37
弟妹の泣き声を聞きつけ
兄は戻ってきた
息を切らして
足元を泥だらけにして
兄の姿を見て
弟妹は息をのんだ
兄は死んだのだ
戦争に行って
チフスにかかり
苦しみもだえ死んだという
勇ましい兄の姿だけを弟妹は覚えていた
自分の肩に国の命運がかかっている
そう信じる兄の顔は自信に満ち
そして誇らしげだった
そんな兄が何の戦果もあげることなく
野戦病院でのたうちまわり
動物のような鳴き声をあげながら死んでいったとは
弟妹たちには想像もできなかった
死んだはずの兄は
頬がこけていた
肌は青白いというより土色で
手の甲は老人のように節くれ立っていた
目はぎらぎらしていた
まるでたった今
人を殺してきたように
どうした
兄が戻ってきたのだぞ
お前たちの泣き声を聞いて
居ても立ってもいられず戻ってきたのだ
兄の声はぼろぼろと崩れていくようだった
空気を震わす力もなく
それなのにねっとりと
弟妹の心にじかに入り込んでくるのだった
おかえりなさい
弟が言った
おかえりなさい
妹が言った
そこに喜びはなかった
兄は家に上がらなかった
弟妹に勧められても
玄関の敷居のところで立ち往生していた
どうしても足が上がらないんだ
兄は言った
よく見ると
足がチョコレートのように溶けていて
床との境が消えかかっていた
妹が小さな叫び声を上げ
弟が妹の腕を小突いた
兄は家に上がるのを諦め
玄関に座り込んだ
今や腰までどろどろに溶け
あたりは澱んだ沼のようだった
すまないな
こんなところで座り込んで
すっかり疲れてしまったんだ
風呂を沸かしてくれないかな
さっぱりしたい
そうして一晩眠れば
また元気になるだろうから
どろどろは兄の口元のあたりまで迫っていた
声が次第にぼやけてきて
弟妹はそれに引きずり込まれるように
眠たくなっていった
お兄様は死んだのよ
妹が言った
どろどろが何か言った
声はもう言葉にならず
怒っているのか
困惑しているのかもわからなかった
かわいそうに
自分が死んだことにも気づいていないのね
もうお兄様のお葬式は終わったわ
お坊様がお経を読んで
戒名もつけてくれて
お兄様は墓地で眠っているのよ
どうして起きてしまったの?
死んだ人が生き返って
私たちが喜ぶと思ったの?
もう兄の姿は泥ですらなかった
どろどろが次第に晴れてきて
玄関に並ぶ弟妹の靴が見えてきた
弟はずっと黙っていた
夢を思い出そうとする人のように
兄がいたところをただ見つめていた
妹の泣き声が聞こえた
しかしそれも
どこか遠くから聞こえてくるようだった
弟は風呂を沸かした
湯気の立つその水面を黙って眺めた
そこに兄の形が再び現れるのを待った
しかし何も起きなかった
弟は風呂釜に蓋をして
寝床に向かった
妹はもう布団に入っていた
しかしまだ起きているのは明らかだった
弟はその隣の布団に入った
布団の中はすっかり冷え切っていた
寒いな
弟は言った
妹は答えなかった
風呂沸かしたから
入ってきてもいいぞ
妹は答えなかった
弟も風呂に入りたいとは思わなかった
今ごろ兄が入っているかもしれない
まだそんな気がしていた
死んだことに気づかなければ
兄は幸せだったのだろうか
風呂を泥だらけにして
妖怪のようにくつろぐ兄の姿を思い浮かべた
野戦病院で死んだ兄が
最後に風呂に入ったのはいつだったろう?
風呂くらい入れてやれば良かったかな
隣の妹のすすり泣きが止まず
弟はなかなか寝つけなかった
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