揺らめき .6

 夕食の七時になった。部屋に戻ってゴロゴロしていたら、一時間はあっという間に過ぎていった。部屋にこもっていた井波に声をかける。坂本の部屋にいた権田さんもそれに気づいて、僕たちについてきた。食堂に着くと、すでに僕ら以外の人間は席についていた。女の子たちはすでに風呂を済ませたのか、昨日と同じように若干の湿度を髪に残しながら、テーブルで談笑している。


「いい匂いだ」


 権田さんは、待ちきれないといった様子で黒沢さんの前に座った。昼食はやむを得ず中断させられてしまったから、楽しみで仕方ないのだろう。僕と井波は、これまでと同じ位置に座った。僕らの着席を見届けると、浅田さんは「では、お持ちします」とキッチンに消えていった。


 夕食のメニューは、コンソメスープにジャーマンポテト。それからコロッケやカツといった揚げ物だった。昨日ほどではない、と浅田さんは言っていたが、どれも十分すぎるくらい魅力的だ。その中にはエビフライなんかもあったが、あまり好きではないのか、米山さんの皿にはその代わりに鶏のから揚げが乗っていた。


「私もそれほしいんですが」


 権田さんが指をさす。「かしこまりました」浅田さんは呆れて笑いつつも、キッチンの方からもう一つ、鶏のから揚げを持ってきた。結局、それを見た桐原さんまでずるいと言い出したので、僕含め全員の皿にから揚げが一つずつ配られることになった。まるで幼稚園児みたいなんだ。まあ実際のところ、僕としてもから揚げを貰えて嬉しかったんだけどさ。


「いただきます」と手を合わせ、僕らは黙々とそれを食べていった。昨日に比べると、会話は少ない。当然と言えば当然で、ただ食器やナイフが当たる音だけが、カチャカチャと寒々しく響いていた。もともと綺麗な路地にごみを捨てる人が少ないのと同じで、みんな周りが静かだと、話すのもためらわれるみたいだった。


「寝る前に、改めて皆さんで話し合いたいです」


 カツで口を膨らませつつ、権田さんが言った。つけていた腕時計で時刻を確認し「そうですね……」と彼は思案する。たっぷり五秒ほどの時間をかけて、彼はつづけた。


「十時とかでどうでしょう」


「いいですよ」


 響さんが頷く。反対の人は特にいなさそうだった。と言っても、あまり反対できるような空気じゃなかったんだ。なんたって権田さんは警察だからね。僕たちにその提案を断るような権利は持たされていないんだよ。


「何かわかったことでも?」


「ええ、いくつか」


 ナプキンで口を拭きながら、権田さんは「ただ……」と眉間にしわを寄せる。


「まだ解決には遠いです。何かきっかけ一つで一気に転がりそうなんですが」


「明日には警察も到着するんだから、無理に私たちだけで解決する必要もないよ」


「そうですね。一番は無事今夜を乗り切ることです」


 響さんの言葉に、浅田さんも同意した。僕としては、やっぱりちゃんと解決させたいという思いがあった。坂本のためというのもあったし、なんだかここの人たちは怪しすぎるんだ。みんな何かを隠してるんじゃないか。そんな感じがしていた。


 そうはいっても、ここで「僕たちで解決しましょうよ」なんてとてもじゃないが言えない。だってそれって、すごくミステリーオタクみたいだろう。僕はそんな黒沢さんみたいな人間にはなりたくなかった。


 当の黒沢さんはと言うと、やっぱり今日も三十分ほどで完食したようで、すぐにロビーの方へ向かって読書を始めていた。夕食となるとブーストが発動するのかもしれない。夕食こそゆっくり食べるべきだと僕は思うんだけどさ。でもとにかく、彼は一人がけの椅子に座って、昨日と同じようにコートのポケットから取り出した本を読んでいた。昨日と違うのは、このタイミングで食事を終えた人がほかに二人もいるということだ。井波と千代さんが、それに続いて立ち上がる。二人はやっぱり、食欲が戻らないみたいだった。「順平はよくそんなに食べれるね」と井波に言われたが、腹が減るのはどうしようもない。井波としても、別にそんな僕を責める気はないみたいだった。よそわれた分の半分くらいを残して、二人は部屋に戻っていく。権田さんもそれに合わせて二階に行かないといけないんじゃないかと思ったけど、どうやら彼は他人のタイミングで食事を中断されるのが嫌だったらしく、「もう嫌になるくらい部屋の写真は撮ったので」とフォークから手を離さなかった。


 僕が夕食を終えたのは、ちょうど八時くらいのことだった。ほかの人たちは、まだゆっくり食べているみたいだった。自室に戻り、入浴の準備をする。部屋にこもる井波に、「一緒に入らないか」と声をかけたけど、「一人で入りたい気分なんだ」と断られた。仕方なく、僕は替えの服や下着を持って一人エントランスから外に出る。昨日と違い雪は降っておらず、空には星がきらめていた。東京に比べると、その数は段違いだ。死んだら星になりたい。そんなセリフを思い出す。こう見えて、僕は結構ロマンチストなんだよ。でもこれだけの数があると、仮に星になれたとしても、アイデンティティクライシスに陥りそうじゃないか、と僕は思った。それはそれで結構憂鬱なことだった。しかも基本的に星と星の間にはとんでもない距離がある。きっと星になったとしたら、その生活はひどく孤独だろう。そんなことを思った。こう見えて、僕は結構リアリストなんだよ。


 脱衣所のドアを開けると、中には誰もいなかった。昨日と違い、ほかの人の服もない。貸し切りだった。服を脱ぎ、浴場に出た。雪が降っていないそこは、なんだか昨日とは違って見える。寒さでガタガタ震えながら一通り体を洗い終え、僕は湯につかった。「ああ」とジジ臭い声が漏れる。死んでいた体が、息を吹き返す。冗談とかじゃなく、本気で生き返る感じがするんだ。途中で黒沢さんが入ってきたけど、彼もやっぱり震えていた。温かいお湯につかりながら、にやにやとそれを眺める。人が震えながら体を洗っている姿というのは、かなり滑稽なものなんだよ。さっき自分も同じ状況だったくせにね。人間ってのは、喉元過ぎると寒さを忘れちゃうもんなんだよ。


「高津くんはさ」


 いくらでもほかにスペースはあるのに、わざわざ僕の隣に座ってきた黒沢さんが湯の中で足を組みながら言う。


「死についてどう思う?」


「なんですかいきなり」


「いやさ、私も昔、知り合いを亡くしてね」


 黒沢さんは、過去を思い出すみたいに首を少しだけ上に向けた。その横顔からは、なんの感情も読み取れない。悲しいのか、怒ってるのか。むしろあらゆる感情が、そこには込められている気がした。


「嫌なやつだったんだ。もう救いようがないくらいにね。空気が読めないやつでね、内心私は彼のことを嫌っていた」


 パシャっと彼が水面を叩く。その波紋はゆっくりと奥の方へ進んでいき、石の壁に当たって消えた。


「でもいざ亡くなると、不思議とそんなに悪いやつじゃなかったんじゃないかって、そんな気がしてくるんだ」


「…………」


「人間にとって一番の化粧品は死だよ」彼は言う。


「でもそれって、ひどく死者を蔑ろにしている気がするんだ」


「なるほど」


 僕は曖昧な感じでそれに答えた。つまるところ、僕は彼が何を言いたいのかさっぱりわからなかった。もしかしたら僕を慰めようとしてくれているのかもしれなかったけど、それでも僕はやっぱり、いまいちわからなかったんだ。


「死んだ人に抱くイメージは、その人が生きていた時にその人に対して抱いたイメージと同じものであるべきだ。美化しすぎてもいけないし、恨みすぎてもいけない」


 僕は何も言わずにただそれを聞いていた。言葉が見つからないっていうのもあったけど、何より黒沢さんは一人で話したいみたいだった。


「でも問題は、その人に対して自分がどういうイメージを持っていたのかっていうのが、その人が死んでしまった後では確認できないことなんだよ。記憶っていうのはさ、曖昧なものだから、時間が経てば経つほど勝手に補完されていってしまう。だから私が君に言いたいのはね、この今の気持ちを、坂本さんに対して抱いていたイメージを、できるだけ忘れないようにしてほしいってことなんだ。そうすればきっと、彼女は君の心の中で生き続ける」


「はい」僕は頷いた。


「なんの慰めにもならないだろうけどね」


 黒沢さんはふーっと大きく息を吐くと、目を閉じてしまった。勝手に話しかけてきて好きなことを言うだけ言っておしまいなんだ。なんなんだよ、と思わなくもなかったけど、その話は彼なりに僕を気遣ってくれたのかもしれないし、とるに足らないもの、というほどのものでもなかった。


 僕は結局、一時間くらい風呂につかっていた。あとから入ってきた黒沢さんの方が先に出たくらいだ。この時の僕は何か考えていたようだけど、あとになってみると、その実、頭の中はごちゃごちゃしてて、何も考えられてなかったんじゃないかな。全裸の響さんが脱衣所から浴場に出てきて、それでようやく僕は湯から出る気になった。ちょっとくらくらしていたね。でも何も考えられないくらいの方が、ちょうどいい気もしていたんだ。

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