の蓮くんと、中学の時に買った服をいまだに着まわしているわたしは、なんだかとても場違いな気がした。でもまあ、どうせ彼には見えないわけだし。と思うと少し気が楽だ。
窓側の席に案内され「おしゃれなお店だね」と彼に同意を求めると、「そう、なんですね?」と返ってきた。そっか。そりゃそうだ。
「おしゃれなお店、なんだよ」
「よかったです。えっと、・・
「なんで名字。ふつうに
「ごちそうするのでもっと高いやつどうぞ」
「えっ、それだと申しわけないし」
「そんなこと。ホームから落ちてすごい迷惑かけたし、今日だって練習つきあってもらったし、
貢げ、とか。愛さんの調子を想像したわたしの口から思わずハハッと声が出た。
「じゃあ、季節のケーキセットにしようかな。蓮くんは何にする?」
「順番に読み上げてもらっていいすか」
「そか。ごめん」
デザートのページを順番に読み上げる。
「まずは、チョコレートワッフルサンデー」
「じゃあそれで!」
「はや。迷いがないね」
注文のあと会話が続かずにいたので視線を移すと、白い出窓の窓枠からは猫の額ほどの緑の庭が覗いている。
「愛さんってさ、普段なにしてるひと?夕方からお仕事っていってたけど」
ふと疑問に思ったことを聞いてみた。
「母は叔母さんがやってる"クラブみずき"ってお店で手伝いをしていて――」
お手伝い。ホステスじゃないのか。
「なんか結構お客さんに人気あるらしいです。自分で言ってるだけかもしれないけど」
ホステスだなきっと。愛さんはたしかに綺麗で、さばさばして、かっこいい。きっとどの教室にもひとりはいるカースト上位の勝ち組だ。服もめったに買わず、ムダ毛の処理もしないわたしとは違う次元に生きているひとだ。そんなひとでも、ままならないことがある。わたしは自分の中の黒い感情を自覚した。そんなこともつゆ知らず、当の蓮くんは涼しい表情をしている。
「あの、まえにすすめてくれた音楽アプリ最高でした!」
「でしょ!ってことはアプリ自分で入れたんだ?」
「なんとか。海外の曲とかもあるし、あんまりラジオでは聞かない曲があっておもしろいです。ずっと聞いていられる」
「だよねー」
蓮くんはアプリのトップ画面から流行の曲を再生したり、カテゴリ選択からK-POPを聞いたりしているらしい。
「でも気に入った曲がわからなくなって二度と同じの聞けなくてつらいです」
もしやと思って、アプリ画面を表示してもらい彼の右手ひとさし指を奪う。「この再生ボタンの横のさ・・」
< アイテム ヲ ツイカ > 機械音声が告げる。
「これね。追加した曲は次からこのライブラリから聞けるから」
「! おお・・!」
やっぱり知らなかったか。聞けばつい最近までボタンがたくさん並んだガラケーを愛用していたらしく、スマホの画面やアプリがどういうレイアウトになっているのかわかっていないようだった。わたしは確かに感じられる優越感の正体に気づいたものの、自分が切望していたらしい「普通の会話」を中断することもできずに、その後もなし崩し的に蓮くんの “ 知らなくていい自由 ” を食べ漁っていった。
※
結さんが急に僕の右手を取ったので心底びっくりした。人に触れるのにあまり躊躇がないのかもしれない。おばあさんの世話をしていると言っていたから関係あるのかなと思う。
そうしているうちに、頼んだチョコレートワッフルサンデーが運ばれてきた。よし、と気合を入れる。指先で慎重に皿の位置を確認し、中央にあるはずのガラス容器に左手を添える。右手でテーブル上のスプーンを探しとって容器に近づけると、
「まって、紙取ってあげるね」
どうやらスプーンの先端に紙が巻いてあったらしい。ケーキと違って見えなくても確実に食べられそうなのがパフェ系だと判断して深く考えずに注文をした。結局はスプーンの先が固いワッフルに阻まれて、結さんの誘導をもらいながら食べる羽目になってしまった。ままならない。こんなことならコーヒーゼリーとかにすればよかった。
「じゃあさ、ひょっとして動画共有アプリも知らない、とかないよね」
「んー、知ってますけど使ったことはない、ですね-」
「いまどき動画アプリ使ってないと会話についていけないよ?わたしもひとのこと言えないけどさ。ボカロとか学校で聞いてる人いない?」
ボカロ!友達が話してるのを聞いたことはある。機械音声が歌を歌うやつ。小学生くらいのときからあったような気もするけど今まで興味を持ったことはなかった。
結さんは再び僕のスマホを奪い取るといくつかの動画共有アプリを入れてくれた。
「最初はさ、検索窓から"ミックスリスト"とか、"メドレー"とかって打ったらいいよ。メジャーなの見つかるから。そのなかから気に入ったボカロピー、えっとアーティストのことね。見つかったら追いかけたらいいし。はいコレ右の耳につけて」
結さんは基本そんなにおしゃべりなほうではないのに、音楽の話になると急に早口になる。食べかけのクリームを置き去りにして、手のひらにちいさな丸い物を渡された。結さんのイヤホン。あの流れ星みたいな感触をはっきり覚えている。凹凸を確かめて耳にそっと押し当てた。
その瞬間、グレーの視界にカラフルな七色の光線が飛び込んできた。
窮屈な世界に生まれ落ちたぼくらは
地獄の沙汰も金次第
ニンゲンのまいた種なんて知らないね
秒針を巻き戻す元気があれば
スコアの海を駆け抜けて 思い通り
みんなで叫べ!SAH!
” しるこP-feat.潮音ティア ” 『ワンダーズSP』
アップテンポに奇抜な歌詞。折り重なる電子音の中で生き生きと踊る彼女がいた。声の音色は、普段スマホや電子教材から聞こえてくる読み上げの機械音声に近いけれど、間違いなく目の前で生きていると思えた。毎日淡々と僕を誘導してくれている
言葉では形容すらできない電子楽器の音は、実在する楽器が囚われている物理法則を無視して螺旋を描き、どこまでも空中を飛んでいける気持ちにすらさせてくれる。まるで麻薬だ。
「すご!! かっこいい!」
「蓮くん、声、大きいから」
「あっごめん、なさい。 CDとかも出てるんですか?」
「このひとはプロじゃないからこのサイトでしか聞けないよ」
「えっ、こういうのって自分で作れるんですか??」
曲の終わりを見計らって問いかけた。広告に切り替わったイヤホンからは、これ以上ない回答が告げられている。
< ○○○○主催ボカロ作曲コンテスト。最優秀賞はメジャーデビュー確約。学生の部も賞金三十万円。今すぐタップ! >
だれでも、大人じゃなくても作れるんだ! そのとき僕はおさまらない興奮と開放感から目蓋を持ち上げてこう告白してしまった。
「結さん、いっしょに作りませんか。曲!」
「えぇ??」
すっかり溶けてしまった甘ったるいアイスクリームを掻きこみながら、結さんの反応を待つ。左手の甲に添えられた太陽の熱に後押しされて、いまの自分ならなんでもできそうな気がしていた。
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