愛の果て

 そして、その日からパトリシアは変わった。寸暇を惜しんで台本の読み込みをしたり、自分が出演していない映画や舞台等を観に行って勉強したりもした。いつの間にか、スタッフの間でこんな言葉が囁かれるようになった。

「最近、パトリシアが撮影の合間に台本を読み込んでる姿をよく見かけるんだけど」

「パトリシアって、あんなに努力する人だったっけ」

「正直なところ、始めは生意気な女優だと思ってたけど、今努力してる姿を見ると、パトリシアを応援したいと思うようになったよ」

 『正義の証』のクランクインから数か月経ち、ようやく撮影が最終日を迎えた。クライマックスといえるシーンの撮影が始まる。今ではもう、ジェニファーの方がパトリシアの存在感に圧倒されていた。もともとパトリシアは華のある女優だったので、ジェニファーが演技力に磨きがかかった今のパトリシアに圧倒されるのも当然だった。

 撮影がクランクアップし、撮影スタッフから歓声と拍手が沸き起こる。

「お疲れ様。やっと撮影が終わったわね」

「ありがとう、ルイーザ」

パトリシアは、ルイーザから渡されたいつものオレンジジュースを一気に飲み干した。

「ミス・ロング」

 声をかけてきたのはジェニファーだった。

「お疲れ様でした。撮影、楽しかったです。あなたの演技、とても勉強になった。私ももっと頑張らないと。今度また共演できるといいですね」

そう言って、ジェニファーは右手を差し出した。

「私が頑張ろうと思えたのはあなたの素晴らしい演技を見たからよ。私も、またあなたと共演したいと思ってるわ」

 パトリシアはジェニファーの手をしっかりと握り、握手をした。

「ジェニファー、そろそろ行こう」

 きっちりとスーツを着た黒髪の男性がジェニファーを呼んだ。眼鏡を掛けた彼は、ジェニファーの付き人で、確か名前はマイクといった。

「ええ、すぐ行くわ。……また会える日を楽しみにしています。さようなら、ミス・ロング」

「パトリシアでいいわ。さようなら、ジェニファー」

 そうしてジェニファーは帰って行った。その後しばらく、彼女がつけている柑橘系の香水の香りが残っていた。


 公開された『正義の証』は、大ヒットとなった。そして、それをきっかけにジェニファーの名前はパトリシアと同じくらい売れ、仕事のオファーも大幅に増えた。パトリシアも負けてはいない。演技力に磨きがかかったことで、新たなファンを獲得し、ますます人気になった。そして『正義の証』が公開されて三年が経つ頃には、二人はトップ女優といえるほどの地位になっていた。『正義の証』以来二人は共演していなかったが、二人の内どちらかが映画に出演するたびに、雑誌や新聞等のメディアは二人を比べた。


 そんなある日、自宅にいたパトリシアの元に電話がきた。

「……え、監督が倒れた……?」

 パトリシアは、ルイーザと共に急いで病院へ駆けつけた。『正義の証』も手掛けたジョージ・ハミルトン監督は、十代の後半、女優として伸び悩んでいたパトリシアを映画の主役に抜擢してくれた恩人だった。その監督が脳梗塞で倒れたとの知らせだった。病院に駆け付けた日は面会できなかったが、数日後監督に面会できることになった。

 ルイーザと共に、監督がいる病室に入ると、そこにはジェニファーと付き人のマイクもいた。

「おお、君も来たか」

 監督がにこやかに声を掛けてくれた。少し活舌が悪いようだが、思ったより元気そうだ。話を聞くと、病院に運ばれるのが早かった為、命に別条はなかったらしい。退院後も、右手・右足に少し麻痺が残るかもしれないが、リハビリすれば日常生活に支障はないだろうとのことだった。

しばらく五人で雑談した後、おもむろに監督が話を切り出した。

「実は、退院して最初に撮る映画には、君たちのうちどちらかをヒロインにしようと思っているんだよ」

監督以外の四人が目を丸くした。

「君達は二人共素晴らしい女優だし、どちらも起用したいんだが、映画の内容を考えると、ヒロインを一人にするしかないんだよ」

 監督が今度撮ろうとしている映画は、『愛の果て』というタイトルで、第二次世界大戦下でいろんな障害に阻まれながら愛し合う恋人同士のストーリーらしい。

「まだ君達の内どちらをヒロインにするか決めていないが、退院してリハビリが一段落したら、すぐキャストを発表して撮影に入るつもりだ。頑張ってくれよ」

監督のその言葉を最後に、四人は病室を出た。

「ジェニファー、ヒロインに選ばれるようにお互い頑張り……」

 パトリシアは病室を出てすぐジェニファーに声をかけたが、ジェニファーはパトリシアを険しい顔つきで見ると、無言でその場を立ち去って行った。

「ジェニファー……?」

「ごめんよ、パトリシア」

マイクが慌ててフォローに入る。

「実は、ジェニファーの母親が昔重い病気にかかってね、今も入院中なんだ。最近国外の病院で手術できることになったんだが、渡航費用等も含めて手術には多額の費用が必要でね。ジェニファーは今でこそトップクラスの女優だけど、昔は入院費用を稼ぐのも大変で、借金もしている。今は完済しているけど、今手術費用を出せるかどうか微妙なところなんだ。ハミルトン監督の映画ならヒット間違いなしだろうし、今のジェニファーなら高額のギャラが期待できる。どうしても『愛の果て』の仕事が欲しいだろうね。だからライバルである君への態度がどうしても……ね」

「そうだったの……」

 三人は、病院の廊下を歩き始めた。パトリシアは、ジェニファーの気持ちが少しわかるような気がした。パトリシアの母親は、パトリシアが十七歳のときに亡くなっていた。


 パトリシアの母親は幼い頃から女優になる夢を持ち、十五歳のとき劇団に入り演技の勉強をしていたが、才能に恵まれず女優への道を断念した。その後、食品メーカーで働き始め、職場で出会った男性と二十五歳のときに結婚し、その一年後にパトリシアを出産した。

 パトリシアが四歳になると、パトリシアの母親は、自分が果たせなかった夢を託すように、パトリシアを芸能事務所に入れ、演技の勉強をさせた。まだ幼く、演技より友達と遊ぶ事に魅力を感じていたパトリシアが、演技のレッスンに行くのを泣いて嫌がったときもあった。思春期になり、恋人ができたパトリシアが、スキャンダルを気にしてデートが出来ないくらいなら、女優をやめたいと言ったときもあった。しかし、パトリシアがどんなに泣いても、反抗しても、母親は、強引にパトリシアを演技のレッスンに連れて行ったり、恋人と別れさせたりした。

 パトリシアは、自分の夢を子供に押しつけた母親を恨んでいた。そして、パトリシアが十七歳のとき、母親が不治の病に罹ったことが発覚した。

 病が発覚した一年後、母親は病院のベッドから起き上がれない状態になっていた。当時、女優として伸び悩んでいて、仕事があまりなかったパトリシアは、母親の最期を看取るべく母親の側にいた。既に意識が朦朧としていた母親は、パトリシアの顔を見ると、最後の力を振り絞って言葉を発した。

「……今まで、ごめんなさい……。」

 その目には、一筋の涙が流れていた。

 その瞬間、パトリシアの脳裏に、幼い頃からの記憶が次々と蘇った。子役だった頃、風邪で高熱を出した時、寝ずに看病してくれた母親。誕生日の時、パトリシアの食べたい料理を、レシピ本を見ながら一生懸命作ってくれた母親。パトリシアが望む愛し方ではなかったかもしれないが、母親は確かにパトリシアを愛していた。

 母親は、パトリシアへの謝罪の言葉を口にしたその日に息を引き取った。

 パトリシアは、母親に反発ばかりしてきた事を激しく後悔した。毎日、もう母親のいない自宅で泣き暮らした。仕事をする気にもなれず、数少ない仕事のオファーが来ても、断っていた。

 そんな時にパトリシアの自宅に電話をかけてくれたのがハミルトン監督だった。パトリシアが子役だったとき、何度かハミルトン監督の映画に出演した事があり、監督はパトリシアの才能を高く評価してくれていた。パトリシアが自宅に引きこもっている事を知った監督は、パトリシアにもう一度女優として輝いて欲しいと思い、映画の出演を直々にオファーしてきたのだ。

 監督は、「母親もパトリシアの活躍を望んでいる」「君の才能がこのまま埋もれてしまうのはもったいない」等、色々な言葉で一生懸命パトリシアを説得してくれた。そんな監督の情熱が伝わり、パトリシアは再び女優として活躍することになる。

 女優として再び歩み始めてから改めて気付いたが、子役のときパトリシアに仕事のオファーがたくさん来たのは、本人の才能もさる事ながら、母親がドラマ制作の関係者や映画関係者に懸命にパトリシアを売り込んでいた事も大きかった。パトリシアは、二十代になった今でも母親に感謝してるし、もっと長く生きて欲しかったと思っている。


「私……」

 廊下を歩いていたパトリシアが急に足を止めた。ルイーザとマイクが振り返る。

「決めたわ。もし私が『愛の果て』のヒロインに選ばれたら……」

廊下の窓を静かに風が通り抜けた。パトリシアが亡くなる十カ月前の事だった。

 その後、大きなパーティーや映画関係の賞の授賞式でパトリシアとジェニファーが顔を合わせることはあったが、ジェニファーがパトリシアに話しかけることはなかった。ジェニファーに冷たい態度をとられると、パトリシアとしても成す術が無いわけで、いつしか二人の仲は険悪なものとなっていった。

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