あの時の葉を今も持っている。すっかり水気が抜け、青々とした色も飛んでしまった。押し花のように処理したわけでないから、しわくちゃに形が崩れ、ほとんどゴミと変わらない。もう葉としての役割を終えているのに、私のせいで、葉は葉として終わることができない。


 さっき、砂時計を割ってしまった。ずいぶん前に買ったもので、毎朝、小説を書くときに作業の区切りとして使っていた。スマホのタイマーを使わないのは、作業の中にアナログを組み込みたかったからだ。とはいえ小説はポメラで書いてきたのだから、デジタルに対する無駄な抵抗でしかないと自覚はあった。


 ポメラをやめて原稿用紙に手書きで執筆しようと不意に思いついた。それで、すでに十五分を計り始めていた砂時計をいったん止めようとひっくり返すとき、テーブルにぶつけてしまった。ガラスの膨らんだ部分が割れ、時間のように砂が少しずつこぼれ落ちていった。アナログを求めて、かえってアナログを失ったわけだ。新しい砂時計を買うつもりはない。全てをアナログに揃えようという発想自体が、すでにデジタルだったと思う。


 あの時の葉を捨てられないのも、私のデジタルなこだわりだろうか。こんなものを心の支えにして、日々を生き延びている。葉をくれた人とあの時のことを話すことはもうない。あの人はあの人でさっさと先に進んでしまったから。私だけがまだあれから一歩も進めないでいる。


 呼吸はアナログだろうか? デジタルだろうか? 吐く息をゼロとし、吸う息をイチとすればデジタルだが、吐く息と吸う息が曖昧に溶け合う瞬間は確かにある。ゼロでもない、イチでもない、あるいはゼロでもあり、イチでもある。そんな、無限の禅問答のような時間。


 葉はアナログだ。しかし葉を捨てられない私の心はデジタルだ。捨てる・捨てないの二択だけがあって、「捨てない」を常に選択してきた。オフにできない壊れたスイッチのように。


 あの人の写真は一枚も持っていない。何年か前に全て捨ててしまった。葉っぱ一枚だけが思い出の品として残った。


 葉をくれた時のあの人の手の温もりはとっくに宇宙に散ってしまった。そして、あの人の笑顔も。ずいぶん眩しかったことだけは覚えているのだが。古い太陽の光のように、今は遠い宇宙空間に限りなく薄まり拡散していくだけだ。


 葉は日々老いていく。毎日眺めていると気づかないが、しばらくぶりに見るとその変化に驚く。老いはアナログだ。あの人も年を取り、疲れた笑顔を浮かべるのだろうか。もう二度と会えないと分かっていながら、数十年ぶりに再会する日のことをいつもどこかで待ち望んでいる。


 あの人のいない世界を生きている。何度もそう思おうとした。そして、それは私の決意に過ぎないといつも思い知らされた。あの人はいないし、あの人はいる。世界はそんな、無限に折り畳まれたあり方をしている。私もまた老いる。その老いは私のものであり、あの人のものでもある。

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