第4話 豊かな感受性は人生を不幸にする

ADHDの人間は感受性が豊かでこだわりが強いとされる。

私もご多分に漏れず感受性が豊かな方だと思う。


この感受性が豊かであることは美徳であるとされるようだが、私は断固否定したい。

これまで生きてきた中において豊かな感受性のおかげで利益を得たことより、不利益を被ったことの方が圧倒的に多いからだ。


だいたい感受性が豊かってことは余計なことを考えてしまったりちょっとしたことでも気にしてまうってことではないだろうか?

だから単純に物事を考えることができず、難しく考え込むあまり理解が遅れる。

また、冷静さや慎重さが必要な場合でも余計な感傷が入って誤った判断をしやすいし、ついつい情にほだされて自分に不利益になるような頼みごとを引き受けてしまったことも数限りない。


もう一つ豊かな感受性を持っていることの恐ろしいところはショックや影響を受けやすく、長期間にわたって忘れることができず、その後の行動に影響を与えかねないことだ。

つまり、切り換えや立ち直りが遅いってことである。

傷つきやすいガラスのハートとも表現する人もいるが、私の場合自分を傷つけた奴を恨み続け、報復できないもどかしさに何十年もムシャクシャしたりもする。

小学校五年生の時に私を鼻血が出るほど殴りつけた油川清徳や、中学三年生の修学旅行の宿屋で私に自慰を強要した池本和康などはいまだに殺害を夢想しているくらいだ。


感動や感慨、歓喜も人一倍感じる反面、衝撃や落胆、怒り、恨みも人一倍なのである。


こんな特性を持つことがどれだけ生きることに不都合なことか。


「気にするな」とか「考えすぎるな」とか気安く他人は言うが、できない相談だ。

持って生まれて幼児期に確立された性格は絶対に変えられるわけがない。

ガラスのハートを強化防弾ガラスのハートに取り換えることはできないのである。


感受性が豊かというのは人体で言ったら免疫力が低いことに相当すると信ずる。

免疫力が低いと病気に感染しやすいように、ちょっとした出来事でも悪い影響やその後の人生に陰を落としやすいのではないだろうか。

精神面においては健康的な特性では決してないだろう。

感染しやすいうえに症状が重くなりがちなんだから!


感受性などいらない。

何も感じない、人としての情が全くないサイコパスのような人間になりたい。

そうなれば楽しいかどうかは分からないが、今より楽で快適に生きることができるのではないだろうか?


春に満開の桜を見ても「一期一会ならではの美しさ」だの「命の輝きと儚さ」だのゴチャゴチャ考えてしまうより、「ピンク色の花が咲いただけ」で終わる方が生きてて楽なはずだ。

満開の桜の美しさには浸れないが、散って行く寂しさは感じなくて済むのだから。


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