第3話 翻るスカートと放課後

 前の席から気だるげに回された用紙には「進路希望調査」と書かれていた。わたしは汚れたものに触るように、でも仕方が無く一枚を手元に残した。第一希望、第二希望を示す欄の横に「進学」か「就職」かの分かれ道がある。なるべく考えないようにしてきた景色を前に立ちすくんでいる自分がいた。

 高校二年の六月。エアコンの効きが悪い教室で、日本史がお経のように語られはじめる。

「・・・○○□・・△□・・」

 千年以上前に死んだひとたちは勝手に教科書に載せられ、未だ成仏することなく天井を漂っているみたいだと思った。冗談じゃない。いま生きていて、血も出て、痛みも感じるわたしを見下ろして何様なんだよ、って。歴史の勉強がもし将来に役に立つことがあったとしても、絶対に世話になんかならない。

 わたしの将来、か。落とした視線、机の脇に引っかけたバッグ。とじこめたはずの進路希望調査がまだこちらを見ているような気配がする。

「親御さんともよく相談して書くように」と先生は付け足した。その言葉がわたしをいっそう憂鬱にさせていた。父はきっと「ゆいの好きなように書けばいい」と言い捨てるだろう。いままでさんざん自由を奪っておいて「好きにしろ」とは勝手すぎる。そのくせ書いたら書いたで、「家はどうするんだ」なんて言うに違いない。その音色を、その表情を想像するだけで無意識にペンを持つ手に力が入るのを感じた。まったまった、きょうのところはいったん家に持ち帰って冷静に考えよう。


 心のざらつきとは裏腹に帰りの電車は平静を保っていた。窓から延びる四角の日差しは車内に幾何学な影を作っている。その影の先、薄暗い優先席につい目が行ってしまう。

 きょうも会えなかったな。

 儀式めいたひとりごとは、決して空白を埋めてはくれなかった。あの日、四月の桜が真横に流れた朝から彼には会えていない。通学時間が違うのか車両が違うのか。自分の生活パターンを崩してでも彼を探している自分に思わず赤面した。我ながらなんて無様なんだろうと思った。ただちょっとニッチな曲を知ってただけ。たまたま同じアーティストが好きだっただけ。たまたまイヤホンを拾ってくれた、ただそれだけじゃないか。なんど言い聞かせても、わたしから出た糸は白杖の男の子を探してしまうのだ。

 五時ちょうど。いつも通りホームに降り立った。人がパラパラと吐き出されて、無数の足たちはそれぞれの歩幅で前を行く。茶色のローヒール。黒の革靴。オレンジのスニーカー。こつ、こたたん、ここ、こつ。力なく上がっては地を踏む異なるリズム。それにまじって、群衆の脇から白杖が踊リ出るのをわたしは見た。その瞬間、遊び道具を見つけた猫みたいに、わたしの目は白杖を追いかけた。それまで頭の中を占めていた晩ごはんの献立は完全に空中に放り出されている。あの子かもしれない。あの子かもしれないじゃないか。

 白杖の端が自販機の横を通り過ぎる。そのとき、背後から風が吹いた。大きなボストンバッグを背負った短髪の男性がわたしの横を走り過ぎた。先を急いでいるらしくホーム上の人たちの隙間を左右に縫って走って行く。


――あ。


 一瞬だった。自販機を避けて横に切り返した男性は点字ブロックを越え線路側の学生服と交錯。バランスを崩した学生服と白杖は、抗うこともなくホーム下の線路に吸い込まれていった。

 なにが起きたのか誰も理解できないでいると、一部始終を目の前で目撃した老年の女性は「イヤッ」と短い悲鳴をあげた。その声でわたしは我に返る。線路側に身を乗り出し、彼の行方を探す。幸いにも転落した学生服の男の子は膝をたてて起き上がろうとしているところだった。

 折れ曲がった白杖が高々と掲げられた。その姿を皆がただ、立ち尽くして見守っていた。わたしはその光景のなか、静かにその場にバッグをおろして走り出していた。


     ※


「だれか駅員さんを呼んできてください!」

 女性の声がするほうに目を見開いてみたけども、もちろん目の前にはグレーの空間が広がったままだ。足元は凹凸があり手足を着いている場所がどこなのか見当もつかない。線路に落ちた。それだけが事実だった。

 電車から降りて歩き始めてたとき、いつもと違う駅に降り立ったという興奮と、去りゆく電車の音の響き方に気を取られていた。レールと車輪が擦れる音、レールのつなぎ目を乗り越える音。グレーの世界に白い線が音の輪郭を作っては消えた。シーカーライン(探索者の線)と言うのだそうだ。その線が舞うのを美しいと感じていた。だから、背後の気配にはまったく反応ができなかった。

 斜め後ろから受けた衝撃、身体が抗うことなく踏んだ一歩目、そして二歩目には空中を歩いていた。過去に用水路に落ちた記憶がフラッシュバックされ無意識に白杖を足元に突き出したのが幸いした。手のしびれるような衝撃、痛みと共に、気づけば四つん這いになっていた。

 落ちた。線路に落ちた。それだけはわかった。頭にカッと湯気が上がり、何をどうすればいいのか自分ではわからない。人のざわめきが乱反射して、どちらにホームがあるのか、どちらにいけば安全なのかもわからず、僕は遭難した。遠く踏切が締まる警報音がして次の電車がくる機械的なアナウンスが流れた。非常停止ボタンは押されていなかった。まずい、ここにいたらまずい。手探りで足元の白杖をつかみ、真上にかざした。

 そのとき、ふわりと石けんみたいな風が舞い降りた。

「大丈夫?歩ける?」

 女性の声だった。どこかで聞いたことがあるような気がした。

「あ、はいだいじょうぶです」

 彼女は、ちょっとまって、と僕の脇に手を回して引き寄せた。僕は何かにつまづいて転びそうになりながら、必死で彼女の行き先に歩調を合わせる。

「むこうにハシゴがあるからそこまで」

 ぎこちなく何歩かして背後に電車の気配が届いた。

「あの、後ろから電車が来ていませんか」

「え!?」

 脇に回された彼女の腕から緊張感が伝わる。

「しゃがんでこっちに来て!!」

 僕は後ろ向きに引っぱられると、倒れそうになるのを必死にこらえた。言われたとおりにしゃがんで背中から抱きかかえられるように縮こまる。

「もう二歩後ろに下がって!」

 身体を捻りながら必死に従ったその瞬間、目の前を轟音が通り過ぎた。電車の車輪がレールと擦れて雷みたいな甲高い悲鳴をあげ、その後にものすごい横風が頬を叩いた。はるか上空の雷雲の中、嵐の中に投げ出されたみたいな鮮烈な衝撃だった。

 電車はやがて速度をゆるめ停車した。何事も無かったように乗客をおろし、また走り去った。そのあいだ僕たちふたりは一言も発することもなく、ひとつのかたまりになってその場に留まっていた。まるで線路脇にしかれた一個の石ころみたいだと思った。汗ばんだ背中に向けられる彼女の呼吸がちいさな太陽みたいに熱を帯びていた。


「なんであんなことしたの?」「ふたりは知り合い?」「どこの学校?」「念のため連絡先書いてくれる?」

 僕たちを引き上げてくれた駅員は、まるで同情的とは言えない事務的な口調で質問した。僕も説明はしたけど、ぶつかってきた人はいなくなってしまったらしく、目の見えない僕に変わって説明のほとんどを助けてくれた女性がしてくれた。

 五十木女子高等学校二年生。名前をゆいさんと言った。落ち着いた口調からもっと年上かと思ったけどひとつしか違わなかった。それがわかったら急に、肘に当たったあの柔らかい感触が思い出されて心臓がふたたび慌てはじめたのがわかった。


     ※


「家族にむかえに来てもらったら?」

「いえ、だいじょうぶです。自分で帰れます」

 駅員に解放された後も彼、清水蓮しみずれんくんは頑なだった。どうにも親に知られたくない様子だった。気持ちはわかる気はするけど、でも手に持った白杖は"くの字 "に曲がってしまっている。

「じゃあ、わたしが家まで送ってく。それならいいでしょ?」

「でも・・そこまでしてもらうのも」

「あー。君は覚えていないかもしれないけど、少し前に電車の中でイヤホンを拾ってくれたでしょう。そのお礼」

「あ!? いや・・じゃあ、お願いしてもいいですか」

 やはり気づいていなかったか。当たり前だと思いつつどこか落胆している自分がいた。どうやって連れていったらいい?と聞くと、腕を掴ませてもらえたら、と恥ずかしそうに返ってきた。彼の左手首を掴んで自分の二の腕のほうへ持っていく。こう? なんだか新郎新婦みたいだ。男女逆だけど、並んだらわたしの方がわずかに背が高かったのでそう納得することにした。


「住所からいって隣駅だよね?」

「この駅からでも歩ける距離なので大丈夫、と思います。ひとりで歩いたことはないんですけど」

「じゃあスマホで調べながらいくね」

 彼は、本当はこの駅の近くにある市立図書館に行きたかったらしいけどもちろん今日はお預けだ。わたしが誘導に慣れていないせいか、十字路で立ち止まるたびに彼との距離が縮まってなんだか気恥ずかしかった。

 彼の家は駅から十五分ほどの距離にあった。二階建てアパートの一階。一番奥の部屋まで誘導する。そのころには周囲は暗くなりはじめていて、わたしの脳裏には家で待つ祖母の顔がちらついていた。


「じゃあ、わたし帰るね」

「あっ、ちょっとまっててください!」

 彼があわてて部屋の呼び鈴を押す。しばらくして玄関ドアの鍵が開いて中から女の人が顔を出した。Tシャツにジャージ姿。そのラフ格好に似合わない、ばっちしメイクに後ろで盛った髪型。彼とどんな関係なのだろうか。


「どしたの蓮!?」

「えと、ちょっと転んで、助けてもらった」

「転んだってあんた肘擦りむいとるやん!」

「えっと、蓮くん駅のホームから落ちちゃって。でも悪いのはぶつかった人なので・・」

 アイシャドウが縁取る大きな瞳にみるみる涙が満ちていった。わたしは見てはいけないものを見た気がして視線を逸らす。

「ハーーー。ごめん、散らかってるけど入っていって」

「あ、えっとわたし、帰らないとなんで」

「ちょっとだけだから、お願い」



「こいつ中学のときも川に落ちちゃってさ。頭から下、血だらけ。偶然通りかかった農作業のひとに助けてもらったの。気づいてもらえなかったらけっこうやばい出血だったらしい」

 ”あいさん ”はまるで鉄板の笑い話だとでも言うようにカラカラと笑った。高校生の子どもがいるなんて信じられないくらい若く、可愛い。幼く見える蓮くんは愛さん似なのだと思う。ちいさなダイニングキッチンは良く整頓されていて、木製の椅子に案内されたわたしは冷蔵庫に隠してあったらしいスーパーのケーキを食べさせてもらっていた。いつもなら苦手な甘ったるい生クリームがなぜか今日は美味しく感じる。

「だから田舎は危ないなと思って引っ越してきたけど、こっちはこっちでホームから落ちるとか・・!ほんとバカ。ありがとね」

「いえ・・」

 当の蓮くんは、愛さんとわたしが話すのを隣で静かに聞いている。時折頷いたり、テーブルの縁に手のひらを往復させたりしていた。

「わたしご飯作らないとなんでそろそろ帰ります」

「えっご飯作ってるの?えらい。ごめんね呼び止めちゃって。ほんとありがとね。わたしも今から出勤しないとだから、一緒に出よう。連もちゃんとお礼いいなよっ」

 愛さんはかけ時計を見ると飛び上がって、あわてて奥の部屋に消えていった。ふたり、テーブルに残された時間、開いた窓から飛行機が通り過ぎる気配がした。

「えっと、改めてちゃんとお礼もしたいので連絡先教えてもらえませんか・・!」

 蓮くんは力一杯まぶたを瞑って顔を傾かせて言った。

「――ラインなら」

「あ、はい! えっと・・・どこだっけ」

 ぷぽぽぺ ・・"テンキ" "トケイ" "デンワ" スマートフォンの読み上げ機能なのか、聞いたこともない合成音声が無数のアプリ名を立て続けに読み上げる。

「これ・・じゃない?」

 画面上で指を誘導すると指が固まって、あんまり使ってなかったからと恥ずかしそうに言い訳をした。


「えっと結さん、――ラインって、どうやって登録するんでしょう?」




 BANG! BANG! 君にひかれていく

 流れ弾はどこから飛んできた?

 気付いたら撃ち抜かれてる

 そんなことってある?


 とことんやりやおうぜパーティータイム

 やられっぱなしじゃ終われない


 Don't Don't 君にひかれていく

 弱ったやつは集中砲火

 気付いたら死体になってる

 そんなことってある?


 ” タイカ ” 『ルーレット』

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