揺らめき .5

 それから十分くらい権田さんと他愛のない会話をして、僕も坂本の部屋から出た。ちょうど桐原さんの部屋から小倉さんが出てくるところだった。彼女は僕に軽く会釈すると、自分の部屋に戻っていく。何か声をかけようかとも思ったけど、あまりいい感じの話題が見つからなかったので僕は黙ってそれを見送った。こういう時、考えなしに声をかける人がたまにいるけど、話題がないと迷惑だからね。僕はそんな当たり屋みたいなことはしたくなかった。


 とはいえ、このまま部屋に戻ってもさっきのようにつまらないことばかり考えてしまうだけな気がする。僕は隣の自室に入ることなく、その足で階段を下りた。


 ロビーに降りると、浅田さんが食堂のところのドアから出てきた。きっと目が覚めたのだろう。昼食の時と比べると、幾分かすっきりした顔をしている。彼は僕の姿を見つけると、こちらに向かって歩いてきた。髪は若干乱れているが、それでも僕の寝癖に比べたら何倍もマシだった。


「これはこれは、だらしないところをお見せしてすみません」


 手で髪を撫でながら、彼は言った。僕としては、こんなのは全然乱れたうちに入らないんだけど、そんなところで張り合っても意味がない。僕は無意識につられてそっと前髪をいじった。


「よく眠れましたか?」


「ええ、おかげさまで」


 彼はにっこりとほほ笑んだ。


「これから大浴場の掃除をしてきます。夕食の支度はその後ですね。時間的に昨日ほどのものは出せませんが、七時にはご用意できると思います」


「楽しみにしてます」


 一礼してエントランスから出ていく浅田さんの背中を見送りながら、僕は暖炉の前のソファに腰かけた。実際、夕食は楽しみだった。こういう近くに何もない宿に泊まる時って、楽しみが食事か温泉しかないんだよ。こういう重たい空気のときなんかは特にね。


 ソファは硬すぎず柔らかすぎずのちょうどいい座り心地だった。あんまり柔らかいと逆に腰を痛めてしまうからね。ぱちぱちと音を立てながら燃える薪を見つめる。オレンジに揺らめくそれは、ずっと見ていると目がおかしくなりそうだ。それでも僕はじっと炎をにらみ続けた。いっそのことおかしくなってみたかったんだよ。馬鹿げた話だけどさ。そもそも僕は、視覚というものをそこまで信用していないんだ。例えばエスカレーターに乗ってるときなんかにさ、僕の前に誰かが立っていたとする。当然僕はその後ろで立ち止まっているわけだけど、そういうときにさ、もしかしたらこの前に立つ人は僕にしか見えていないんじゃないかって、そんなことを考えちゃうんだよ。幽霊とかそういう話じゃなくてね。僕の後ろに並ぶ人からしたら、前ががら空きなのに、僕が一人立ち止まっているように見えてるんじゃないかって思っちゃうわけだよ。もちろん、そんなわけないのは知ってるよ。でもさ、もしもって考えちゃうんだ。そういう時、僕は持っている傘なんかで前の人の踵をちょんと触ったりするわけだ。そうして触覚を通してようやく、僕はその人の存在を心の底から認められるんだよ。おかしな話だけどさ。


 そうやって僕が瞳孔を焼いていたら、階段から誰かが降りてきた。僕の目はもうすっかりイカれてしまっていたから、その人の方を見ても真っ黒で、誰なのか判別できなかった。もしかして失明するんじゃないかって、この時はかなり焦ったね。でもしばらくしたら、世界が色を取り戻し始めた。僕は安心しつつ、彼が僕の隣に腰かけるのを眺めていた。


「ここ、いいかな?」


 降りてきたのは、響さんだった。彼はずっと部屋で千代さんと一緒にいたらしく、少し疲れた表情をしていた。過剰なほど神経質になった人って、そばにいる方もなかなかに神経を使うもんなんだよ。さっきの黒沢さんの話を思い出して、僕は少しだけ警戒しつつ頷いた。


 隣に座ったくせに、彼はあまり進んで話しかけてこようとはしなかった。無言のまま暖炉を見つめてるんだ。もしかすると彼も目を焼きたかったのかもしれないね。でもカップルでもないのに二人並んで暖炉を眺めてるのって、結構つらいものなんだよ。無言ならなおさらね。


「千代さんの様子はどうですか?」


 それで僕は、自分から話題を振ることにした。


「それがよくわからないんだ」響さんは困ったように言う。


「昔から神経質なところはあったけど、ここまで取り乱しているのは初めてでね。人が亡くなってるわけだから、無理もないことだとは思うんだが……」


「ずっと部屋に?」


「そうだね。必要以上に誰かと話したくないみたいだ。私も同じ部屋にいるけど、極力話しかけたりはしないでいるよ」


 暖炉から目を話して、響さんは苦笑した。


「かといって、ピリピリしている人のそばで寝るわけにもいかないだろう。どういうわけか昨晩も目が覚めちゃったし、疲れが取れていないんだけどね」


 そういうと彼は口元に手を当ててあくびを噛み殺した。夫婦なんだから気にしなければいいのに、と思わなくもなかったが、長年一緒にいる二人なりに気を使うところもあるのだろう。逆に言えばそういう思いやりが、結婚生活を長続きさせる秘訣なのかもしれない。


「一時頃、響さんはすでに寝ていたんですよね?」


 正直、僕は相川夫妻のことを疑っていた。黒沢さんが嘘をついている可能性ももちろんあるけれど、それでも疑惑がある以上、これまでのように信じるわけにはいかない。芸能人のゴシップ記事でスポンサーが降りるようなものだよ。疑わしきは罰せず、と言いつつも、結局なんだかんだみんな距離を置くんだ。


「十一時に寝付いたからね」


「千代さんはどうですか?」


「千代? 彼女はいつも私より寝るのが遅いからね。だけど夜は部屋から出ないんだ。昨日もそうだったはずだよ」


「でもトイレの件で浅田さんを呼んだと」


「十二時半のことだろう? 一時には彼女は部屋にいたよ」


「いたよって、響さんはその時間寝てたんですよね? じゃあわからないじゃないですか」


 ついつい熱くなって、僕は響さんを問い詰めた。実際、前のめりになっていたんじゃないかな。だって怪しいだろう。だから僕はそこのところ、はっきりさせたかったんだ。


「確かに私は寝ていたよ。だけど隣接するベッドで寝てるんだ。そう何度も彼女が立ち上がったりしていたら、さすがの私も目が覚める」


「本当に? ついさっき、夜中に目が覚めるのは珍しい、みたいな発言をしてましたけど」


「君は私たちを疑ってるのか?」


 ぎゅっと響さんがこぶしを握る。どうやら、とうとう怒りだしてしまったみたいだった。温厚そうな彼のその姿は、そのギャップゆえかそれなりに迫力があった。


「そういうわけじゃありませんよ。ただ僕はそこのところ、はっきりさせたかったわけです」


 僕は両手を軽く上げながら、降参にも似たポーズをとった。人を煽って怒らせるようなことをしたくせに、実際面と向かって怒りをぶつけられると委縮しちゃうんだよ。情けない話だけどさ。


「……まあいい。君たちからしても、大切な友人を殺されてるわけだからね」


 響さんは自分を納得させるみたいにため息をついた。


「実際のところ、彼女が何時に寝たのかはわからないよ。でも一時四十五分ごろ、私の目が覚めた時には、間違いなく彼女は寝ていたよ」


 響さんはそう言うと、もう僕と会話する気がなくなったのか、すっかり目を閉じてしまった。これ以上何か話しかけるわけにもいかず、僕はこの場を離れようか迷った。その時、ちょうどもう一人、階段から降りてきた。見ると、黒沢さんだった。本を片手に持った彼は、僕らの様子に一瞬だけ怪訝そうな表情を向けると、そのまま一人がけの椅子に腰を下ろしてそれを読み始めた。昨日の夜のことといい、この人は他人の喧嘩を嗅ぎつける才能があるんじゃないかな。その上自分は一切それを気にしないのだから、なかなかに厄介なことだと僕は思った。


 しばらくぼんやりと座っていると、浅田さんが掃除から戻ってきた。「どうぞ、もうお風呂に入れますよ」彼はそう言ったが、時刻は五時四十五分。あと十五分もすれば、男湯から女湯に切り替わってしまう。つまりね、そんなことを言われたって、お風呂になんか入れやしないんだよ。僕は「ありがとうございます」とだけ言って、自分の部屋に戻ることにした。

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