第1話 ひみつの鎖

小出こいで ゆい 十六歳の、三月だった。


「そうだよねー。絶対ウチらのこと気にしてるよね」

「わかる。チラチラみてんじゃねーよって」

「ねー、バカ久保のくせにさ」


 お小遣いをためて買った安物の無線イヤホンを突き抜けて、同じ電車に乗っていた違う学校の女子たちの会話が耳に届いた。高校は期末テストを控えていてどこの学校も部活動はないのかもしれない。部活に入っていないわたしにとって、同じ電車で乗り合わせることも少ない同年代の会話。聞きたくもないのについ耳をそばだててしまう。わたしはいつだって矛盾だらけだった。

 なんでも話せる友達がいるってああいう感じなんだろうか。と、ふと湧き上がる自己嫌悪を追いやって無理やり今晩の献立を考えようと努力してみた。でも閑散とした頭の中の談話スペースには何のアイデアも持ち込まれる気配が無い。春のうわついた気配にふにゃふにゃにされて、どうもやる気が出ないのだ。おでんでごまかそうか。とも考えたが、先週作った大根の煮物は筋っぽいと言われ祖母の不評を買ったのだったか。動かない頭で必死に料理雑誌をめくるも、とにかく時間が無い。


 < 次は朝賀台あさがだいです >


 あと八分のうちに考えなければ。

 五時ちょうどに電車から降り、駅前のスーパーで食材を手早く買う。五時三十分には家について、着替えてすぐ台所に立つ。夕飯を作りながらお弁当箱を軽く洗って。その先は・・・。わたしは近すぎる未来を考えることに必死で、まるで足元ばかり見ているみたいだ。


「ねえ、部活ないとさ、帰ってもめっちゃ暇なんだけど。何したらいいかわからなくない?」

「いやいや、ちったぁ勉強しろい」

「キャハハハ」

 数歩も隔てていない距離に、自分と同じような制服を着た女の子たちが笑い転げている。バカみたいに髪型に時間をかけてバカみたいな話をするひとたち。まるでわずかな曇りもなく生きているみたいに堂々としている。その姿を見せつけられるたびに、自分とは住む世界が違うのだと知る。


 見飽きた住宅街を歩く。小さな公園とアパートの並びにわたしの家があった。二階建ての小さな一戸建て。わたしが産まれてすぐ両親が建てたのだと聞いたから、まだ十五年くらいしか経っていないはずだ。なのに、狭い土地に肩をすくめるような佇まいはひどくくたびれて見えた。

 玄関にたどり着くと買い物袋を片手に鍵を開ける。そのひやりとした金属製の取っ手を、わたしは毎回、覚悟を持って開けなければならなかった。


「・・ゆい?」


 風の音か、亡霊みたいにちいさな囁きが、静まりかえった廊下の奥からすり寄ってくる。

「・・かえったの? ゆい?」

「――うん。」

 絡まった髪を振りほどくみたいに、はっきりと声に出す。


「かゆくてたまらないの」

「まってて。着替えてくる」

 買い物袋を食卓において、急いで二階に上がる。階段右の自分の部屋。学校指定のバッグと脱いだ制服をベッドに放り投げると上下青のジャージに着替える。これは家で仕事をするときの戦闘服。化粧っけのない顔を姿見に写しながら肩まで届く髪を後ろでまとめた。生気のない疲れた顔。わたしは自分の顔が大嫌いだった。それでも、 うしっ と強制的に気持ちを奮い立たせる。


 一階、階段奥の祖母の部屋に入ると、祖母が ” した ” 匂いがマスク越しに鼻につく。入り口に積み上がった段ボールの上から使い捨てのポリ手袋と洗浄液の入ったカゴを掴み上げた。


「ごめんねえゆい

「・・うん」

 掛け布団をたたんでベッドから下ろすとパジャマ姿の祖母が露わになる。


「倒すよ」

 両膝を立てて奥に倒す。背を向けて横向きの体勢になった祖母の平らなお尻にはシミはなく、ホッと胸をなで下ろす。漏れてなくて良かった。漏れていたら本当の本当に大変なのだ。

 意志を失い棒みたいになった祖母の両足は扱いにくく、ズボンを下ろすのも大変で最初は苦労した。ベッドと身体の間にバスタオルを挟み入れてから、オムツの腰のテープを剥がす。そして、よごれたお尻と陰部を洗浄液のシャワーで洗い流す。祖母は恥ずかしいのかオムツを換えている間は芋虫のようにじっと耐えていて、しわぶきひとつあげることはない。わたしも余計な声はかけずに黙々と手を動かすことに徹していた。毎日、数回行われるその時間。誰にも言えない共通の秘密を持ったみたいに祖母とわたしは重い鎖で繋がれていた。


「ありがとうね。ごめんね、ごめんね」

 部屋を出た後もしばらく匂いは鼻から離れることはなく、しばしば料理の匂いとないまぜとなってわたしを苛立たせた。 ” 遅くなる。先に食べろ ” スマホに表示された父のメッセージ。ほぼ毎日の定型文になってからは、ろくに気にしたことがない。言われなくても、さっそく出来上がったご飯をお盆に載せて祖母に食べさせる。


「豚肉が安かったから青椒肉絲チンジャオロースにしたよ。もちろん炒めるだけのやつだけど」

「・・うん」

 電動ベッドで上体を起こさせると、祖母は自分の手で樹脂スプーンをふらふらと口に運ぶ。もごもごとしばらく噛んでいたが、肉が固くかみ切れない様子でいくらか皿に戻した。もはや肉ではなくなった茶色の物体は先ほどオムツの中にいた茶色のかたまりと酷似していて、得体の知れない恐れがわたしの覚悟を揺さぶっていた。


 なんでこうなったんだろう。


 わたしの家族はかつて四人だったことがある。

 小学校に上がったころ、連れ合いを亡くした祖母が同居することになった。母はひどく反対したそうだが育児を離れて仕事に復帰したいタイミングでもあり、父の強引な説得に押し切られたかたちでしぶしぶ承諾した。それが四人暮らしのはじまりだった。でも、その関係は長くは続かなかった。

 わたしが小学五年生のとき、祖母は要介護となった。事故、だったのだと思う。母はやりがいを感じはじめていた仕事に未練たらたらで。でも、結局は仕方なく退職した。「だまされた」とわたしによくぼやいていた。しばらくは甲斐甲斐しく祖母の介護に専念していた母だったが、二年ほどで心身に支障をきたしはじめ、あるとき風のようにわたしたちの前から消えた。行き先はわからない。ときおり父の方に一方的な連絡があるらしいが、いくら聞いても詳しく話したがらないので、わたしももう聞かないようにしている。それからはずっと三人暮らしだ。


 そして今、祖母の面倒はわたしがみている。


「家族なんだから助け合わないと、な」とわたしを説き伏せた父は、毎日帰りが遅くてなんの頼りにもならなかった。三人分のご飯を毎日作らないといけない。それだけで眩暈がした。祖母の身体拭きも、排泄の世話も、洗濯も、掃除も、ゴミ出しでさえもわたしの日課になった。  

 黙々と晩御飯をかきこむ父の顔をみていると「そういう自分は何をしてるんだよ」と、喉から飛び出そうになるのをいつも堪えている。言ったところで不機嫌な言い訳を聞かされるだけだし、それ以上に、わたしたちの生活が歪だとは思いたくなかった。


「もう食べたくないわ。残してごめんね」

「いいよ」

 食事をすませた祖母が視線をそらし、顔を歪める。いつのまにこんなに小さくなったのだろうか。はつらつとしていた過去の姿を重ねて、いたたまれなくも申し訳ない気持ちになってしまう。祖母はきっと、これ以上良くならないんだろう。と思う。こんな生活がいったいいつまで、とも思うが、もちろん口には出せない。


 どんなに急いで家事を終えたとしても二階の自室に上がるころにはいつも夜九時を過ぎている。毎日がこの繰り返しだった。しかたがなくテスト勉強のため古典のノートを広げてみても、疲れが背中にのしかかってきてペンを持つ手に力が入らない。

 わたしは気分を変えてアイスグリーン色のイヤホンを耳にねじ込んだ。スマホ画面に整列したアーティスト名をスクロールし、君に決めた! とばかりに画面をタップする。祈りのような刹那の後に軽快なパーカッションのイントロが目の前に像を結んだ。おなかの底から力が湧き上がってきて、誰にも侵されない隔絶した世界が開けていく。


 坂の向こう側に見えた星

 掴みとってかざしてみる

 不安も 切なさも つないだ手で覆い隠した

 はしゃいだ君 追い越して

 目の前を僕だけにしてみたかったんだ

 Ah

 星間飛行 衝突する未来は 花火を散らして

 夜空を駆け抜けていく

 Staring, Staring 目を離さないで

 Smiling, Smiling 手を離さないで


 ” フィラメンツ ” 『軌跡』


 音楽を聴いている間だけわたしはわたしから解放された。狭い鳥かごの隙間から蛍光色の細い糸がのび、無機質な天井をすり抜ける。夜空を飛び回り、音が跳ね、はじけては心拍数をあげていく。柔らかなヴォーカルの声が、ギターの音色が胸の中で蝶を舞わせる。暗い夜いっぱいに花が咲いて、どこかここじゃない誰も私を知らない場所に連れて行ってくれるんだ。ほんともう、さいっこうだよ!!


 ピピピピ ピピピピ


 そんなわたしを現実に引き戻したのは、勉強道具といっしょに机の隅に置いていたワイヤレスコールだった。卵型のそれは光と音で、祖母から呼び出しがあることを機械的に告げている。鳴り止まないコール。わたしはカッとなって乱暴に掴み上げるとストップボタンを力いっぱい押してコールを止めた。

 数秒の間、ぼうぜんとしていた。父はまだ帰っていない。わたししかいない。言い含めると次第に冷静になって気持ちが現実に戻ってきた。重い腰がようやく持ち上がる。この世のすべてかとも思えた薄緑のイヤホンは卓上に放置され、静かに次の曲を流し始めていた。

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