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バスケットをテーブルにおいて

母は買ってきたものを冷蔵庫に詰め込んでいく

ソーセージ 卵 ほうれん草 梅干し

マヨネーズ ちりめんじゃこ 納豆 牛乳

トマトは窓辺の小さなかごに入れて

根菜類は冷暗所代わりの納戸に保存する


そんな動作を私は何千回見ただろう

それなのに思い出せるのは同じひとつのシーンだけ

何年一緒に暮らしたとしても

記憶は容赦なく圧縮されてしまう


母はよくお菓子をつくってくれた

私はチーズが苦手なのに

母のつくるチーズケーキだけは好きだった

カラメル色に焼けた上面にフォークを差し入れ

分厚いクッキーのような底面を力を込めて割った

味はうまく思い出せない

でも母のつくるお菓子のなかで一番好きだった


ときどき気まぐれにチーズケーキを買ってみる

そして母のと似ても似つかぬ味にがっかりする

母はあれをチーズケーキと言っていたが

本当はもっと別の名前があったのではないか


あのチーズケーキを再び食べられたとしても

時間は二度と戻ってこない

私はノスタルジーに浸りたいわけではない

ただ失われた時間への手がかりを探しているのだ

私の中にあのときの子どもはまだ生きているのか

今の母はあのときの母とどうつながっているのか

それがずっとわからずにいる

親密な時間から断ち切られてしまい

宇宙に放り出されたように私は漂う


どんなに正確に思い出したつもりでも

思い出すたびにちがう場所に出てしまう

そして目的地からどんどん離れていく

本当にあの幸福な時間はあったのか

記憶は日々上書きされ 脱落する


私が死ぬとき

すべての記憶が走馬灯としてよみがえるとしたら

そこに母と幼い私もいるだろうか

溺れ死ぬ人のあぶくの中で

私たちのお八つは永遠につづく

その永遠に

生きているうちは決して手が届かないとしても

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