柑橘系の香り

 そしてジェニファーと話す機会もないまま時は過ぎ、ついにその日が来た。その日の夜、パトリシアは舞台の仕事を終え、ルイーザと共に楽屋に戻った。

「お疲れ様、パトリシア」

「監督、いらしてたんですか!?」

 監督は退院してリハビリをしていると聞いていた。

「リハビリが順調に進んでいてね、今ではこの通りさ」

 監督は、その場で軽く体操のような動きをして見せた。パトリシアとルイーザは、顔を見合わせて笑った。

「お元気そうで安心しました」

「ありがとう。それでは、早速だが本題に入ろう。以前病院で話した『愛の果て』のことだが、リハビリも順調だし、制作発表をして、近い内に具体的な撮影の準備もしようと思っている。それで、キャスティングの事なんだが……」

 とたんに、パトリシアとルイーザの体に緊張が走る。

「ヒロインは、パトリシア、君でいこうと思う」

 一瞬、沈黙の時間が流れた。

「あ……ありがとうございます、監督!」

 嬉しかった。パトリシアは改めて、自分がこの十ヶ月間、どれだけ不安を抱え、どれだけ演じたいという情熱を持っていたかという事に気づいた。

「あの、監督、どうして私を選んでくださったんですか……?」

 監督は、白くなった口髭を手で撫でながら、笑って答えた。

「『正義の証』以前の君だったら、もしかしたら起用しなかったかもしれない。しかし、君は『正義の証』以降、以前にも増して努力し、結果を出した。私は、今の君に期待しているんだ。……これは『愛の果て』の台本だ。まだまだ台本にも変更点が出てくるかもしれないが、頑張ってくれ」

「はい……!」

 パトリシアは、監督から差し出された台本をしっかりと掴んだ。

 監督が帰った後、楽屋に二人きりとなったパトリシアとルイーザは、お互い顔を見合わせた。

「やったわね、パトリシア!」

「ありがとう。……本当に嬉しい……」

「今日はお祝いしなくちゃね。車を回してくるから劇場の裏口で待ってて」

「わかったわ」

 ルイーザが車をまわす為に楽屋を出て、楽屋にはパトリシア一人になった。本当はルイーザが呼びに来るまで楽屋にいた方が良いのだが、パトリシアはせっかちで、こういう場合、いつもルイーザが呼びに来る前に建物の入り口や裏口に行ってしまう。


 今回も、ルイーザが呼びに来る前に、パトリシアは劇場の三階にある楽屋を離れ、一人で劇場の裏口へと続く外階段を下りて行った。そして、鼻歌を歌いながら階段を降り、踊り場に来たときだった。

「あっ……!!」

 急に背中をドンと押され、パトリシアは大きな音を立てながら階段を転げ落ちていった。

 一瞬、自分の身に何が起こったのか分からなかった。全身に痛みが走る。やがて、パトリシアの体は階段の下で動かなくなった。

 パトリシアを突き落とした人物は、階段の下に倒れ込んだパトリシアを確認し、カツンカツンと靴の音を立ててパトリシアに近づく。パトリシアの側には、突き落とされた拍子にパトリシアのバッグから散らばった物が多数落ちていた。

 その中には、ハミルトン監督からもらった『愛の果て』の台本もあった。パトリシアのすぐ右側に立った犯人がその台本を手に取ろうとした瞬間、パトリシアは少しだけ目を開けた。犯人の左手しか見えなかったが、薄れゆく意識の中、最後の力を振り絞り、犯人の着ているジャケットの袖のボタンをむしり取った。犯人が、慌ててボタンを取り返そうとする。パトリシアは、犯人に取られまいと、しっかりとボタンを握りしめた。

「きゃああっ、パトリシア!!」

 ルイーザの声が遠くに聞こえる。犯人は急いで逃げていく。意識が完全になくなる直前、パトリシアはかすかに香水の香りを嗅いだ。柑橘系の香水だった。

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