いつもここから、いつかここから

 エリの趣味は登山だった。


 数か月前の事故でけがをして、やっと完治して今日が退院後、初の登山だった。しかし、一緒に登った母とはぐれてしまった。順路で歩いていたから、待っていれば来るはずだが...。たぶんの写真を撮っているだけだろう。


 エリが少し待ちぼうけしていると。


「大丈夫ですか?」


 下山する青年がエリに声をかけてきた。


「大丈夫です...失礼ですけど、どこかで会ったことがありますか?」


 エリの一言に青年は、少し躊躇しているようだった。二人の間に少し微妙な間があった。


「エリ。ごめんね。ちょっと休んでいた」


 母親の声が聞こえた。母親がこっちに向かってくる。


「あら、ごめんなさい」


 母親が青年の顔を見ると、青年は少し申し訳なさそうにしていた。


「すいません。お邪魔しました。登山楽しんでください」


 青年はそう言うと、下山していった。


 エリと母親が下山をすると、入口にあの時の青年がいた。


 エリを置いて、母親が青年に声をかけた。


「どうだった?」


「いえ、全く。すいません。せっかくチャンスを頂いたのに...」


 青年が頭を下げる。


「気にしないで、あなただって辛いのに付き合わせてしまって」


「...エリちゃんがこっちを気にしてます。そろそろ戻ったほうがいいですね」


 青年がそういうと、母親はお辞儀をしてエリの元へ戻った。


「お母さん、あの人と何を話したの?」


「他愛もない世間話よ。気にしないで」


 エリと母親はバス停へ向かった。



 エリと出会ったのは登山中だった。彼女が登山中になくしたカメラを一緒に探したのがきっかけだった。


 同じ趣味をもつ友達。恋人になるのに時間はかからなかった。彼女との数か月間はこれまでの人生で一番楽しかった。


 数か月前、彼女は交通事故で記憶を無くしてしまった。最初はパニックで会話もままならなかった。家族や先生の献身的な会話で彼女は落ち着きを取り戻して、元のエリに戻った。


 しかし、事故以前の数か月の記憶が無くなっていた。自分のことを無理に思い出させて彼女を苦しめる。ぼくは彼女の両親に一つお願いをした。


「ぼくのことは言わないでほしい」


 もしかしたら、いつか思い出すかもしれない。それが今日か明日かわからない。一生思い出さないかもしれない。そんなことを思いながら、青年は写真を見ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「『カミさんがね』が口癖の天パ刑事に鬼詰めされました」ーその他短編あり 『むらさき』 @0369774

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ