第10話

「もう嫌ですの!」


 インテラル解放軍本陣の天幕から、涙ぐんだ叫び声が響き渡る。


「駄々をこねてはいけません大尉! あなたの発言が兵士たちの士気に関わるんですから!」

「うるさいわよブラヒム! そんなことを言うなら、あなたがあの地獄の罠地帯を攻略しなさいよ!」


 毛布をかぶって泣きじゃくっているガーメール大尉から、必死に毛布を引き剥がそうとしている背の高い女性。


 彼女は参謀のブラヒム。 ガーメール大尉を支え続けた女性参謀であり、大尉の頭脳とまで言われているブラヒムだが、今はこうしてイヤイヤをしているガーメール大尉を必死に説得する仕事に追われている。


「あの、ブラヒム様もガーメール大尉も一度落ち着かれてはどうです?」


 テントの端で、気まずそうな顔をしながら声を掛ける気弱な少女。


 彼女は斥候のデルカル。 いつも怯えているように挙動不審なのだが、魔法の腕前はピカイチで、ガーメール大尉から全幅の信頼を得ている。


 デルカルの意見を聞いたブラヒムは、大きなため息をつきながらずれたメガネを元の位置に戻した。 レンズの奥で光る紅の瞳には疲労の色が滲んでいた。


「まったく、攻略し始めてから一ヶ月が経っていると言うのに、あの迷宮は日を増すごとに恐ろしくなっていく。 一体いつメンテナンスしているのやら」


 ブラヒムはテントの中央に置かれていたテーブルへ歩み寄ると、デルカルも彼女の横へ移動する。 嗚咽を漏らしながら毛布をかぶり直してしまったガーメール大尉を横目に、二人は顎をさすりながらこの無慈悲な悪魔が作った罠地帯を攻略する道筋を考案する。


「まずはこのぬるぬる坂ですね」

「この坂が一番体力的に厳しいです」


 ブラヒムの言葉に有無を言わさず頷くデルカル。


 ぬるぬる坂とは、メルファ鉱山までの道のりの最初に通過する難関である。


 長さ百メーター弱、傾斜20%のいわゆる激坂にぬるぬるの液体が充満しており、一歩足を踏み入れるだけですってんころりんと転んでしまう。


 このぬるぬる坂に初めて足を踏み入れたガーメール大尉は、たった一歩でとぅるっと滑り、顔面をビターンっと地面に叩きつけるというトラウマを作り出してしまった。


 このぬるぬる坂の攻略には五日もの日数を費やした。


 炎の魔法をうまく使って空を飛ぼうとしたガーメール大尉は空飛ぶ魔物に連れ去られ、救出するために魔物の巣を殲滅するハメになった。


 ならば空を飛ぶのではなくジャンプして行こうと言ったガーメール大尉は、足元で炎魔法を爆発させて一気に三十メーター近くの飛距離を横っ飛びしたのだが、それを予測していたかのように激坂の上空には透明な板が貼られていた。


 蛙のような不恰好なガニ股で透明な板に叩きつけられたガーメール大尉はそのままの姿で落下し、ガニ股の体勢のままスルスルと坂を降ってくる光景をが出来上がってしまう。


 シュールな光景を前に、兵士たちは笑いを堪えるのが大変だった。

 結局ブラヒムが考案した対策はこうだった。


「床がダメなら壁を使いましょう!」


 そこからは地道な作業だった。 傾斜20%の激坂を登るために、自然が作り出したであろう岩壁に槍を刺していく。 転ばないように壁に槍を思い切り突き立て、それを支えにして登りながらもう一本の槍を壁に突き立てる。 百メーター近い激坂を攻略するために使った槍の本数は百二十本強。 一メーターを槍一本で通ることすら難しいほどのぬるぬる加減だった。


 運動神経が悪い魔族たちは、このぬるぬる坂を攻略するために何人もの兵士が筋肉痛に泣かされた。


 もはやこのぬるぬる坂攻略に携わった兵士たちの腕力は人族に遅れを取らないほどに鍛えられたことであろう。


「ぬるぬる坂に兵士たちの体力が大幅に削られるせいで、その後の攻略に支障が出てしまっています」

「しかも不思議なことに、朝起きると突き立てた槍が全て引っこ抜かれているときた」

「あれを始めに見た時は、ため息しか出せませんでした。 引っこ抜かれただけならどうにかなっていたと言うのに、まさかあそこまでするとは……血も涙もない連中です」


 罠だらけの地獄の迷宮を攻略する際、インテラル解放軍の兵士たちが迷宮に施すありとあらゆる工作は、次の日の朝を迎えると綺麗さっぱり排除されているのだ。


 この仕組みはいまだに解明されていない。 その上とても厄介な事に、工作を排除されるだけでなく対策を練られるのだ。


「岩壁が一面鉄で覆われてしまったからな。 あれを初めて見た大尉は、兵士の目を機にもせず、わんわん泣いてしまわれていた」


 そう、メルファ鉱山に住まうのは血も涙もない悪魔たちなのだ。 突き立てられていた槍を抜くだけではなく、たった一夜のうちに道を整備し、ぬるぬる坂を薄い鉄壁で囲ってしまったのだ。


 こうしてインテラル解放軍は、絶望的な表情で再度ぬるぬる坂の対策に追われた。 試練はまだ始まったばかりだと言うのに、もはや葬式のようなテンションで頭脳派魔族たちが作戦会議に追われたのだ。


「しかしぬるぬる坂の攻略には五日しか使いませんでした。 体力的には厳しいですが、これはまだ優しい方でしょう」

「そうですね、ぬるぬる坂の次に待ち受けるのは……考えるだけでも恐ろしい」


 ぬるぬる坂の対策としては、鉄で覆われてしまった壁に吸盤をつけ、地道に登っていく作戦だった。 一人転べば後ろにいた兵士たちは全てぬるぬるの餌食になるという緊迫した状況を、吸盤でペタペタしながら登っていく。 緊張感だけでなく腕力まで悲鳴を上げてしまうだろう。


 何人もの兵士が吸盤でペタペタしながら壁をよじ登るのは非常な間抜けな光景だが、これが最も合理的かつ対策をされない方法だった。 なぜならペタペタした痕跡が鉄の壁に残らないのだから。


 こうしてインテラル解放軍は、二つ目の試練に取り掛かる。


「ぬるぬる坂の次に待ち受けるのは、脅威の踏爆地帯」

「どこを踏んだら正解なのかわからない危険極まりない地帯です。 あそこで一体何人の怪我人を出したことか……」


 約百メートルのぬるぬる坂を超えると、傾斜の緩い百五十メートルほどの緩い坂が続くのだが、ここでインテラル解放軍は無数の怪我人を出してしまっている。


 踏爆———その名の通り、踏んだら爆発する危険な爆弾が床一面に埋め込まれているのだ。


「幸い、死者は出ませんでしたが……最初に何の躊躇もなく駆け出した大尉が目の前で爆発する踏爆を見た時のあの青ざめた顔、忘れることもできません」


 ぬるぬる坂でイライラしていたガーメール大尉は初め、何の細工もされていないと勘違いして踏爆地帯を駆け抜けようとした。 慌てて彼女の襟首を引っ張ったブラヒムのおかげで踏み出した足はすぐさま引くことができた、そのおかげでガーメール大尉は一命を取り留める。


 次の瞬間驚くべきことに、ガーメール大尉が足を踏み出そうとした地面が爆発してしまったのだ。 ブラヒムが止めていなければ足が無くなっていたかもしれない。


 初めてその光景を目の当たりにしたガーメール大尉はプルプル震えながらブラヒムにしがみつき、爆発して抉れてしまった地面を眺めることしかできなかった。


「対策は簡単でしたが、あそこでは神経を削られます」

「ええ、一番死と隣り合わせになるのがあの踏爆地帯ですからね。 踏爆だけならまだしも、剣山が敷き詰められた落とし穴や、底がビリビリ沼になっている落とし穴も混ざってます。 あんなおぞましい罠を考えた者は、おそらく悪魔以外にいないでしょう」


 そう、この地帯は確実に命を狙いにきていると思ってしまうほどに危険な地帯なのだ。


 踏んだら爆発する踏爆や、落ちたら串刺しになってしまう剣山の落とし穴。 他にも水の中に雷石が敷き詰められた感電沼。 どれもひっかっかってしまったら命を奪われかねない危険な罠。


「それが朝起きるたびに配置を変えているんですから、二日目の攻略では大怪我をする兵士が後を絶ちませんでしたよね」


 インテラル解放軍はわざわざ地図を作り、慎重に危険地帯を進みながら罠がある場所を地図に記載していった。


 罠を特定する方法は少し大きめの石を自分の前に転がしていき、石が落ちたりカチッと言う音がしたら全力で逃げるという地道な作業。 たった百五十メートルを進むのにかかった時間は三時間以上。 全員の精神がズタズタに削られるのだ。


 こうして攻略一日目で罠の場所を詳しく記載した地図を作ったと言うのに、次の日に踏爆地帯に行ってみれば、ボロボロだった道は綺麗に整地され、さらに罠の場所まで全てランダムに変わっていたのだ。


「一体、どうやってあんな芸当をしているのやら……」


 頭を抱えながら地図を眺めるブラヒム。 何もインテラル解放軍は馬鹿ではない。 原因を解明しようと夜中の内にも各エリアに見張りをつけていたのだ。 しかし日が登ってみれば、見張りは全てぐっすりと眠らされてしまっている。


 寝落ちしていた兵士たちを、ガーメール大尉はひどく叱っていたが……何日経っても兵士たちのうたた寝は改善されなかった。


 痺れを切らしたガーメール大尉が自ら見張りに名乗りを挙げたのだが、翌日の朝一番に様子を見に行ったブラヒムは、幸せそうな顔で「もう食べられませんわ?」などと寝言を言っているガーメール大尉を目撃することとなり、頬をひくつかせながらビンタして起こすことしかできなかった。


「その謎ならわたくしが解きましたわ」


 突然毛布の中から声をかけてくるガーメール大尉に、ブラヒムとデルカルは同時に視線を送る。


「と、言いますと?」

「おそらく第三エリアに生息している永眠蝶。 あの悪魔たちは、永眠蝶が放出した胞子を使って見張りを寝かせてから仕事に取り掛かっているのでしょう。 移動方法は相変わらず分かりませんが……」

「な、なるほど。 それなら見張りの兵士たちが必ず寝落ちしていると言うのにも納得がいきます」


 感心したように顎を撫でるブラヒム。 しかし斥候のデルカルは、ガーメール大尉の発言を聞いてから眉を歪め始める。


「その移動方法さえわかれば、我々も地獄の罠地帯を渡ることなく、安全にメルファ鉱山の中に行けるのではないでしょうか?」


 恐る恐る口にしたデルカルに、毛布でくるまっていたガーメール大尉が毛布を投げ捨て、飛ぶように接近していく。 ガーメール大尉の行動に驚いていてデルカル自身は気が付かなかったが、視界の外からブラヒムも急接近していたようだ。


 鼻がつきそうなほどの距離で顔を近づけてくる二人から、デルカルは涙目で距離を取った。


「あ、あの……お二人とも近いです」

「あなたは天才ですの!」

「お手柄ですよデルカル! 今すぐ永眠蝶の対策を練りましょう!」

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