レイと最後の手紙

ミクラ レイコ

現世と天国の間で

 パトリシアは、気がつくと見たこともない場所を彷徨っていた。周りを見渡すと、上には澄み切った青空、下には大理石でできたような白い地面がどこまでも続いていた。人や建物はもちろん、樹木や雑草のようなものさえどこにも見当たらなかった。

 困惑しながらも、カツンカツンとハイヒールの音を響かせながら歩いていく。しばらく歩いて行くと、遠くに人影が見えた。ここがどこなのか、今どういう状況なのかわかるかもしれない。自然と早足になる。

 やっと顔がわかるまでに近づいた。そこに立っていたのは、長い黒髪の少女だった。東洋人だろうか。顔にまだ幼さが残っていて、年齢は十代後半に見える。


「こんにちは。」

 少女がパトリシアに声をかける。

「……こんにちは。ねえ、ここ……どこなの?あなたは誰?あ、私のこと知ってる?自分では、結構有名な女優だと思うんだけど」

「……申し訳ございません、あなたの事は存じ上げておりません。生前の事なら、この鏡を見れば少しはわかるんだけど……」

 そう言って、少女は傍らにある白い円卓の方をちらりと見た。円卓の側には、大きくて丸い鏡が立てて置いてある。

「そう……。え、ちょっと待って!生前って……」

「覚えていらっしゃいませんか?あなたはもう、亡くなったのです。ここはそうですね……現世と天国の間といったところでしょうか。私の名前はレイ。亡くなった人の思いを手紙にして現世の人に伝える仕事をしています」

 衝撃を受けると共に、パトリシアの脳裏に、昨日の事が走馬灯のように駆け巡った。

 そうだ、私は昨日の夜、劇場から帰るとき、階段から突き落とされて……。あの時、私は死んだっていうの…?

「私に仕事を依頼なさいますか?」

 少し考えて、パトリシアは答えた。

「……ええ、お願いするわ」

「では、早速ですが、手紙を作る参考にさせて頂く為に、あなたのこれまでの人生や亡くなるまでの経緯を少し拝見させて頂きます」

 レイが鏡の縁に手をかけると、どこからかバサバサという音がした。よく見ると、円卓の上にあるのは鏡だけではなかった。銀色の鳥籠があり、鳥籠の中には、鮮やかな黄緑色のオウムらしき鳥が一匹。先ほどの音はオウムが動いた音だろう。

 視線をオウムから鏡に戻すと、鏡に映った映像がぐにゃりと歪み始めた。鏡に映り始めた見慣れた風景を見ながら、パトリシアは少し唇を噛んだ。

レイは今、亡くなった人の思いを伝えると言った。それなら、恨みを手紙にして送りつけてやる。後ろから突き落とされたから犯人の姿は見ていないけれど、犯人はあの女に決まっている。私のライバルだったあの女に……。


「ジェニファー・グレイ?」

 パトリシアは、パスタを口に運ぶ手を止めた。

「そう。今度の映画であなたのライバル役を演じる女優よ。あなたと同じ二十歳。まだあなたほど名前が売れてるわけじゃないけど、業界じゃ演技力を高く評価されてるわ。今度の映画の監督はあのジョージ・ハミルトンだし、いい演技をすれば、彼女、一気に知名度を上げると思う。負けないように頑張ってね」

 マネージャーのルイーザが、少し緊張した面持ちで話す。彼女はふわふわの茶色い髪に丸い眼鏡がチャームポイントだ。

「そんなに心配しなくても大丈夫よー。私だって、四歳の時からテレビドラマや映画に出てるのよ。十六年演技の経験があるのよ。そこらへんの若手の女優には負けないわよ」

 パトリシアは、笑顔でパスタを口に頬張った。

 今度パトリシアが出演するのは『正義の証』というタイトルの映画で、女性弁護士が社会の巨悪に立ち向かう物語だ。主役の弁護士、アリスを演じるのがパトリシアで、アリスのライバルとなる弁護士、ナオミを演じるのが無名の女優、ジェニファー・グレイ。監督のジョージ・ハミルトンは、数多くハリウッドの映画を手掛けている大物監督で、いくつもの賞を取っている。

「あ、もうすぐ次の仕事の時間よ。早く出ましょう」

ルイーザの言葉を合図に、パトリシアはルイーザと共にレストランを出た。パトリシアが亡くなる五年前のことだった。


 レストランで初めてジェニファー・グレイの名を聞いてから一カ月後、『正義の証』がクランクインした。初めてアリスがナオミと出会うニューヨーク市警での場面の撮影から始まる。

「おはよう、パトリシア」

「今日も綺麗ね」

 ニューヨーク市警内を忠実に再現したスタジオに入ったパトリシアに、撮影スタッフが次々と優しい声をかける。スタッフに笑顔を向けた後、パトリシアは傍らにいるルイーザの方を向いた。

「ねえ、ルイーザ、後でいつものオレンジジュース買ってきて」

「また?あなたって、ほんとあのオレンジジュース好きよねえ」

「だって、おいし……」

 言いかけた瞬間、パトリシアは背後に人の気配を感じた。

「おはようございます」

 振り向くと、一人の女性がパトリシアに微笑みかけていた。黒く長い髪をアップにしていて、耳のあたりに少しだけ垂らした部分が綺麗に揺れている。きりっとした目に、まっすぐ伸びた鼻筋に、チェリーのように赤い唇。パトリシアも、綺麗なブロンドの髪や、子供のようなかわいい顔立ちで多くの男性ファンを虜にしてきたが、黒髪の彼女はまた違ったタイプの美人といえた。ほのかに香る柑橘系の香水も彼女に似合っているように思えた。

「……おはよう、あなたは……」

「初めまして、ミス・ロング。ナオミ役のジェニファー・グレイです。お会いできて光栄だわ」

 この人がジェニファー・グレイ……すごく綺麗……。ううん、大丈夫。私には十六年のキャリアがある、絶対負けない。

少しの不安はあったものの、演技のキャリアという武器を手に、パトリシアは撮影に臨んだ。しかし、いざ撮影が始まると、その武器さえも、何の威力もないものに思えた。

ジェニファーの演技はとにかく凄かった。怒る演技、泣く演技、法廷で淡々と被告人を弁護する演技、全てに迫力があった。迫力があるといっても、その演技は決しておおげさではなく、リアルさも感じさせた。映画を見た観客は、本当にナオミをライバル視してしまうだろう。


 そして、この日の撮影が終わった。他のスタッフがどう思っているかはわからないが、パトリシアの中では、今日の演技はパトリシアの完敗だった。

「お疲れ様、パトリシア。はい、これ」

 ルイーザがパトリシアに近づき、オレンジジュースを渡す。パトリシアはジュースを受け取り、無言で飲み干す。

「これからどうする?いつもの所に飲みに行く?」

「……家に帰るわ。もっと台本を読み込まなくちゃ……」

 ルイーザは目を丸くした。パトリシアはどちらかというと怠けたがるタイプで、昔からよく演技のレッスンをさぼったりしていた。今まで女優としてやってこれたのは、元々記憶力が良く、セリフをすぐ覚えるし、演技の才能もあってのことだった。そのパトリシアがもっと台本を読み込もうとするなんて……。やはり今回の撮影でジェニファーの演技力を見せつけられたことがそうとうこたえたのだろう。

「……そう、わかったわ。家まで送るから待ってて。車を回してくるわ」

「ええ、ありがとう」

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