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まゆねは一年生のときに交通事故で死んだ。
雨の日のことだ。まゆねはあのとき雨ガッパを着て長靴も履いていたと思う。傘は差してなかった。どうして傘を差さないの? と訊くと、まゆねは黙って首をふった。無口な子だった。でもそのかすかな表情を見れば、かすかな気持ちがささやくように伝わってきた。
車に引きずられたりしなかったので、まゆねの遺体は思ったよりきれいだった。頭を強く打ったと聞いていた。でも、言われなければ気づかないくらい傷は目立たなかった。だから最初にまゆねの遺体と対面したとき僕が思ったのは、どうしてもっと暖かい部屋を用意してくれなかったのかということだった。そこは霊安室で、生きている者には少々寒すぎた。それに窓もない。しかしそこは死者のための部屋だった。
まゆねが目を覚ますまで何をして時間をつぶそう、と僕はぼんやり考えていた。そして、自分が馬鹿なことを考えていることに気づいた。現実ときちんと向き合わなければ。 でも、現実とはなんだろう。今日が昨日のつづきなら、そこにつづいているものが現実だ。でも、もし今日と昨日が断ち切られ、ばらばらになってしまったら? どちらが現実でどちらが夢なのか、誰にもわからない。
まゆねは二年生になった。体をなくし、骨は霊園のお墓の下で眠っているとしても、まゆねは確かにそばにいて、僕と一緒に暮らしていた。二年生になっても背は伸びなかった。自分より背の低かった同級生たちに追い抜かれたことを、まゆねは気にしているようだった。無口な子だが、気持ちは伝わる。僕はまゆねの頭にぽんと手を置いて、言った。
「じきにすぐ大きくなるさ。小学生のときはクラス一番のチビだったのに、中学になると急に巨人になった友だちがいるよ」
まゆねは嫌そうな顔をした。
「ああ、巨人なんかにならないでいい。まゆねは女の子だから。きっと誰よりも美しい女の子になるよ」
まゆねは黙っていた。僕は小さなまゆねを抱きしめて、柔らかい髪をやさしくなでた。
しかしまゆねはそれからもずっと大きくならなかった。小学校を卒業して、中学生になっても、小学一年生のころと背丈は少しも変わらなかった。
高校生になってもまゆねの身長は伸びず、相変わらず無口だった。そしてその感情は以前ほどわかりやすくはなくなっていた。「うれしい」「いやだ」といった単純な感情ではなく、もっと複雑な、数行から数段落の文章のような感情だ。そしてその文章は比喩と複文が多用され、詩か哲学のように謎めいていて、解釈をひとつに定めることは不可能だった。
ある日、まゆねとだいぶ込み入った会話をした。もちろん実際にしゃべるのは僕だけだ。でも、まゆねが何を言いたいのか想像すれば、会話のようなものを成り立たせることはできた。
「わたしはもう終わりにしたい」
何度も聞き返したが、まゆねは確かにそういうことを言おうとしているようだった。僕は慎重に言葉を選んで訊いた。
「何かを終わらせたいと、思ってるの?」
まゆねはうなずいた。
「何を終わらせたいの?」
まゆねは自分の胸に両手を当てた。その意味はわかる気がした。まゆねは、まゆねを終わらせたいのだ。
まゆねが交通事故で死んでから、もう十年が経っていた。そのあいだ、僕たちは楽しく過ごしてきた。少なくとも僕はそう思っていた。もう一緒に外に出かけることはできなくなったとはいえ、仕事が終わり家に帰れば小さなまゆねが出迎えてくれる。それは僕にとってかけがえのない幸せの瞬間だった。
それはまゆねにとっても同じだったと思う。僕たちは通じ合っていた。まゆねは無口だけれど、時間をかければ何を言いたいのかはよくわかった。でもそれが、だんだんわからなくなっていった。それなのに、僕はあいかわらずわかったふりをつづけていた。そしてひとりで楽しみ、自分の幸せを少しでも引き伸ばそうとした。まゆねの気持ちを置き去りにして。
「終わりにするって、どうすればいい?」
僕はかすれた声でまゆねに訊いた。まゆねはただ黙って僕を見つめた。まゆねを終わりにするのはまゆねではない。これは僕の問題だった。僕は急に強烈な疲労に襲われた。これまでずっと疲れていたことに初めて気づいたかのように。
まゆねが車にはねられた交差点に、僕は今でも花をたむけつづけていた。その習慣をやめたら、もうまゆねは僕のそばから消えてしまうと信じていた。僕は毎食、まゆねの分の料理も小さなお皿によそって出した。まゆねはもう何も食べられなくなっていたが、何かの拍子で食べたくなる日がくるかもしれないと思っていた。
そんな僕のふるまいを、まゆねはどう思っているのか。一度も訊いたことがなかった。
「今までみたいなやり方は、もうやめにした方がいいということかな」
まゆねはうなずいた。
僕はまゆねを居間に残して寝室に下がった。着替えもせずにベッドに倒れ込み、過去のことと未来のことを延々と考えた。まゆねがいた時間のこと。まゆねがいなくなった時間のこと。それらは完全に切り離されていた。だから、どちらが現実なのか僕にはどうしてもわからなかった。そして現在は何よりも空虚だった。
今さらまゆねをつづけられるわけはなかった。このまま朝が来て、寝室を出れば、まゆねは消えているだろう。彼女はもういないのだ。十年前にまゆねは死んだ。僕はまゆねの肉体の死を、まゆね自身の死と切り離せると信じていた。僕が現実から目を背ける限り、まゆねは僕の前に現れた。
「もう、眠りたい?」
僕はベッドの上でつぶやいた。返事はなかった。しばらくして、それが誰に向けた言葉なのかを考えた。
僕の中で何かが死んでいった。そして、僕は十年ぶりに眠った。
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