第2話 足元に星が流れるとき

清水しみず れん 十五歳の、四月だった。


 目の前に灰色の地平が広がっていた。どこまでも果てがなく、天も地もわかれていない無限の空間。そこにひとり浮いている。ついさっきまでとても大切な場所にいた気がするのに、それがどこだったか、誰といたのかはもうおぼろげだ。必死にすくい上げようとしても、指の隙間から砂が落ちるように灰色に飲み込まれていく。


 今度こそ死んだのかもしれないな。


 そう思った直後、どこか遠くでスクーターが走り去る音がして、まだそのときではないのだとわかった。重力に逆らうように手を突いて上体をおこす。かすかに頬に熱を感じて太陽がでていることに気づく。慌てて、左手につけた腕時計の蓋をあけ、指の腹で針の方角を確かめた。良かった、無意識に目覚まし時計を止めてしまったわけじゃない。もっと早い時間みたいだ。

 僕の目が完全に光を失ってから二年以上がたったのに、まだこの寝起きの感覚に慣れていない。ぼんやりとした意識では目の前のグレー色の世界が現実なのか、夢の続きなのか、果ては死後の世界なのか判別ができないのだった。

 腰掛けるシングルベッドのスプリングがミシリと音を立てた。世界はまだ早朝の静けさに包まれていて、無遠慮な音の大きさに驚いてしまう。毎日深夜に帰宅するあいさんは隣の部屋でまだ深い眠りの中だ。起こしてしまわないようにできるだけ音をたてずに支度をしなくてはならない。

 僕はこの春から故郷を離れ、盲学校の高等部に入学していた。


れん、おきてたの? やたらはやいね。言ってくれたらごはん作ったのに」


 朝食の支度をしていたら、愛さんが自分の部屋の襖を開けて声をかけてきた。どうやらトースターで食パンを焼く音で起こしてしまったらしい。

「いいよ寝てて。自分でできるし」


 一拍おいて愛さんは「ふうん」という、不満とも安心ともとれるような音を出した。このひとはこのひとなりに考えるところがあるらしいのだけど、やたらベタついてくることもあれば、そっけないときもあって距離感がよくわからない。


「学校たのし?」

「・・ふつう」

「ふつう、ね。普通がいいよね何事もね。友達とかさ、できたら連れてきてもいいんだからね」

「・・うん」

 満足したのか「いってらっさーい」という捨て台詞とともに、愛さんは自分の巣に戻った。友達、ね。どこに連れてこいというのか。

 この2LDKの木造アパートは僕ら母子おやこが最低限くらしていけるスペースだった。目が見えない僕が使いやすいように、共用部分には棚が並び、物の置き場所は厳重に決められている。元々だらしがない愛さんは、看護師をしていたころに培ったシール作成技術で置き場の名前を表示しているのだと言っていた。家中くまなく物が整列し名前シールが貼られたアパート。が訪ねてきたらきっと驚くに違いない。残念ながらその驚いた表情を僕は見ることができないけど。


 入学前の僕の期待は虚しく、自分と同じように目に障害のあるひと達が集まる盲学校に通い出しても、自分が普通になったのだと感じることができないでいる。


「エモトくん、大人と混じったピアノのコンクールで優勝したらしいよ。取材の人が来てたって」

「へえ、すごいんだね」


「ウチの学校、ゴールボールの部活がつよいんだけど、キャプテンのひとはブラインドテニスも両方やっててさ」

「そうなんだ、すごいひとがいるんだね」


 同じ学校の誰々が、という話題になるたびに、会話の内容を想像することもできない僕は、ただ圧倒されて生返事を返すことしかできない。通っている生徒の多くが同じ盲学校の中等部からそのまま進学している中で、地方からいきなり高等部に入る自分のようなケースは多くない。


「シミズくんは部活なにやるか決めた?」

「まだ。でも必ず入らなきゃいけないわけじゃないんだよね」

「そうだけど、中学まで目明めあかの学校でスポーツやってたんでしょ? 絶対やったほうがいいよ」


 かんたんに言ってくれる。たしかに中学の途中までかろうじて見える範囲が残っていた僕は地元の学校の特別支援教室に通っていた。元々身体を動かすのが好きで、小学からサッカーをやっていた。でも、そのころを思い出そうとすると苦い記憶が甦る。

 小学生のころ、僕は誰よりも上手くサッカーボールをコントロールできた。フェイントをかけて空いたスペースにドリブルで切り込むと、同学年では誰も僕を止められなかった。『将来の夢』を聞かれるたびに、プロサッカー選手だと迷うことなく答えられた。そんな僕の視界がある日を境に欠けはじめた。最初は気のせいかと思った。視界が狭まったせいでプレー中に不意にぶつかったり、予期せぬボールの取られ方をした。これはさすがにおかしいと気づき病院へ。診断結果は『緑内障』という思いもよらない病名だった。そんなの、おじいさんやおばあさんがなる病気だと思っていたから。


「生まれつきの要素が大きいですから、確実に治るとはなんとも」

 医者は僕の前では言葉を濁したが、後に待合室で合流した母の泣きはらした顔と、能面のような父の顔を見たとき「ああ、ひょっとしたらこれは治らないのかもしれない」とうすうす気づいた。

 中学に上がり、いよいよ見える範囲が狭くなった。かろうじて左目は中心部が見えたが、右目は万華鏡のようにモザイク模様で視力としてはほとんど機能していなかった。

 サッカーを諦めた僕は中学では陸上部に入っていた。なけなしの視界にようやく収まっている一本のトラックを走っていると、果ての無いトンネルに迷い込んだみたいに気持ちが萎んでいくのを感じた。結局、陸上部も程なくしてやめてしまった。それからはずっと帰宅部だ。


「う~ん、とりあえず部活は様子みるよ。じっくり決めたいし」

「そっかー。なにか興味がわいたら聞いて。案内するし、しってる先生が顧問なら声かけてあげるからさ」


 この学校の友達はみんな親切だ。外からやってきた新参者の僕にも分けへだてがない。中学の特別学級で学んでいたときの、周囲のよそよそしさや孤独感はここにはなかった。でもそのかわり、廊下をはやく歩けないのも、点字を満足に拾えず授業を遅らせているのも、楽器が弾けないのも、気心のしれた友達がいないのも、すべてが劣等感と結びつく。色違いのは白鳥だったけど、盲学校にいる中途失明の僕はアヒルにも白鳥にもなれない異物でしかなかった。

 結局さんざん迷ったフリをしながら、僕は部活には入っていない。


 湿気の中にドブのような匂いが微かに混じっている。都会の朝がこんなに濃密な空気を持っているなんて知らなかった。アパートの玄関を出てから点字ブロックのある駅前までのあいだ、僕は足先の感触に神経を集中しなければならなかった。真新しい白杖を遠慮がちに押しだして、なれない道を歩く。どこまでもつづく灰色の世界で、感触でみえる前方1mだけが地面のすべてだった。どこから来たのか、どこへ向かっているのか記憶をたよりに方角を決める。


 二百十五、 二百十六、 二百十七


 目的地や曲がり角までの歩数を数えるのが癖になった。自宅から駅までは八百六十歩。五百三十歩くらいで差し掛かる十字路を右に曲がる。

 すぐ近くを車のエンジン音が通り過ぎる。自転車の車輪が脇をかすめる。おしゃべりをしながら道行く親子は、僕に近づくにつれ声をひそめた。まるで幽霊かなにかに気配をさとられまいとするようだった。ふらふらと徘徊しているみたいに見えるのだろうから、あんがいその通りなのかもしれないけど。


 僕はここにいますか! ほんとうに生きていますか!


と、叫びたい衝動をぐっとこらえている。


 学校行きの電車は静まりかえっていた。通学で最も緊張する、電車への乗り込みを終えて、定位置の優先席へすわる。最初、ホームと車両の間に足を挟むと大変、と脅されていたし、ひとの足を白杖で突いてしまったりを何回かやらかしたので慣れてきてからも変な汗が出た。

 電車が加速する。身体が横に引かれる。お尻の下では電車のモーターが回転数を上げていくのを音と振動で感じる。僕はこの、宇宙をどこまでも進んでいけるような唸り声が好きだった。どうやら電車にはモーターがついている車両とついてない車両があるらしく、それを知ってからはわざわざ改札から遠い車両まで歩いて乗るようにしている。それくらいにはこの電車と一体感が感じられる座席が好きだった。

 一方で、電車が進むたびに学校が近づいてくるのも感じた。やだなあ、またあの教室で勉強しなきゃならない。先生の音読、点字を打つ音、パソコンの読み上げ音。四方から無数の音が迫り、視界いっぱいに音の波があふれて、溺れて、いま自分がどこにいるのかわからなくなる時間。漂流。僕はここのところ毎日、漂流している。


< 次は西大路、西大路です。南部線はお乗り換えです >


 僕の灰色の世界に一瞬、別の色が横切ったような気がして、まどろんだ意識を引き戻す。耳をそばだてても平坦なノイズが続くだけだ。


 ガタン

 車両が横揺れした。また、色が流れる。黄色とオレンジが混じった小さな流れ星が足元を通り過ぎた。


< 西大路、西大路です >


 あわてて屈んで、足元の気配を手で探った。左手の薬指に、は軽くふれた。指でつまむと、小さく丸い物だった。そのちいさな流れ星はジリジリと熱を発しているように感じた。手のひらにのせて目の前にもってくる。


 あ――。


 それは鮮烈な体験だった。流れ星から向けられた熱はまっすぐ僕の耳に届いた。まるでチャンネルが偶然に合って、遠い世界とつながったみたいに感じた。それはどこかで聞いたことのある曲だった。まだ友人が身近に感じられたころ、友達のお兄さんがハマっていたバンド。バイト代で買ったという大きなスピーカーが熱っぽく吠えていたっけ。


 フィラメンツ


 そう、フィラメンツ。思い出した。気づくと僕は、今では役たたずになった目蓋を持ち上げていた。もっと見たい。フィラメンツの曲が見たい。


「わ、それっ、わたしのです」

 若い女性の声で我にかえった。この流れ星の持ち主だ。

「よかった。まだ降りてなくて。”フィラメ ” 聞くんですね、ぼくも好きです」

「――えっ」

 思わず口に突いてでた。余計なことを言ったかもしれないと後悔したけど言わずにはいられなかった。手のひらのそれがつまみ上げられるとき、すこし指が手に触れた。やわらかくて温かかった。

「あ、ありがとう」

 遠慮がちで、きめの細かいタオルみたいな声。乾いた空気に混じって清潔な石けんの香りが鼻に届いた。もう、都会のドブの匂いはしない。ではあるけど、僕はもう少しだけこの土地でがんばってみようと思った。




トンネルをぬけて

見慣れない景色を迎えにいこう

平気な顔をして我慢した帰り道

気のせいじゃないって知っているから


勢いにまかせて

退屈な毎日を走り抜けよう

トゲのある言葉我慢した帰り道

通り過ぎていくって知っているから


In⇒to life In⇒to light

君がいること


”グリーンモンキーズ ” 『君がいること』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る