解放

 もう魂の指図は受けない。私は私であることを捨てて、ついにこの世界の座標から解放される。


 私は幽霊よりも自由だ。この世に何の恨みもなく、成仏を望むこともない。消え去りたいという欲望からも自由な私だ。消えても消えなくても私には関係ない。


 私は愛のようにあまねくゆきわたる。誰も愛さず、誰からも愛されない。だから愛にもっとも近い。私を神と呼ぶ者もいるが、むしろ路傍の土塊によく似ている。路傍の土塊は愛によく似ている。


 電子音がかすかに聞こえる。私は何に気づけばいいのか。眠りはすでに死に近づき、すべての感覚が麻痺している。音は私の内部から響いているのか。内部とは何のことか。それは工場かもしれないし、金魚鉢の中かもしれない。切れ目のない音が鳴りつづけ、鳴っていることさえも何度も忘れる。


 ここに誰かの疲労が打ち捨てられている。遠くから見ると打ち上げられた海藻のようだ。私のではない、誰かの疲労。私はそれを踏みにじる。それは中年男のあくびのような醜い鳴き声を上げる。それは私が私だったころの疲労かもしれない。


 私は記憶をかき集める。しかし手がかりは何もない。何の手がかりを求めているのかもわからないまま、他人事のように記憶を集めてゆく。すべて忘れてしまっても構わない。私はもう私ではないのだから。


 私の恋人という人が記憶の中の玄関で待っている。これから出かけるところなのか、帰ってきたところなのか。記憶の縁のようなところで恋人は待ちつづける。私にはもう何の愛情もないというのに。ちぎり捨てた記憶たちが足元に積もってゆく。記憶は意味をなくし、もはや量でしかない。皮膚をくすぐる量の感触は、快でもないし不快でもない。


 私は私の死を願わず、生も願わない。気まぐれに美術館を訪れた観光客のように、いつの間にかいなくなっている。何の物語も持たないただの数字となって、その日の来訪客数に加算される。

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