第34話 我が子を聖人聖女に育てたい親はいかがなものか
私の父は私が幼少の頃からこう言い聞かせてきた。
正しい人間になれ、
人に迷惑をかけず、誠実な人となれ。
人は人のために生きるのだ。
世の人々のために尽くす喜びを知れ。
それを何度も聞かされてきた私は、父の願い通りの人間になったと自負している。
金に困っている他人に借金をねだられて貸したはいいが踏み倒されたりドロンされたことがあるし、「今日は一件も契約が取れなかった」と嘆く日本経済新聞のセールスマンに泣きつかれて読みたくもない日経新聞を六か月も契約してやったことだってある。
何より人件費を抑えたい企業のために誰もやりたがらない低賃金の底辺労働や派遣社員の仕事を長年にわたりやってきたんだから、人のために生き、世の人々のために尽くしていないとは父も含めた誰にも言わせない。
ただ人に尽くす喜びがいまだ分からない。
ていうか腹立たしいと思うのはなぜだろう?
少々だまされた気もするし。
そして私は決して幸福ではない。
得るはずだった幸福も何割かは他人に明け渡したような気がするのは間違っていることだろうか?
他人に差し伸べた手はいずれ自分に返ってくるとでも父は言いたかったのかもしれないが、私の49年の人生においてそんな現象の発生はまだ確認されていない。
父は私を人のためなら自己の犠牲を厭わない聖人君子にしようとしてたんだろうか?
だとしたら私の資質を大きく見誤っていたようだ。
私にプロ野球の選手になる資質がなかったのと同じくらい聖人君子になる資質がなかった。
他人に尽くした結果、利用されるのを喜びとする趣味はないのだから。
なのにそれを目指した生き方をしてしまい、それは矯正されることなく現在に至っている。
今の私なら、我が子がいたら「少々曲がっててもいいし、多少不誠実でもいいから自分のために生きろ」と言うだろう。
子供の幸せを願うなら、息子や娘を聖人聖女に育てようとしてはならない。
歴史を見てもわかる通り、聖人聖女ってのは一般人に比べて結構な確率で悲惨な末路をたどってるんだから。
私もそこまでではないだろうが、同じ道をたどりそうだ。
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